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  参考文献
  『資本論』第1巻 資本の生産過程
    向坂逸郎訳 岩波書店 1969年岩波文庫発行

  第7編 資本の蓄積過程

 ある貨幣額の生産手段および労働力への転化は、資本として機能すべき一定の価値量が経過する第一の運動である。この運動は市場で、流通部面で、行なわれる。運動の第二の段階、生産過程は、生産手段が商品に転化されれば完結するのであるが、この商品の価値は、この商品の構成部分の価値を超えるものである。すなわち、最初に前貸しされた資本に、剰余価値を加えたものを含んでいる。これらの商品は、ついで再び流通部面に投げ入れられねばならない、それらの商品を販売し、それらの価値を貨幣に実現し、この貨幣をあらたに資本に転化し、そして同じことをたえず繰り返すことが必要である。この、つねに同じ継起的な段階を通過する循環が、資本の流通をなすのである。
 蓄積の第一の条件は、資本家がその商品を売り、かくして得た貨幣の大部分を、資本に再転化することをすでに終了している、ということである。以下においては、資本はその流通過程を正常な仕方で通過することが前提される。
 この過程のさらに詳細な分析は、第2巻で行なわれる。
 剰余価値を生産する資本家、すなわち不払労働を直接に労働者から汲み出して、商品に固着させる資本家は、この剰余価値の最初の取得者ではあるが、決してその最終の所有者ではない。彼は、のちにこれを、社会的生産の全体において他の諸機能を果たす資本家や、地主などと分配せねばならない。したがって、剰余価値は、種々の部分に分かたれる。この各片が種々の範疇の人々の手に帰属して、利潤、利子、商業利潤、地代等のような種々の、相互に独立した形態を受けとる。これらの剰余価値の転化形態は、第3巻において初めて取扱われうる。


第21章 単純再生産
 生産過程は、その社会的形態の如何を問わず、連続的でなければならない。すなわち周期的にたえずあらたに、同じいくつかの段階を通過せねばならない。社会は、消費することをやめることができないと同時に、生産することをやめることもできない。それゆえに、あらゆる社会的生産過程は、不断の繋がりとその更新の絶えざる流れとして、これを見るならば、同時にまた再生産過程である。

 生産の諸条件は、同時に再生産の諸条件である。いかなる社会も、その生産物の一部分を絶えず生産手段、または新生産の要素に再転化することなくしては、絶えず生産することは、すなわち再生産することは、できない。他の事情が変わらないならば、社会がその富を同じ規模で再生産、または維持しうるのは、たとえば一年間に消費された生産手段、すなわち労働手段、原料および補助材料を、年生産物量から分離されて新たに生産過程に合体される同量の新品をもって、現物で、補償することによるほかない。したがって、年生産物中の一定量は、生産用としてなくてはならない。それは初めから生産的消費にむけられていて、大部分は、おのずから個人的消費に適しない現物形態で存在する。

 生産が資本主義的形態をとるならば、再生産もこれをとる。資本主義的生産様式においては、労働過程は、価値増殖過程の一手段としてのみ現われるのと同様に、再生産も、前貸しされた価値を資本として、すなわち自己を増殖する価値として、再生産するための一手段としてのみ現われる。資本家という経済的扮装がある人間に固着するのは、彼の貨幣が継続的に資本として機能するからにほかならない。たとえば、100ポンドの前貸貨幣額が、今年資本に転化されて20ポンドの剰余価値を生産するならば、それは来年もその後にも、同じ働きを繰り返さねばならない。資本価値の周期的増加分、あるいは活動している資本の周期的果実としては、剰余価値は、資本から生ずる収入という形態を受けとる。


 この収入が、資本家にとって消費原本としてのみ役立つとすれば、すなわち周期的に獲得されるだけ周期的に消費されるとすれば、その他の事情が変わらないかぎり、単純再生産が行なわれるのである。ところで、この単純再生産は、同じ規模の生産過程の単なる反復であるにかかわらず、この単なる反復または継続が、ある種の新たな性格をこの過程に捺印する。あるいはむしろ、単に孤立的な事象であるかのような、この過程の外観的性格を解消する。

 生産過程は、一定時間を限った労働力の購入で開始され、そして、労働の販売期限が到来し、したがって一定の生産期間、週、月、等々が経過するごとに、この開始はたえず更新される。しかし、労働者は、彼の労働力が作用して、それ自身の価値と剰余価値とを商品に実現したのちに、はじめて支払いを受ける。したがって、彼は、われわれがしばらくは単に資本家の消費原本と見なす剰余価値と同様に、彼自身への支払いの原本である可変資本をも、それが労働賃金の形態で彼の手に還流する以前に、生産しているのであって、しかも彼は、たえずこの原本を再生産するばあいだけしか使用されない。かくして、賃金を生産物そのものの分け前として表示する、第16章でⅡの項に述べた経済学者の表式が生じたノである。労働賃金の形態でたえず労働者の手に還流するものは、労働者自身によって、たえず再生産される生産物の一部分である。資本家は、もちろん貨幣で彼に商品価値を支払う。この貨幣は、労働生産物の、あるいはむしろ、労働生産物の一部分の、転化形態に過ぎない。労働者が生産手段の一部分を生産物に転化しているあいだに、彼の以前の生産物の一部分が貨幣に再転化される。今日または今後半年間の彼の労働は、先週または過去半年間の彼の労働をもって、支払われるのである。貨幣形態が産み出す幻想は、個々の資本家と個々の労働者ではなく、資本家階級と労働者階級とに着目するならば、たちまち消滅する。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産され前者によって取得される生産物の一部分を受けとるべき手形を、たえず貨幣形態で与える。この手形を、労働者は同様にたえず資本家階級に返し、かくして、彼自身の生産物のうちの彼自身に属する部分を、資本家階級から取去る。生産物の商品形態と商品の貨幣形態とが、この取引をおおいかくすのである。


 このようにして、可変資本は、労働者が自己の維持および再生産に必要とする、そしていかなる社会的生産体制においても、つねにみずから生産し再生産せねばならない生活手段原本または労働原本の、一つの特殊な歴史的現象形態に過ぎない。労働原本が彼の労働の支払手段の形態で、たえす彼のもとに流れ込むのは、彼自身の生産物が、資本の形態で、たえず彼のもとから遠ざかるからにほかならない。しかし、この労働原本の現象形態は、労働者に、彼自身の対象化された労働が、資本家から前貸しされるということには、少しも変更を加えるものではない。賦役農民をとって見よう。彼は毎週、たとえば3日間は、彼自身の生産手段をもって彼自身の畑で労働する。他の3日間は彼は領主の農地で賦役労働を行なう。彼は彼自身の労働原本をたえず再生産し、そしてこの労働原本は、彼にたいしては、第三者によって彼の労働に前貸しされる支払手段の形態を決してとらない。そのかわりに、彼の支払われざる強制労働もまた、自発的な支払われる労働の形態を、決してとらない。

 したがって、すべての蓄積から全く離れて見ても、生産過程の単なる継続すなわち単純再生産によって、長短の期間ののちにはすべての資本が、必然的に蓄積された資本、または資本化された剰余価値に転化されるのである。資本が生産過程に入ったときにはその充用者のみずから働いて得た財産だったとしても、早晩それは無等価で獲得された価値、あるいは、貨幣形態におけるその他の形態におけるとを問わず、他人の不払労働の体化物となるのである。

 われわれは第4章で、貨幣を資本に転化するためには、商品生産と商品流通とが存在するだけでは足りない、ということを見た。まず第一に、一方に価値または貨幣の所有者、他方には価値を創造する実体の所有者が、一方には生産手段と生活手段の所有者、他方には労働力の外に何も持たない者とが、互いに買い手と売り手として相対して現われねばならなかった。したがって、労働生産物と労働自体との分離、客体的労働諸条件と主体的労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり、出発点であった。


