カール・マルクス 
「資本制生産様式」について(抄録編集



           「生産、蓄積、集積、集中、独占」について

  

『資本論』1巻資本の生産過 4編 相対的剰余価値の生産


★ 目 次

1.  第10章 相対的剰余価値の概念
2.  第11章 協 業
3.  第13章 機械装置と大工業
4.  第7篇  資本の蓄積過程
5.  第21章 単純再生産
6.  第22章 剰余価値の資本への転化
7.  第23章 資本主義的蓄積の一般的法則
8.        資本の集中
9.  第24章 いわゆる本源的蓄積




第10章 
相対的剰余価値の概念

0)
必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程を、その歴史的に伝来した態容または現存の態容で支配し、そして継続時間のみを、延長するということだけでは、決して充分ではない。労働の生産力を高め、労働の生産力の増大によって労働力の価値を低下させ、またかくして、この価値の再生産に必要な労働部分を、短縮するためには、労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを、変革しなければならない。

1) 労働力の価値を低下させるためには、次のような産業部門に、生産力の増大が起こらなければならない。すなわち、その生産物が労働力の価値を規定し、したがって、その生産物が慣習的な生活手段の範囲に属するか、またはそれらに代替しうるような産業部門である。しかし、一商品の価値は、この商品に最終形態を与える労働の定量によって、規定されるのみではなく、この商品の生産手段のうちに含まれている労働量によっても、規定されている。たとえば、深靴の価値は、製靴労働によってのみではなく、革、蝋、糸、等々の価値によっても、規定されている。かくして、生活必需品の生産のための、不変資本の素材的要素である労働手段、および労働材料を供給する産業における、生産力の増大と、それに相応する諸商品の低廉化も、同様に労働力の価値を低下させる。

2) 一商品の実際の価値は、その個別的価値ではなく、社会的価値である。すなわちそれは、個々のばあいに生産者が費やす労働時間によってではなく、その商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって測られる。したがって、新たな方法を用いる資本家が、彼の商品を1シリングというその社会的価値で売るならば、彼はその個別的価値よりも3ペンス高く売るのであり、かくして3ペンスの特別剰余価値を実現するのである。しかし他方で、いまや彼によっては、12時間労働日は、以前の12個ではなく、24個の商品に表示されている。かくして彼は、1労働日の生産物を売るためには、2倍の販路、または2倍の大いさの市場を必要とする。他の事情が変わらないとすれば、彼の商品は、その価格を引下げることによってのみ、より大きい市場範囲を征服する。それゆえ、彼はその商品を、その個別的価値以上で、しかし、その社会的価値以下で、たとえば、1個10ペンスで売るであろう。それでもなお、彼は、各1個について、1ペンスの特別剰余価値を取出す。

3) 労働時間による価値規定の法則、それは新たな方法を用いる資本家にとっては、彼の商品をその社会的価値以下で売らなければならないという形態で、感知されうるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争者を、新たな生産様式の採用に駆り立てる。
 商品を低廉化するために、また商品の低廉化によって、労働者そのものを低廉化するために、労働の生産力を高めることは、資本の内在的衝動であり、不断の傾向である



第11章 協 業

4)
資本主義的生産は、実際には、同一の個別資本が、比較的多数の労働者を同時に使用し、したがって、労働過程がその範囲を拡張して、比較的大きい量的規模で生産物を供給するばあいに、はじめて始まる。比較的大きい労働者数が、同じ時間に、同じ空間で(あるいはこう言ってもいい、同じ労働場所で)、同じ商品種類の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くことは、歴史的にも、概念的にも、資本主義的生産の出発点をなす。