 しかし、初めには単に出発点に過ぎなかったものが、過程の単なる継続、すなわち単純再生産を介して、資本主義的生産の固有の結果として、たえず新たに生産され、永久化される。一方では生産過程が、たえず素材的富を資本に、資本家のための価値増殖手段と享楽手段に、転化する。他方では、この過程からは、絶えず労働者が、そこに入ったままの姿で出てくる―彼は、富の人的資源ではあるが、この富の自己のために実現するには、あらゆる手段を奪われている。彼が過程に入る前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家に領有され、資本に合体されているので、それは過程の続行中、たえず他人の生産物に対象化される。生産過程は、同時に資本家による労働力の消費過程であるから、労働者の生産物は、たえず商品に転化されるのみではなく、資本に、すなわち、価値創造力から吸い取る価値に、人身を買い取る生活手段に、生産者を使用する生産手段に転化される。したがって、労働者自身は、たえず客体的な富を資本として、彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、生産し、また資本家も同様にたえず労働力を、主体的な、それ自身の対象的手段、表現手段から分離された、抽象的な、労働者の単なる肉身のうちに存在する富の源泉として、簡単に言えば、労働者を賃金労働者として、生産する。この労働者の不断の再生産または永遠化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである。

 個々の資本家や個々の労働者ではなく、資本家階級と労働者階級を考察し、商品の個々の生産過程ではなく、資本主義的生産過程を、その流れとその社会的広がりとで考察するならば、事態はおもむきを異にする。―資本家が彼の資本の一部分を労働力に転化するとき、彼はそれによって、彼の総資本を増殖する。彼は一石二鳥をうつ。彼は、彼が労働者から受けとるものから利得するのみではなく、彼が労働者に与えるものからも、利得する。労働力と交換して手放された資本は、生産手段に転化され、この生産手段の消費は、現存の労働者の筋肉、神経、骨、脳髄を再生産し、新たに労働者を産むに役立つ。したがって、絶対的に必要なものの限界内では、労働者階級の個人的消費は、資本にとって労働力と引換えに譲渡された生活手段の、資本にとって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは、資本家にとってもっとも不可欠の背さん手段である労働者そのものの生産および再生産である。したがって、労働者の個人的消費は、その行なわれるのが、作業場、工場等の内部であるか、外部であるかを問わず、労働過程の内部であるか、外部であるかを問わず、いずれにしても、資本の生産及び再生産の一要因であって、このことは、機械の掃除が、労働過程中に行なわれるか、その一定の休止時間中に行なわれるかを問わず、かかつ一要因であるのと全く同じである。労働者がその個人的消費を、自分自身のために行なうのであって、資本家のために行なうのではないといことは、少しも事態を変えるものではない。それは、駄獣の食うものは、駄獣自身が享楽するのだからといって、駄獣のなす消費が、生産過程の位置必須要因であることには、少しも変わりはないのと同じである。労働者階級の不断の維持と再生産とは、依然として資本の再生産のための恒常的条件である。資本家は、この条件の充足を、安んじて労働者の自己保存本能と生殖本能とにまかせて置くことができる。彼が配慮するのは、労働者の個人的消費を、できるかぎり必要物に制限することだけであって、養分の少ない食物のかわりに、養分の多い食物をとることを労働者に強要する、かの南アメリカ的未開とは、天地の差があるのである。

 かくして、資本主義的生産過程は、それ自身の進行によって、労働力と労働条件との分離を再生産する。それは、このようにすることによって、労働者の搾取条件を再生産し、永久化する。それは、労働者には生きんがために彼の労働力を売ることを絶えず強要し、資本家には富むために、これを買うことを、絶えず可能にする。資本家と労働者とを買い手と売り手として、商品市場で互いに相対せしめるものは、もはや偶然ではない。一方の者を、たえずその労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を、たえず他方の者の購買手段に転化するものは、過程自体の仕掛である。実際には労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新、彼の個々の雇い主の交替、労働の市場価格の変動によって、媒介されると同時に、隠蔽されているのである。

 かくして、資本主義的生産過程は、関連において見るならば、すなわち再生産過程として見るならば、商品を生産するのみではなく、剰余価値を生産するのみではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し、再生産するのである。


第22章 剰余価値の資本への転化

  第1節 拡大された規模における資本主義的生産過程
     商品生産の所有法則の資本主義的領有法則への転換

 前には、いかにして資本から剰余価値が生ずるかを、考察せねばならなかったのであるが、今やわれわれは、いかにして剰余価値から資本が生ずるかを考察せねばならない。資本としての剰余価値の充用、または剰余価値の資本への再転化を、資本の蓄積という。
 
 まず個々の資本家の立場から、この事象を考察しよう。たとえば、ある紡績業者が1万ポンドの資本を前貸しし、その5分の4を綿花、機械等に、残りの5分1を労働賃金に投じたものとする。彼は、年々1万2000ポンドの価値を有する24万封度(ポンド)の撚糸を生産するものとする。剰余価値率を100%とすれば、剰余価値は、4万封度(ポンド)の撚糸という剰余生産物、または純生産物に含まれ、これは純生産物の6分の1で、販売によって実現されるべき2000ポンドの価値をもつ。2000ポンドの価値額は2000ポンドの価値額である。この貨幣を嗅いでも眺めても、それが剰余価値であることはわからない。ある価値の、剰余価値であるという性格は、それがいかにしてその所有者の手に入ったかを示しはするが、価値または貨幣の性質には、少しも変化を与えないのである。

 そこで、新たに加わった2000ポンドの額を、資本に転化するためには、すべて他の事情が不変であるならば、紡績業者は、その5分の4を綿花等の購入に、5分の1を紡績労働者の購入に前貸しし、これらの労働者は、紡績業者によって彼らに前貸しされただけの価値をもつ、生活手段を市場で見出すであろう。かくして、新たな2000ポンドの資本が紡績工場で機能し、それがまた400ポンドの剰余価値を産むのである。

 資本価値は、最初は貨幣形態で前貸しされた。これに反して、剰余価値は、初めから総生産物の一定部分の価値として存在する。総生産物が売られ、貨幣に転化されれば、資本価値は、再びその最初の形態を獲得するが、しかし、剰余価値はその最初の存在様式を変える。しかし、この瞬間からは、資本価値も剰余価値もともに貨幣額であって、それらの資本への再転化は、全く同じ仕方で行なわれる。資本家は、そのいずれをも商品の購入に支出し、これらの商品は、彼が新たに彼の製品の製造を、しかも今度は拡大された規模で、開始することを可能にする。しかし、これらの商品を買うためには、彼はそれらが市場にあるのを見出さねばならない。
 彼自身の撚糸が流通するのは、彼がその年生産物を市場に出すからであって、それは他のすべての資本家たちが、彼らの商品をもって行なうところと同じである。しかし、これらの商品は、市場にくる前にすでに年生産原本のうちに存在していたのである。すなわち、個別資本の総額、または社会的総資本が、その年のあいだに転化される、そして各個別資本家はその割当部分を保有しているに過ぎない。あらゆる種類の対象の総量のうちに存在していたのである。市場での出来事は、年生産の個々の構成部分のよりとりを、実現するに過ぎず、それらを一方の手から他方の手に移しはするが、総年生産を増大することも、生産された対象の性質を変ずることもできない。したがって、年々の総生産物がいかに使用されうるかは、それ自身の構成に依存するのであり、決して流通に依存するのではない。

 蓄積するためには、剰余生産物の一部分を、資本に転化せねばならない。しかし、奇跡でも現われないかぎりは、資本に転化することのできるものは、労働過程で使用されうる物、すなわち生産手段と、そのほかには、労働者が生活しうる物、すなわち生活手段とのみである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸資本の補填に必要だった定量を超えた追加的生産手段の生産に、充当されたのでなければならない。一言でいえば、剰余価値は、剰余生産物―その価値が剰余価値である―が、すでに新たな資本の物的構成部分を含むがゆえにのみ、資本に転化されうるのである。

 いまこの構成部分を、事実上資本として機能させるためには、資本家階級は、労働の追加を必要とする。すでに使用されている労働者の搾取が、外延的または内包的に増大しないものとすれば、追加労働力が取入れられねばならない。そのためにもまた、資本主義的生産の機構は、すでに用意を整えている。すなわち、この機構は、労働者階級を労働賃金に依存する階級として再生産し、彼らの通常の賃金は、彼らの生存のみではなく、彼らの増殖をも保証するに足りるものにしている。資本は、種々の年齢層の労働者階級によって、年々自己に供給されるこの追加労働力を、すでに年生産のうちに含まれている追加生産手段に、合体させさえすればよいのであって、剰余価値の資本への転化は、すでに完了しているのである。具体的に見れば、蓄積は累進的規模における資本の再生産に帰着する。単純再生産の循環は変じて、シスモンディの表現によれば、螺旋に転化されるのである。
 
 第一の2000ポンドの追加資本の蓄積の前提は、資本家によって前貸しされた、彼の「本源的な労働」によって彼のものとなった、1万ポンドの価値額だった。これに反して、第二の400ポンドの追加資本の前提は、先に行なわれた第一の2000ポンドの追加資本の蓄積にほかならず、その資本化された剰余価値が、第二の追加資本である。かくしていまや、過去の不払労働の所有が、たえず増大する規模において活きた不払労働を、現在占有するための唯一の条件として現われる。資本家のすでに蓄積したところが、多ければ多いほど、ますます多く彼は蓄積しうるのである。

 したがって、資本家と労働者とのあいだの交換関係は、流通過程に属する一つの外観に過ぎなくなり、内容自体とは無関係で、ただ内容を神秘化するに過ぎない、単なる形式となる。労働力の不断の売買は形式である。内容は、資本家が絶えず無等価で獲得する、すでに対象化された他人の労働の一部分を、たえず再びより多量の活きた他人の労働と交易する、ということである。最初われわれにたいして所有権は、資本家の側では他人の不払労働、またはその生産物を獲得する権利として、労働者の側では、彼自身の生産物を取得する不可能として現われる。所有と労働との分離が、外観的には、両者の同一性から出発した法則の必然的な帰結となるのである。



  第3節 剰余価値の資本と収入とへの分割。節欲説

 資本家は、人格化された資本であるかぎりにおいてのみ、一つの歴史的価値と、かの、才人リヒノフスキーの言葉で言えば、日付もないわけではない歴史的存在権とを有する。ただそのかぎりにおいてのみ、使用価値と享楽でなく、交換価値とその増加とが、彼の推進的動機である。価値増殖の狂信者として、彼は仮借なく、人類に生産のための生産を強制し、したがって、社会的生産諸力の発展を強制し、各個人の完全にして自由な発展を根本原理とする、より高度な社会形態の唯一の現実的基礎をなしうる物質的生産諸条件の創出を、強制する。資本の人格化としてのみ、資本家は尊敬すべきものであるか。かかるものとして、彼は貨幣退蔵者と絶対的至富衝動を共にする。しかし、貨幣退蔵者にあって個人的狂癖として現われるものは、資本家もあっては、社会的機構の作用であって、この機構において、彼は一働輪であるに過ぎない。さらにまた、資本主義的生産の発展は、一個の産業企業に投ぜられる資本を、必然的に、たえず増大させ、競争は各個の資本家に、資本主義的生産様式の内在的諸法則を、外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に、彼の資本を維持するために、たえずそれを拡大することを強制し、そして資本家は、ただ累進的蓄積によってのみ、それを拡大しうるのである。

 したがって、彼の行為行動が、彼において意志と意識とを賦与された資本の機能にすぎないかぎり、彼自身の私的消費は、彼にとって、彼の資本の蓄積から盗みとることになる。それは、イタリア式簿記において、私的支出が、資本にたいする資本家の借方として記入されるのと同様である。蓄積は、社会的富の世界の征服である。それは、掠取される人間材料の量を拡大すると同時に、直接および間接の資本家の支配を拡大する。


 第4節
 資本と収入とへの剰余価値の分割比率から独立して、蓄積の大きさを規定する諸事情。労働力の搾取度―労働の生産力―充用される資本と消費される資本との差額の増大―前貸資本の大きさ

 資本の蓄積における、さらに一つの重要な要因は、社会的労働の生産性の程度である。
 労働の生産力が増大すれば、一定の価値が表示される、したがってまた、与えられた大きさの剰余価値が表現される生産物量が増大する。剰余価値が不変であれば、またそれが低下しても、労働の生産力が増大するよりも、緩慢にしか低下しないかぎりは、剰余生産物の量が増加する。ゆえに、所得と追加資本とへの剰余生産物の分割が不変であれば、蓄積原本の減少なくして、資本家の消費は増加しうる。蓄積原本の比率的大いさは、消費原本を犠牲にしてさえも増大しうるが、しかも同時に商品の低廉化が、以前と同じかまたはより多くの享楽手段を資本家の処分に供する。しかし、すでに見たように、労働の生産性の増大には、実質的労働賃金が騰貴するばあいにさえも、労働者の低廉化が、したがって、剰余価値の増大が伴う。実質的労働賃金は、決して労働の生産性に比例しては騰貴しない。したがって、同じ可変資本価値が、より多くの労働力と、したがってより多くの労働とを動かす。同じ不変資本価値が、より多くの生産手段において、すなわちより多くの労働手段、労働材料、補助材料において表示され、したがって、より多くの生産物を形成するもの、ならびに価値を形成するものを、あるいはより多くの労働を吸収するものを供給する。ゆえに、追加資本の価値が、不変であるばあいには、また減少する場合にさえも、加速された蓄積が行なわれる。再生産の規模が、素材的に拡大されるのみでなく、剰余価値の生産が、追加資本の価値よりもより急速に増加する。

 労働の生産力の発展は、原資本、すなわち、すでに生産過程にある資本にも反作用する。機能しつつある不変資本の一部は、機械装置等のように、比較的長期間にのみ消費され、したがって再生産され、あるいは同種の新品によって、代替される労働手段から成っている。しかし、この労働手段の一部分は、毎年死滅する。すなわち、その生産的機能の終極に到達する。したがって、それは、毎年その周期的再生産の段階に、すなわち、同種の新品によって代替されるべき段階に達している。この労働手段の出生の場所で、労働の生産力が増大するならば、そしてそれは、科学と技術との不断の流れとともに、たえず発展するのであるが、このようなばあいには、古い機械、道具、装置等々にかわって、より有効な、そしてそれらの能率から見れば、より廉価な機械等々が現われる。たえず行なわれる現存の労働手段の細部変更は、別として、旧資本は、より生産的な形態で再生産される。不変資本の他の部分をなす原料と補助材料は、一年のあいだに絶えず再生産され、農業から生ずるものは、たいてい一年ごとに再生産される。したがってここでは、改良された方法の進歩の採用等はすべて、追加資本と、すでに機能しつつある資本とに、ほとんど同時に作用する。すべて化学の進歩は、有用素材の数を増し、既知の素材の利用を多様化し、したがって、資本の増大とともに、その投下部面を拡大するのみではない。それは同時に、生産過程と消費過程の排泄物を、再生産過程の循環内に投げ返すことを教え、したがって、先立つ資本支出を要することなくして、新たな資本素材をつくり出す。単に労働力の緊張度を高めることによる、自然的富の利用の増大と同様に、科学と技術は、機能しつつある資本の与えられた大きさには依存しないで、資本を膨張させる力を形成する。この力は、またその更新段階に入った原資本部分にも、反作用する。原資本は、旧形態の背後で実現された社会的進歩を、無償でその新形態の中に取入れる。もちろん、このような生産力の発展には、同時に、機能しつつある資本の部分的な価値減損がともなう。この価値減損が、競争によって痛切に感ぜしめられるかぎり、主たる重圧は労働者にかかる。資本家は労働者の掠取を高めることに、損害補填を求めるからである。
 