5) 同一の生産過程において、または相異なってはいるが関連のある諸生産過程において、計画的に相並び、相協力して、労働する多数者の労働の形態を、協業という。

6) 一騎兵中隊の攻撃力、または一歩兵連隊の防御力が、各個の騎兵および歩兵によって、個々に展開される攻撃力および防御力の総計とは、本質的に異なっているように、個々別々の労働者の力の機械的総計は、多くの人手が、同時に同一不分割の作業で協働するばあい、たとえば、荷物を揚げたり、クランクを廻したり、道路から障害物を除いたりせねばならないばあいに展開される社会的な力能とは、本質的に異なっている。このばあいには、結合された労働の作用は、個々別々の労働によっては、全然生み出しえないか、あるいは、はるかにより長い時間をついやしてか、または矮小な規模において生み出されうるに過ぎないであろう。ここでは、協業による個別生産力の増大のみが問題なのではなく、それ自体が集団力であらねばならない、一生産力の創造が問題なのである。

7) 一方において、協業は労働の空間範囲を拡張することを可能にするので、ある種の労働過程にとっては、労働対象の空間的関連によっても、すでに協業が必要とされる。たとえば、土地の干拓、築堤、灌漑、運河や道路や鉄道の建設、等々のばあいがそうである。また他方において、協業は、生産の規模に比して、生産領域を空間的に縮小することを可能にする。このように同時に労働の作用範囲を拡大しながら、その空間範囲を縮限することによっては、多額の空費(faux frais)が節約されるのであるが、この縮限は、労働者の密集、種々の労働過程の凝集、および生産手段の集積から生じるものである。

8) あらゆる事情のもとにおいて、結合労働日の特殊なる生産力は、労働の社会的生産力、または社会的労働の生産力なのである。それは協業そのものから生ずる。他人との計画的な協業において労働者は、彼の個体的諸制限を脱して、彼の社会的能力を展開するのである。

9) 資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から発生し、この過程に属する一特殊機能たるに止まらず、同時に社会的労働過程の搾取の機能である。
 したがって、資本家の指揮は、一面では生産物の生産のための社会的過程であり、他面では、資本の価値増殖過程であるという、指揮されるべき生産過程そのものの二重性のために、内容から見れば二重的であるとしても、形式から見れば専制的である


10) 労働過程に入るとともに、労働者は資本に合体されている。協業者としては、一つの活動有機体の分肢としては、彼ら自身は、資本の一特殊存在様式たるに過ぎない。したがって、労働者が、社会的労働者として展開する生産力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者が、一定の諸条件もとに置かれたときに、無償で展開されるのであり、そして資本が彼らをこのような諸条件のもとに置くのである。労働の社会的生産力は、資本にとって、何らの費用をも要しないのであるから、また他面では、労働者の労働そのものが、資本のものとなる前には、労働者によって展開されないのであるから、この生産力は、資本がほんらい具有する生産力として、資本の内在的生産力として現われるのである。

11) 協業によって展開された労働の社会的生産力が、資本の生産力として現われるように、協業そのものは、分立した独立労働者、あるいはまた小親方の生産過程に対立する、資本主義的生産過程の一特殊形態として現われる。それは、現実の労働過程が、資本に従属することによって受ける、最初の変化である。この変化は自然発生的に生ずる。その前提である、同一の労働過程で、比較的多数の賃金労働者を、同時に使用することは、資本主義的生産の出発点をなす。この出発点は資本そのものの出現ダーザインと一致する。ゆえに、一方で資本主義的生産様式が、労働過程の社会的過程への転化のための歴史的必然として現われるとすれば、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によって、より有利に搾取せんがために、資本が用いる一方法として現われる

12) 協業の単純なる態容そのものは、そのさらに発展した諸形態とならんで、特別の形態をなすにしても、協業が、つねに資本主義的生産様式の基本であることに変わりはない


第13章 機械装置と大工業
第1節 機械装置の発達


13) 生産様式の変革は、工場手工業にあっては労働力を、大工業にあっては、労働手段を出発点とする。したがって、まず第一に研究すべきは、何によって労働手段は、道具から機械に転化されるか、あるいは、何によって機械は、手工用具から区別されるか、ということである。


14) すべての発達した機械装置は、三つの本質的に異なる部分から成る。動力機、配力機構、最後に道具機、または作業機がそれである。
 動力機、配力機構のこの両部分は、道具機が労働対象を捉えて、これを目的に合致するように変化させうるように、道具機に、運動を伝えるためにのみ存在する。機械装置のこの部分、道具機こそ、18世紀の産業革命がそこから出発するものである。