 労働は、それによって消費される生産手段の価値を、生産物に移転する。他面、与えられた労働量によって動かされる生産手段の価値と量は、労働がより生産的となるのに比例して増大する。したがって、同じ労働量は、つねに同量の新価値を、その生産物に付加するにするに過ぎないのではあるが、それが生産物に同時に移転する旧資本価値は、労働の生産性の増大とともに増加する。
 
たとえば、一人のイギリス人紡績工と一人のシナ人紡績工とが、同じ強度をもって、同じ時間数労働するものとすれば、両者は、一週間に等しい価値物を産み出すであろう。この価値の等しいにもかかわらず、強力な自動装置をもって労働するイギリス人の週生産物の価値と、紡車しかもたないシナ人のそれとのあいだには、巨大な差異がある。シナ人が一封度(ポンド)の綿花を紡ぐのと同じ時間で、イギリス人は、数百封度(ポンド)を紡ぐ。シナ人のそれよりも数百倍も大きい額の旧価値物が、イギリス人の生産物の価値を膨らませるのであって、この生産物において旧価値は新たな有用形態をもって保持され、またかくして、新たに資本として機能しうるのである。フリードリッヒ・エンゲルスが、われわれに教えるところによれば、「1782年には、過去3年間の(イギリスにおける)全羊毛収穫が、労働者の不足のために、まだ加工されずに置かれてあった。そして、もし新たに発明された機械装置が助けにきて、それを紡いでしまわなかったならば、それはなおそのままで置かれていなければならなかったであろう」。もちろん、機械装置の形態で対象化された労働は、直接には一人の人間をも、地中から呼び出しはしなかったが、しかしそれによって、少数の労働者が、相対的にわずかな活きた労働の追加によって、羊毛を生産的に消費し、これに新価値を付加しえたのみではなく、撚糸等の形態で、羊毛の旧価値をも保存しえたのである。また同時に、それによって、羊毛の拡大再生産のための手段と刺激とが、与えられたのである。新価値を創造しつつ旧価値を保存することは、活きた労働の天性である。それゆえ、労働は、その生産手段の効果、大きさ、価値の増大につれて、したがって、その生産力の発展にともなう蓄積につれて、たえず膨張する資本価値を、たえず新たな形態において保存し、そして永久化するのである。このような労働の自然力は、労働を自分に合体した資本の、自己保存力として現われるのであって、このことは、労働の社会的生産諸力が資本の属性として現われるのと、また、資本家による剰余労働の不断の領有が、資本の不断の自己増殖として現われるのと、全く同様である。商品のあらゆる価値形態が、貨幣の諸形態として投影されるように、労働のすべての力は、資本の力として投影されるのである。

 

  第23章 資本主義的蓄積の一般的法則
 

  第1節 資本組成の不変のばあいにおける蓄積に伴う労働力需要の増加

 本章では、資本の増加が、労働者階級の運命およぼく影響を取扱う。この
研究におけるもっとも重要な要因は、資本の組成と、それが蓄積過程の進行中に受ける諸変化である。

資本の組成は、二重の意味に解されねばならない。価値の側から見れば、
それは、資本が不変資本または生産手段の価値と、可変資本または労働力の価値、すなわち労働賃金の総額とに分かたれる比率によって規定される。生産過程において機能する素材の側から見れば、各資本は、生産手段と活きた労働力とに分かたれる。この組成は、一方における充用される生産手段の量と、他方におけるその充用のために必要な労働量との、比率によって規定される。私は前者を資本の価値組成と名づけ、後者を資本の技術的組成と名づける。両者のあいだには、密接な相互関係がある。この相互関係を表現するために、資本の技術的組成によって規定されその諸変化を反映するかぎりにおいての資本の価値組成を、私は資本の有機的組成と名づける。簡単に、資本の組成と言われるばあいには、つねにその有機的組成を意味するものと解せられるべきである。
 
一定の生産部門に投下されている多数の個別資本は、お互いに多かれ少なか
れ異なる組成をもっている。これらの資本の個別的組成の平均は、この生産部門の総資本の組成を、われわれに与える。最後に、すべての生産部門の平均組成の総平均は、一国の社会的資本の組成を、われわれに与え、そして結局以下では、もっぱらこれについて論ぜられるのである。

資本の増加は、その可変的構成部分、すなわち、労働力に転換される構成
部分の増加を含む。追加資本に転化される剰余価値の一部は、つねに可変資本、すなわち追加労働原本に再転化されねばならない。その他の事情が同じであるとともに、資本の組成も不変である、すなわち、一定量の生産手段または不変資本は、それが動かされるためには、つねに同量の労働力を必要とすると想定すれば、明らかに労働にたいする需要および労働者の生計原本は、資本に比較して増加し、資本が急速に増加すれば増加するほど、それだけ急速に増加する。資本は年々剰余価値を生産し、その一部分は年々原資本に付加されるから、またこの増加分そのものが、すでに機能しつつある資本の大きさの増加にしたがって、年々増加するのであるから、そして最後に、たとえば、新たに生じた社会的欲望等々によって、新市場や新投資部面が開かれるというような、致富衝動の特別な刺激のもとでは、資本と収入とへの剰余価値、または剰余生産物の分割の変化のみで、蓄積の規模が、にわかに拡大されうるのであるから、資本の蓄積欲望が、労働力または労働者数の増加を凌駕し、労働者にたいする需要がその供給を凌駕し、したがって、労働賃金が騰貴する、ということがありうる。しかも、右の前提がそのまま持続すれば、結局そうならねばならない。毎年、前年よりも多くの労働者が使用されのであるから、蓄積の欲望が、通常の労働供給をこえて増大しはじめる時期が、したがって、賃金騰貴の始まる時期が、早晩到来せざるをえない。イギリスでは、このことにかんする苦情が、15世紀の全体と18世紀の前半期を通じて聞かれる。しかしながら、賃金労働者が維持され、増殖されるのに、多かれ少なかれ有利な諸事情も、資本主義的生産の根本性格を変えるものではない。単純再生産が資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、絶えず再生産するのと同様に、拡大された規模における再生産、すなわち蓄積は、拡大された規模における再生産、すなわち蓄積は、拡大された規模における資本関係を、一方の極にはより多くの資本家またはより大きな資本家を、他方の極にはより多くの賃金労働者を、再生産する。労働力は、価値増殖手段として、たえず資本に合体されねばならず、資本から離れることができず、そして資本へのその隷属は、それが売られる個々の資本家の交替によって、隠蔽されているに過ぎないのであって、かかる労働力の再生産は、事実上資本そのものの再生産の一要因をなすものである。したがって、資本の蓄積はプロレタリアートの増殖である。

これまで想定されてきた労働者にとって、もっとも有利な蓄積諸条件のもと
では、彼らの資本への従属関係は、堪えられうる形態、あるいはイーデンの言うように「安易で自由な」形態をまとっている。それは資本の増大とともにより内包的になることなく、ただより外延的になるに過ぎない。すなわち、資本の搾取と支配との領域が、資本自体の大きさと、その隷民の数とともに拡大されるに過ぎない。次第に増大し、次第に多く追加資本に転化される隷民たち自身の剰余生産物のうちから、より大きい部分が、支払手段の形態で、彼らの手に還流してくるので、彼らは彼らの享楽の範囲を拡張し、衣服、家具等の消費原本をより充分に備え、小額の準備金をつくることができる。しかし、衣服、食物、取扱いがよくなり、特有財産が増しても、それが奴隷の従属関係と搾取とを廃止するものではないのと同様に、賃金労働者のそれらをも、廃止するものではない。資本の蓄積の結果としての労働価格の騰貴が、実際に意味するところは、賃金労働者が自分自身で鍛え上げた金の鎖の大きさと重みとが、その緊張の弛みを許す、ということに過ぎない。この問題にかんする論争においては、たいていのばあいに肝要な点が看過されてきた。すなわち、資本主義的生産の特質〔種差〕がこれである。資本主義的生産においては、労働力が買われるのは、その労役またはその生産物によって、買い手の一身の欲望を充たすためではない。買い手の目的は、彼の資本の価値増殖であり、彼が支払うよりも多くの労働を含む商品の生産であり、したがって彼にとっては何らの費用をも要せず、しかも、商品販売によって実現される価値部分を含む商品の生産である。剰余価値の生産、すなわち貨殖が、この生産様式の絶対的法則である。労働力は、それが生産手段を資本として維持し、それ自身の価値を資本として再生産し、そして不払労働において、追加資本の源泉となるものを供給するかぎりにおいて、売られうるものである。したがって、労働力の販売の諸条件のうちには、それらが労働者にとって有利であるか、不利であるかには係わりなく、労働力の不断の再販売の必然性と、資本としての富の絶えず拡大される再生産とが含まれる。すでに見たように、労働賃金は、その性質上、つねに労働者の側における一定量の不払労働の提供を含んでいる。労働価格の低下を伴う労働賃金の騰貴は全く別としても、労働賃金の増加は、せいぜい労働者がなさねばならない不払労働の量的減少を、意味するにすぎない。この減少は、それがその制度そものもを脅かすに至るような点までは、決して進行しえない。労働賃金の率にかんする激烈な衝突を別とすれば、そしてかかる衝突においては、やはり雇い主がつねに各人であることは、すでにアダム・スミスの示したところであるが、資本の蓄積から生ずる労働価格の騰貴は、次ぎの二つのばあいのいずれかに当たるものである。 
 
 一つのばあいには、労働価格の上昇が蓄積の進行を妨げないので、その上昇が続く。これは何ら驚くべきことではない、なぜならば、アダム・スミスは言う、「利潤が低下しても、資本は増加する。それは以前より急速にさえも増加する。・・・一般に大資本は、その利潤の小さいばあいにも、利潤の大きいばあいの小資本よりも、急速に増大する」。このばあいには、不払労働の減少が、決して資本支配の拡大を妨げるものでないことは、きわめて明瞭である。―あるいは、第二のばあいには、労働価格の騰貴の結果、利潤の刺激が鈍くなるので、蓄積が衰える。蓄積は減少する。しかし、その減少とともに、その減少の原因が消滅する。すなわち、資本と搾取されうる労働力とのあいだの不均衡が消滅する。したがって、資本主義的生産過程の機構が、自分で一時的につくり出す障碍を、みずから除去するのである。労働価格は、再び資本の価値増殖欲望に適応する水準まで低落する、いまやこの水準が、賃金増加の始まる前に標準的とされた水準よりも低いか、高いか、あるいはそれと同じであるかは別として。要するに、第一のばあいには、労働力または労働者人口の絶対的、または比例的増加の減退が、資本を過剰にするのではなく、逆に資本の増加が、搾取されうる労働力を不足にするのである。第二のばあいには、労働力または労働者人口の絶対的または比例的増加の増進が、資本を不十分にするではなく、逆に資本の減少が、搾取されうる労働力、またはむしろその価格を過剰にするのである。資本の蓄積におけるこの絶対的諸運動こそ、搾取されうる労働力の量における相対的諸運動として反映するものであり、したがって、労働力の量自体の運動に起因するかのように見えるものである。数学的表現を用いて言えば、蓄積の大きさは自変数、賃金の大きさは他変数であって、その逆ではない。たとえば、産業循環上の恐慌期には、商品価格の一般的下落が、相対的賃金価値の上昇として表現され、また繁栄期煮は、商品価格の一般的騰貴が、相対的貨幣価値の下落として表現される。このことから、いわゆる通貨学派は、高物価のときには流通する貨幣が多すぎ、低物価のときには少なすぎるのであると結論する。彼らの無知と完全なる事実誤認とは、前述の蓄積の諸現象を、一方のばあいには賃金労働者が少なすぎ、他方のばあいには多すぎるからである、と解しようとする経済学者たちにおいて、似合いの対を見出すのである。

 「自然的人口法則」と称するものの根底に横たわる資本主義的生産の法則は、簡単に次のことに帰着する。資本、蓄積および賃金率のあいだの関係は、資本に転化された不払労働と追加資本の運動に必要な追加労働との関係にほかならない。したがってそれは、二つの相互に独立した大きさの、すなわち一方における資本の大きさと、他方における労働者人口の数との関係ではなく、むしろ結局は、同じ労働者人口の不払労働と支払労働との関係であるに過ぎない。労働者階級によって供給され、資本家階級によって蓄積された不払労働の量が、支払労働の異常な追加によらなければ資本に転化されないほどに急速に増加するならば、賃金は増加し、そして他のすべての事情が同じであるとすれば、それに比例して不払労働は減少する。しかしこの減少は、資本を養う剰余労働が、もはや標準的な量をもっては、供給されなくなる点に触れる否や、反動が始まる。資本化される収入部分は小さくなり、蓄積は衰え、賃金の上昇運動は、反撃を受ける。したがって、労働価格の騰貴は、資本主義制度の基礎を侵害しないのみではなく、増大する規模における、その再生産をも保証する限度内に閉じ込められている。したがって、一つの自然法則に神秘化された資本主義的蓄積の法則が、実際に表現するところは、資本関係の不断の再生産と、絶えず拡大される規模におけるその再生産とに重大な脅威を与えうるような労働の搾取度の低下、または労働価格の騰貴は、すべて資本主義的蓄積の本性によって排除される、ということに過ぎない。労働者の発展欲望のために、対象的富が存するのではなく、逆に現存価値の増殖欲望のために、労働者が存在するという生産様式においては、かくなるほかはないのである。人間は宗教というもので、彼自身の手の製作物に支配されるのである。



 第2節
 蓄積とそれに伴う集積との進行中における可変資本部分の相対的減少

 経済学者たち自身の意見によれば、賃金の上昇を誘致するものは、社会的富の現存量でも、既得資本の大きさでもなく、単に蓄積の継続的増大と、その増大の速度とである(アダム・スミス『諸国民の富』)。これまでわれわれは、この過程の一特殊段階のみを考察したのであって、ここにおいては、資本の技術的組成は不変のままで、資本の増加が行なわれた。しかし過程はこの段階を越えて進む。

 ひとたび資本主義体制の一般的基礎が与えられたならば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積のもっとも強力な槓杆となるが点が、必ず現われる。アダム・スミスは言う、「賃金を高くするのと同じ原因、すなわち資本の増加は、労働の生産的能力を増進させて、より少量の労働でより多量の生産物を生産することを可能にする」