15) 本来の機械体系が個々の独立の機械に代わって初めて現われるのは、種類を異にするが、たがいに補足しあう一連鎖をなした道具機によって行なわれる、一系列の相関連する種々の段階過程を、労働対象が通過するばあいである。ここでは、工場手工業に特有な分業による協業が、再現するのであるが、しかし今では、部分作業機の組合せとしてである。
 おのおのの部分機械は、次につづく部分機械に、その原料を供給するのであるが、またそれらは、すべて同時に働くのであるから、生産物は、絶えずその形成過程の種々の段階の上にあるとともに、一つの生産過程から、他の生産段階に移りつつあるのである。工場手工業において、部分労働者の直接的協業が、種々の特別の労働者群のあいだの、一定の比率をつくり出すのと同様に、組織された機械体系においては、部分機械相互の不断の協働が、それらの数、それらの大きさ、およびそれらの速度のあいだに、一定の比例関係をつくり出す。
 工場手工業においては、各特殊過程の分立が、分業そのものによって与えられた原理であるとすれば、これに反して、発達した工場においては、諸特殊過程の連続が支配する。

16) 配力機装置を介してのみ、中心的な自動装置から、それぞれの運動を受取る諸作業機の組織された体系となれば、機械経営はそのもっとも発達した態容をもつことになる。ここでは個々の機械にかわって、一つの機械的怪物が現われ、その体躯は、工場の建物をいっぱいに充たし、そしてその悪魔的な力は、初めは、その巨肢の荘重ともいうべき整った運動によって、隠されているが、その無数の本来の作業器官の熱病的な狂騒旋舞において爆発する。

17) 一産業部門における生産様式の変革は、他の部門における変革をひき起こす。このことが、直ちにあてはまる産業部門は、社会的分業によって分立していてそのおのおのが独立の商品を生産してはいるが、しかしなお、一つの総過程の段階として、絡み合っているような諸部門である。たとえば、機械紡績業は、機械織物業を必要ならしめ、両者はともに漂白業、捺染業、染色業における機械的・化学的革命を必要ならしめた。また他方では、綿紡績業における革命が、綿実から綿繊維を分離するための繰綿機の発明を促し、これによって初めて、今日必要とされる大規模木綿生産が可能となった。またことに、工業および農業の生産様式における革命は、社会的生産過程の一般的条件、すなわち交通運輸機関における革命をも必要ならしめた。


18) かくして、大工業は、その特徴的な生産手段である機械そのものを、自己の支配下に置き、機械によって機械を生産せざるをえなかった。かくて初めて、大工業はそれに適合する技術的基礎を創出して、自分自身の足で立ったのである。19世紀の最初の数十年間における機械経営の増大とともに、機械装置は、実際に道具機の製造を、次第に支配するにいたった。とはいえ、大規模な鉄道建設と汽船の大洋航行とが、原動機の製造に使用される巨大な機械を出現させたのは、ようやく最近数十年間のことだった。

19) 労働手段が機械装置として受取る物的存在様式は、自然力をもって人間力に代え、自然科学の意識的応用をもって経験的熟練に代えることを必然にする。工場手工業においては、社会的労働過程の構成は純主観的であり、部分労働者の組合せである。機械体系において大工業は、労働者にたいして、既成の物的生産条件として存在する、一つの全く客観的な生産有機体をもつことになる。単純な協業においては、また分業によって分化された協業においてさえも、社会化された労働者による個別的労働者の駆逐は、なお多かれ少なかれ偶然的なものとして現われる。機械装置は、後で述べる若干の例外を除いては、直接に社会化された労働、すなわち、共同的な労働によってのみ機能する。かくていまや、労働過程の協業的性格は、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然性となる。