 土地の豊度のような自然諸条件は別とし、また、大量の製品で量的に認められるよりも、むしろその品質において質的に認められるような、独立して単独に労働する生産者の熟練を別とすれば、労働の社会的生産度は、一人の労働者が、与えられた時間内に労働力の同じ緊張をもって、生産物に転化する生産手段の相対的分量で表現される。彼がそれをもって働く生産手段の量は、彼の労働の生産性とともに増大する。この生産手段は、その際、二重の役割を演ずる。ある生産手段の増大は、労働の生産性の結果であり、他の生産手段の増大は、その条件である。たとえば、工場手工業的分業および機械装置使用とともに、同じ時間により多くの原料が加工され、したがって、より多量の原料と補助材料が労働過程に入る。これは労働の生産性の増大の結果であるが、他面では、使用される機械装置、役畜、鉱物性肥料、配水管等の大量は、労働の生産性の増大の条件である。建物、巨大な炉、運輸機関等に集積された生産手段の大量も同様である。しかし、条件であるにせよ結果であるにせよ、それらに合体される労働力に比較された、生産手段の大いさの増加は、労働の生産性の増大を表現する。したがって、労働の生産性の増加は、それによって動かされる生産手段の量に比した労働量の減少において、あるいは、労働過程の客体的諸要因に比した、その主体的要因の大きさの減少において現われる。

 資本の技術的組成におけるこの変化、すなわち、生産手段を活かす労働力の量の増大は、資本の価値組成に、すなわち、資本価値の可変的組成部分を犠牲にしたその不変的組成部分の増加に反映する。たとえば、ある資本について百分率で計算してみれば、最初は50%が生産手段に、50%が労働力に投ぜられたのが、後には、労働の生産度の発展とともに、80%が生産手段に、20%が労働力に投ぜられる、というようになるのである。この、可変資本部分に比較した不変資本部分の漸増の法則は(すでに前に説明したように)、商品価格の比較分析によって、一歩ごとに確証されるのであって、その際われわれがただ一つの国民をとって、種々の経済的時期を比較しても、同じ時期における種々の国民を比較しても、このことに変わりはない。消費された生産手段の価値、すなわち、不変資本部分のみを代表する価格要素の相対的大きさは、蓄積の進歩に正比例し、労働の代価を支払う他の価格要素、すなわち可変資本部分を代表する価格要素の相対的大きさは、一般に蓄積の進歩に逆比例するであろう。

 しかし、不変資本部分にたいする可変資本部分の減少、あるいは資本価値の組成の変化は、資本の素材的諸構成部分の組成上の変動を、ただ近似的に示すに止まる。たとえば、紡績に投ぜられた資本価値は、18世紀の初めには、2分の1が不変部分で2分の1が可変部分たったのに、今日では8分の7が不変部分で、8分の1が可変部分であるとしても、今日一定量の紡績労働が生産的に消費する原料、労働手段等の量は、18世紀の初めにおけるよりも何百倍も大きいのである。理由は単に、労働の生産性の増大するとともに、労働によって消費される生産手段の量が増大するのみではなく、その量に比して、その価値が低下する、ということである。すなわち、その価値は絶対的には増大するが、その量に比しては増大しない。ゆえに、不変資本と可変資本との差の増大は、不変資本が転化される生産手段の量と可変資本が転化される労働力の量との差の増大よりも、はるかに小さい。第1の差は第2の差とともに増加はするが、しかし、その程度はより低いのである。

 なお、蓄積の進歩は、可変資本部分の相対的大いさを減少させるとはいえ、それと同時に、その絶対的大いさの増大を排除するものでは決してない。ある資本価値が、初めは50%の不変資本と50%の可変資本とに分かたれ、後には80%の不変資本と20%の可変資本とに分かたれると仮定する。その間に、たとえば、6000ポンドの最初の資本が1万8000ポンドに増加したとすれば、その可変的構成部分も、また5分の1増加したのである。それは3000ポンドだったのが、今では3600ポンドである。しかし、労働にたいする需要を20%増すためには、以前には20%の資本追加で足りたであろうが、今では最初の資本を、3倍することが必要なのである。

 労働の社会的生産力の発展が、いかに大規模の協業を前提とするものであるか、いかにただこの前提のもとにおいてのみ、労働の分割と結合とが組織され、生産手段が大量的集積によって節約され、たとえば、機械装置の体系等のような、素材的にもただ共同的にのみ使用されうる労働手段がつくり出され、巨大な自然力が生産への奉仕を強制され、科学の技術的応用への生産過程の転化が遂行されうるのか、これらのことは第4編で示された。生産手段が私人の所有物である商品生産、したがって、そこでは手の労働者は、単独で独立に商品を生産するか、または、自己経営のための資力を欠くために、その労働力を商品として売るか、するのほかはない商品生産の基礎の上では、かの前提においてのみ、実現される。商品生産の地盤は、ただ資本主義的形態となって初めて、大規模生産を担うことができる。したがって、個々の商品生産者の手におけるある程度の資本蓄積が、特殊的に資本主義的な生産様式の前提をなす。それゆえ、われわれは、手工業から資本主義的経営への移行に際しては、このような蓄積を想定せねばならなかった。それは本源的蓄積と呼ばれてよい。それは、特殊的に資本主義的な生産の歴史的結果ではなく、その歴史的基礎だったからである、このような蓄積そのものがいかにして生ずるかは、ここではまだ研究する必要はない。それが出発点をなすということだけで充分である。しかし、この基礎の上で成長する、労働の社会的生産力を増大させるためのすべての方法は、同時にまた、それ自身蓄積の形成要素である剰余価値、または剰余生産物の生産を、増加させる方法でもある。したがって同時に、資本による資本の生産の方法、あるいは加速度を加えられた資本の蓄積の方法である。

 剰余価値の資本への継続的再転化は、生産過程に入る資本の大いさの増大として表示される。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それにともなう労働生産力の増加方法、したがって、剰余価値の加速的生産の基礎となる。かくして、ある程度の資本蓄積が、特殊的に資本主義的な生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた、逆に資本の加速的蓄積を生ぜしめるのである。したがって、資本の蓄積とともに、特殊的に資本主義的な生産様式が発展し、そして特殊的に資本主義的な生産様式とともに、資本の蓄積が発展する。この二つの経済的要因は、それらが相互に与え合う刺激に複比例して、資本の技術的組成における変化、すなわち、それによって不変的組成部分に比して、可変的組成部分が絶えずますます小さくなるという、変化を生ぜしめるのである。

 各個別資本は、生産手段の大なり小なりの集積で、それに相応する大なり小なりの労働者軍にたいする指揮権を具えたものである。おのおのの蓄積は、新たな蓄積の手段となる。それは、資本として機能する富の量の増加とともに、個別資本家の手におけるこの富の集積を、したがって、大規模生産と特殊的に資本主義的な生産方法との基礎を拡大する。社会的資本の増大は、多数の個別資本の増大として行なわれる。他のすべての事情が変わらないものと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらが、社会的総資本の可除部分をなすのに比例して増大する。同時に原資本からは若枝が分離して、新たな独立資本として機能する。その際には、なかんずく資本家家族内の財産の分割が、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積とともに、多かれ少なかれ資本家の数も増加する。直積に蓄積に基づく、あるいはむしろ蓄積と同じものであるこの種の集積は、二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手における社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が不変であれば、社会的富の増加度によって制限されている。第二に、社会的資本の、各特殊生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに分配されている。彼らは互いに競争する独立の商品生産者として相互に対立する。したがって、蓄積とそれにともなう集積とが、多くの点に分散されているのみではなく、機能しつつある諸資本の増大が、新たな資本の形成と古い資本の分裂とによって、阻碍されているのである。かくして、蓄積は一面では、生産手段と労働指揮との漸増的集積として現われるが、他面では、多数の個別資本相互の反撥として現われるのである。

 この、社会的総資本の多数の個別資本への分裂、あるいはその諸断片相互の反撥にたいしては、それらの牽引がは反対に作用する。これはもはや、単なる、蓄積と同義である、生産手段と労働指揮との集積ではない。それは、すでに形成された諸資本の集積であり、それらの個別的独立の廃棄であり、資本家による資本家の収奪であり、多数の小資本の少数の大資本への転化である。この過程を第一の過程から区別するものは、それはすでに存在して機能しつつある、資本の分配の変更のみを前提とし、したがって、その活動範囲は、社会的富の絶対的増加、すなわち、蓄積の絶対的限界によって制限されていない、ということである。ここで資本が一つの手に大きな団塊となって膨張するのは、かしこで、多くの手から資本が失われたからである。それは、蓄積や集積とは区別された、本来の集中である。

 この諸資本の集中、または資本による資本の牽引の法則は、ここでは展開されえない。簡単な事実的示唆で足りる。競争戦は、商品の低廉化によって演ぜられる。商品の低廉は、他の事情が不変であれば労働の生産性に依存し、また労働の生産性は、生産の規模に依存する。したがって、より大きい資本はより小さい資本に勝つ。さらに、一事業をその標準的諸条件のもとで営むために必要な、個別資本の最小量は、資本主義的生産様式の発展とともに大きくなる、ということが想起される。したがって、比較的小さい資本は、大工業がまだ点在的なまたは不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対する諸資本の数に正比例し、その大きさに逆比例する。それは、多数のより小さい資本家の没落をもって終るのをつねとし、彼らの資本は、一部は勝利者の手に移り、一部は消滅する。このことは別として、資本主義的生産とともに、信用制度という一つの全く新しい力が形成され、それはその初期には、ひそかに蓄積の控えめな助手として忍び込み、大小種々の大きさで社会の表面に散在する貨幣手段を、見えざる糸によって、個々の資本家または結合した資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦における一つの恐るべき武器となり、そして遂には、諸資本の集中のための巨大な社会的機構に転化されるのである。

 資本主義的な生産と蓄積とが発展するにしたがって、それと同じ程度に、競争と信用とが、二つのもっとも強力な集中の槓杆が発展する。それとともに、蓄積の進展は集中さるべき素材、すなわち個別資本を増加させ、また資本主義的生産の拡張は、一方には、先行する資本の集中がなければ実現されないような、巨大な産業的企業にたいする社会的要求を、他方には、そのための技術的手段をつくり出す。かくして、今日では個別資本の相互牽引力と集中への傾向とが、以前のいかなる時よりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度までは、資本主義的富の既得の大きさと、経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の進展は、決して社会的資本の大きさの積極的増加には依存しない。そしてこのことが、拡大された規模における再生産の別の表現であるにすぎない集積から、とくに集中を区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる分配変更によって、単に社会的資本の諸構成部分の量的配置を変更することによって、なされることができる。一方で、資本が一つの手における巨大な団塊に成長しうるのは、他方で、それが、多数の個々の手から奪われるからである。与えられた一事業部門で、集中がその極限に達するのは、そこで投ぜられたすべての資本が、一つの単独資本に融合したばあいであろう。与えられたある社会で、この限界に到達されるのは、ただ一人の資本家会社なりの手に、社会的資本全体が合一された瞬間であろう。

 集中は、産業資本家が、その活動の規模を拡大しうるようにすることによって、蓄積の仕事を補う。この規模拡大が、蓄積の結果であるにせよ、集中の結果であるにせよ、また集中が合併という手荒な方法で行なわれるにせよ―このばあいには若干の資本が、他の諸資本にたいする優勢な引力中心となるのであって、他の諸資本の個別的凝集力を破壊したのちに、それらのばらばらになった破片を引き入れる―あるいは多くの既成または形成中の資本の融合が、株式会社の設立というより円滑な方法によっておこなわれるにせよ、経済的な作用は同じことである。産業設備の規模の増大は、いかなるばあいにも、多数人の全労働をより包括的に組織するための、その物質的推進諸力をより広く発展させるための、すなわち、個別的に習慣的に経営される生産過程が、社会的に結合され、科学的に処理される生産過程に、転化するのを推し進めてゆくための、出発点をなすのである。

 しかし、社会的資本の主要組成部分の量的配置変更を要するに過ぎない集中に比すれば、円形から螺旋系に移行する再生産による資本の漸増である蓄積が、きわめて緩慢な行程であることは、明らかである。蓄積によって、若干の個別資本が鉄道を敷設しうるまでに増大するのを、待たねばならなかったとすれば、世界にはまだ鉄道はないであろう。これに反して、集中は、株式会社によって、たちまちこれをなしとげた。そして集中は、このように蓄積の効果を高め、促進すると同時に、資本の技術的組成における変革を、すなわち、資本の可変部分の犠牲においてその不変部分を増加させ、したがって、労働にたいする相対的需要を減少させる変革を、拡大し、促進する。

 集中によって一夜で溶接された資本塊も、他の資本塊と同様に、ただしより急速に、再生産され、増殖され、かくして社会的蓄積の新たな強力な槓杆となる。したがって、社会的蓄積の進展について語られるばあいには―今日では―集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
 
 正常な蓄積の進行中に形成される追加資本(第22章第1節を見よ)は、ことに新たな発明や発見の、一般に産業上の諸改良の、媒介物として役立つ。しかし、元の資本も、いつかは全身的更新の時期に達するのであって、その時には前の皮を脱ぐとともに、より多量の機械装置や原料を動かすのに、より少量の労働で足りるような、改良された技術的態容をもって再生する。言うまでもなく、このことから必然的に生ずる労働需要の絶対的減少は、この更新過程を通る資本が、すでに集中運動によって大量に堆積されていればいるほど、ますます甚だしくなる。
 かくて、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比して、ますます少ない労働者を牽引する。他方では、周期的に新たな組成をもって再生産される元の資本は、従来使用していた労働者をますます多く反撥する。


  第3節 相対的過剰人口、 または産業予備軍の累進的生産

 元来は資本の量的拡大としてのみ現われた資本の蓄積は、われわれの見たように、資本の組成の不断の質的変化をなして、その可変的構成部分を犠牲にして、不変的構成部分をたえず増加させて、行なわれる。

 特殊的に資本主義的な生産様式、それに対応する労働の生産力の発展、それによってひき起こされる資本の有機的組成における変化は、蓄積の進展、または社会的富の増大と歩調を同じくするのみではない。それらははるかに急速に進行する、というのは、単純な蓄積、または総資本の絶対的増大は、総資本の個別的諸要素の集中をともない、また追加資本の技術的変革は、原資本の技術的変革をともなうからである。すなわち、蓄積の進行とともに、可変資本部分にたいする不変資本部分の比率が変化して、最初は1対1だったのが、2対1、3対1、4対1、5対1、7対1等となり、したがって、資本が大きくなるにつれて、その総価値の2分の1ではなく、累進的に3分の1、4分の1、5分の1、6分の1、8分の1等のみが、労働力に転換され、反対に3分の2、4分の3、5分の4、6分の5、8分の7等が、生産手段に転換される。労働にたいする需要は、総資本の大きさによってではなく、その可変的構成部分の大きさによって、規定されているのであるから、それは、前に想定したように総資本の増大に比例して増加するのではなく、総資本の増大するにつれて累進的に減少する。