第7編 資本の蓄積過程

20) ある貨幣額の生産手段および労働力への転化は、資本として機能すべき一定の価値量が経過する第一の運動である。この運動は市場で、流通部面で、行なわれる。運動の第二の段階、生産過程は、生産手段が商品に転化されれば完結するのであるが、この商品の価値は、この商品の構成部分の価値を超えるものである。すなわち、最初に前貸しされた資本に、剰余価値を加えたものを含んでいる。これらの商品は、ついで再び流通部面に投げ入れられねばならない、それらの商品を販売し、それらの価値を貨幣に実現し、この貨幣をあらたに資本に転化し、そして同じことをたえず繰り返すことが必要である。この、つねに同じ継起的な段階を通過する循環が、資本の流通をなすのである。

21) 蓄積の第一の条件は、資本家がその商品を売り、かくして得た貨幣の大部分を、資本に再転化することをすでに終了している、ということである。以下においては、資本はその流通過程を正常な仕方で通過することが前提される。
 この過程のさらに詳細な分析は、第2巻で行なわれる。

22) 剰余価値を生産する資本家、すなわち不払労働を直接に労働者から汲み出して、商品に固着させる資本家は、この剰余価値の最初の取得者ではあるが、決してその最終の所有者ではない。彼は、のちにこれを、社会的生産の全体において他の諸機能を果たす資本家や、地主などと分配せねばならない。したがって、剰余価値は、種々の部分に分かたれる。この各片が種々の範疇の人々の手に帰属して、利潤、利子、商業利潤、地代等のような種々の、相互に独立した形態を受けとる。これらの剰余価値の転化形態は、第3巻において初めて取扱われうる。


第21章 単純再生産

23) 生産過程は、その社会的形態の如何を問わず、連続的でなければならない。すなわち周期的にたえずあらたに、同じいくつかの段階を通過せねばならない。社会は、消費することをやめることができないと同時に、生産することをやめることもできない。それゆえに、あらゆる社会的生産過程は、不断の繋がりとその更新の絶えざる流れとして、これを見るならば、同時にまた再生産過程である。

24) 生産の諸条件は、同時に再生産の諸条件である。いかなる社会も、その生産物の一部分を絶えず生産手段、または新生産の要素に再転化することなくしては、絶えず生産することは、すなわち再生産することは、できない。他の事情が変わらないならば、社会がその富を同じ規模で再生産、または維持しうるのは、たとえば一年間に消費された生産手段、すなわち労働手段、原料および補助材料を、年生産物量から分離されて新たに生産過程に合体される同量の新品をもって、現物で、補償することによるほかない。したがって、年生産物中の一定量は、生産用としてなくてはならない。それは初めから生産的消費にむけられていて、大部分は、おのずから個人的消費に適しない現物形態で存在する。

25) 生産が資本主義的形態をとるならば、再生産もこれをとる。資本主義的生産様式においては、労働過程は、価値増殖過程の一手段としてのみ現われるのと同様に、再生産も、前貸しされた価値を資本として、すなわち自己を増殖する価値として、再生産するための一手段としてのみ現われる。資本家という経済的扮装がある人間に固着するのは、彼の貨幣が継続的に資本として機能するからにほかならない。たとえば、100ポンドの前貸貨幣額が、今年資本に転化されて20ポンドの剰余価値を生産するならば、それは来年もその後にも、同じ働きを繰り返さねばならない。資本価値の周期的増加分、あるいは活動している資本の周期的果実としては、剰余価値は、資本から生ずる収入という形態を受けとる。


第22章 剰余価値の資本への転化

26) 蓄積するためには、剰余生産物の一部分を、資本に転化せねばならない。しかし、奇跡でも現われないかぎりは、資本に転化することのできるものは、労働過程で使用されうる物、すなわち生産手段と、そのほかには、労働者が生活しうる物、すなわち生活手段とのみである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸資本の補填に必要だった定量を超えた追加的生産手段の生産に、充当されたのでなければならない。一言でいえば、剰余価値は、剰余生産物―その価値が剰余価値である―が、すでに新たな資本の物的構成部分を含むがゆえにのみ、資本に転化されうるのである。