 それは総資本の大きさにたいして相対的に減少し、またこの大きさの増すにつれて加速的に減少する。総資本の増大とともに、その可変的構成部分、または総資本に合体された労働力も、増加するに違いないが、しかしそれは、たえず減少する比率においてである。与えられた技術的基礎の上における単なる生産拡張として、蓄積が作用する中間休止期は、短縮される。与えられた大きさの追加労働者数を吸収するためには、あるいは、元の資本がたえず形態変化をなすので、すでに機能しつつある労働者数を就業させるためにさえも、ますます累進的に加速度をもった総資本の蓄積が、必要とされるのみではない。この増大する蓄積と集中それ自体が、再び資本組成の新たな変化の一源泉に、すなわち、資本の不変的構成部分に比較した可変的構成部分のさらに加速度をもった減少の一源泉に変ずる。この、総資本の増大とともに促進され、総資本自体の増大よりもさらに急速に促進される、その可変的構成部分の相対的減少は、他面では逆に、可変資本、すなわち労働者人口の雇用手段の増加よりもつねにより急速な、労働者人口の絶対的増加のように見える。そうではなく、むしろ資本主義的蓄積が、しかもその精力とその大きさとに比例して、相対的な、すなわち、資本の平均的価値増殖欲望にとって余計な、したがって、過剰な労働者人口、または追加的な労働者人口を、たえず生産するのである。

 社会的総資本を考察すれば、その蓄積の運動が、あるいは周期的変化をよび起こし、あるいはこの運動の諸要素が、種々の生産部面の上に同時に配分される。若干の部面では、資本組成の変化が、資本のぜった的大きさの増加なくして単なる集積の結果として、起こる。他の諸部面では、資本の絶対的増大が、その可変的構成部分の、あるいはこれによって吸収される労働力の絶対的減少と結びつけられている。さらに他の諸部面では、資本が、あるいはその与えられた技術的基礎の上で増大をつづけて、その増大に比例して、追加労働力を牽引し、あるいは有機的変化が生じて資本の可変的構成部分が収縮する。すべての部面で可変資本部分と、したがって就労労働者数との増加は、つねに激しい動揺と、一時的な過剰人口生産とに結びつけられている。この過剰人口生産が、すでに使用されている労働者を反撥するというより顕著な形態をとるにせよ、あるいは、追加労働者人口を、その通常の排水溝に吸収し難いという、目立つことは少ないが効力は劣らない形態をとるにせよ、そうである。すでに機能しつつある社会的資本の大きさ、およびその増加の程度とともに、生産規模および動かされる労働者群の拡大とともに、彼らの労働の生産力の発展とともに、あらゆる富の源泉のより広くよりいっぱいになった流れとともに、資本による労働者のより大きな牽引が、そのより大きな反撥と結びつけられている規模も、また拡大され、資本の有機的組成および資本の技術的形態における変化の速さが増し、そしてあるいは同時に、あるいは交互に、この変化に襲われる生産部面の範囲が大きくなる。かくして、労働者人口は、それ自身によって生産される資本蓄積とともに、それ自身の相対的過剰化の手段を、ますます大量に生産する。これが資本主義的生産様式に特有な人口法則なのであるが、実際またすべての特殊な歴史的生産様式は、それぞれ特殊な歴史的に妥当する人口法則を有っているのである。抽象的な人口法則なるものは、人間によって歴史的に干渉されないかぎりにおいて、動植物にとってのみ存在するのである。

 しかし、過剰労働者なるものが、蓄積の、または資本主義的基礎の上での富の発展の、必然的産物であるとすれば、この過剰人口は、また逆に、資本主義的蓄積の槓杆となる、いな実に資本主義的生産様式の一存在条件となる。それは、あたかも資本自身の費用で育成されたかのように、全く絶対的に資本に属する、自在に動かしうる産業予備軍を形成する。それは、資本の変転する価値増殖欲望のために、つねに利用に応じうる人間材料を、現実の人口増加の制限から独立につくり出す。蓄積およびそれにともなう労働生産力の発展とともに、資本の突然の膨張力が増大する。これは、機能しつつある資本の弾力性が増加し、また資本がその弾力的な一部をなすに過ぎない絶対的富が、増加することによるだけではなく、また、いかなる特別な刺激に対しても、信用が直ちにこの富の異常な部分を、追加資本として生産の用に供することによるだけではない。生産過程自身の技術的諸条件が、機械装置、運輸機関等が、きわめて大きな規模で、追加生産手段への剰余生産物のきわめて急速な転化を、可能にするのである。蓄積の進展とともに氾濫する、そして追加資本に転化されうる社会的富の大量は、市場ににわかに拡大された旧来の生産部門に、あるいは、鉄道などのように、旧来の生産部門の発達によって必要となった、新たに開かれた生産部門に、狂気のように押し寄せる。すべてこのようなばあいには、大量の人間が突然、しかも、他の部面における生産規模を損傷することなく、決定的な点に投ぜられうるのでなければならない。過剰人口がこれを供給する。近代産業の特徴的な生活行程、すなわち、中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期が、より小さい諸変動に中断されつつ10年ごとの循環をなすという形態は、産業予備軍、または過剰人口の不断の形成、あるいは多く、あるいは少ない吸収、および再形成に基づいている。この産業循環の変転する諸時期は、またそれとして過剰人口を補充し、そしてそのもっとも強力は再生産動因となる。

 サイコロはいかさまである。資本は、双方の側で同時に作用する。資本の蓄積が、一方では労働にたいする需要を増すとすれば、それは他方では、労働者の「遊離化」によって、その供給を増すのであり、また同時に失業者の圧力は、就業者により多くの労働の流動化を強制し〔労働強化のこと―編者〕、したがって、ある程度まで、労働の供給を労働者の供給から独立させる。この基礎の上における労働の需要供給の法則の運動は、資本の専制を完成する。それゆえ、労働者がより多く労働し、より多く他人の富を生産し、彼らの労働の生産力が増大するにしたがって、彼らにとっては、資本の価値増殖手段としての彼らの機能さえも、ますます不安定となるのはどうしてであるか、という秘密を労働者が察知するや否や、また彼ら自身のあいだの競争の強度が、全く相対的過剰人口の圧力によって左右されるものであることを、彼らが発見するや否や、かくして、彼らが労働組合等によって、就業者と失業者との計画的協力を組織して、かの資本主義的生産の自然法則が、彼らの階級に与える破壊的な諸結果を破砕するか、弱めるかしようとするや否や、資本とその阿諛(あゆ)者である経済学者とは、「永遠」にしていわば「神聖」な需要供給法則の侵害について、悲鳴をあげるのである。すなわち、就業者と失業者とのすべての連結は、かの法則の「純粋な」作用を撹乱するからである。



  第4節 相対的過剰人口の種々の存在形態
   資本主義的蓄積の一般的法則

 相対的過剰人口は、あらゆる可能な濃淡をもって存在する。各労働者は、彼が半ば就業しているか、あるいは全く就業していない期間には、過剰人口に属する。過剰人口が、あるいは恐慌期において急進的に、あるいは不況期において慢性的に現われるというように、産業循環の段階転換によって、それに押印される大きな周期的に反復する諸形態を別とすれば、それは、つねに三つの形態をもつ。流動的、潜在的、および停滞的形態がこれである。

 社会的富、機能する資本、その増加の大きさと精力、したがってまた、プロレタリアートの絶対的大きさとその労働の生産力、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる。資本の膨張力が、発展させられるのと同じ原因によって、利用されうる労働力が、発展させられる。したがって、産業予備軍の相対的大きさは、富の諸力とともに増大する。しかしまた、この予備軍が、現役労働者軍に比して大きくなればなるほど、その窮乏が、その労働苦に比例する固定的過剰人口が、ますます大量となる。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが、大きくなればなるほど、公認の被救護貧民もますます増大する。これが資本主義的蓄積の絶対的一般法則である。

 資本主義的蓄積のこの敵対的性格は、経済学者たちによって、種々の形で表明されている。もっとも、彼らは、部分的に類似してはいるが、本質的に異なる前資本主義的生産様式の諸現象を、これと混同してはいるが。
 
 最後に、冷血なブルジョア理論家デステュット・ドゥ・トラシは、無情にもこう宣告する。「貧国とは、人民が安楽に暮らしている国であり、富国とは人民が一般に貧しい国である」と。

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