27) いまこの構成部分を、事実上資本として機能させるためには、資本家階級は、労働の追加を必要とする。すでに使用されている労働者の搾取が、外延的または内包的に増大しないものとすれば、追加労働力が取入れられねばならない。そのためにもまた、資本主義的生産の機構は、すでに用意を整えている。すなわち、この機構は、労働者階級を労働賃金に依存する階級として再生産し、彼らの通常の賃金は、彼らの生存のみではなく、彼らの増殖をも保証するに足りるものにしている。資本は、種々の年齢層の労働者階級によって、年々自己に供給されるこの追加労働力を、すでに年生産のうちに含まれている追加生産手段に、合体させさえすればよいのであって、剰余価値の資本への転化は、すでに完了しているのである。具体的に見れば、蓄積は累進的規模における資本の再生産に帰着する。単純再生産の循環は変じて、シスモンディの表現によれば、螺旋に転化されるのである。

第23章 資本主義的蓄積の一般的法則

28) 労働の社会的生産力の発展が、いかに大規模の協業を前提とするものであるか、いかにただこの前提のもとにおいてのみ、労働の分割と結合とが組織され、生産手段が大量的集積によって節約され、たとえば、機械装置の体系等のような、素材的にもただ共同的にのみ使用されうる労働手段がつくり出され、巨大な自然力が生産への奉仕を強制され、科学の技術的応用への生産過程の転化が遂行されうるのか、これらのことは第4編〔相対的剰余価値の生産〕で示された。生産手段が私人の所有物である商品生産、したがって、そこでは手の労働者は、単独で独立に商品を生産するか、または、自己経営のための資力を欠くために、その労働力を商品として売るか、するのほかはない商品生産の基礎の上では、かの前提においてのみ、実現される。商品生産の地盤は、ただ資本主義的形態となって初めて、大規模生産を担うことができる。したがって、個々の商品生産者の手におけるある程度の資本蓄積が、特殊的に資本主義的な生産様式の前提をなす。それゆえ、われわれは、手工業から資本主義的経営への移行に際しては、このような蓄積を想定せねばならなかった。それは本源的蓄積と呼ばれてよい。それは、特殊的に資本主義的な生産の歴史的結果ではなく、その歴史的基礎だったからである、このような蓄積そのものがいかにして生ずるかは、ここではまだ研究する必要はない。それが出発点をなすということだけで充分である。しかし、この基礎の上で成長する、労働の社会的生産力を増大させるためのすべての方法は、同時にまた、それ自身蓄積の形成要素である剰余価値、または剰余生産物の生産を、増加させる方法でもある。したがって同時に、資本による資本の生産の方法、あるいは加速度を加えられた資本の蓄積の方法である。

29) 剰余価値の資本への継続的再転化は、生産過程に入る資本の大いさの増大として表示される。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それにともなう労働生産力の増加方法、したがって、剰余価値の加速的生産の基礎となる。かくして、ある程度の資本蓄積が、特殊的に資本主義的な生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた、逆に資本の加速的蓄積を生ぜしめるのである。したがって、資本の蓄積とともに、特殊的に資本主義的な生産様式が発展し、そして特殊的に資本主義的な生産様式とともに、資本の蓄積が発展する。この二つの経済的要因は、それらが相互に与え合う刺激に複比例して、資本の技術的組成における変化、すなわち、それによって不変的組成部分に比して、可変的組成部分が絶えずますます小さくなるという、変化を生ぜしめるのである。

資本の集中
30) 各個別資本は、生産手段の大なり小なりの集積で、それに相応する大なり小なりの労働者軍にたいする指揮権を具えたものである。おのおのの蓄積は、新たな蓄積の手段となる。それは、資本として機能する富の量の増加とともに、個別資本家の手におけるこの富の集積を、したがって、大規模生産と特殊的に資本主義的な生産方法との基礎を拡大する。社会的資本の増大は、多数の個別資本の増大として行なわれる。他のすべての事情が変わらないものと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらが、社会的総資本の可除部分をなすのに比例して増大する。同時に原資本からは若枝が分離して、新たな独立資本として機能する。その際には、なかんずく資本家家族内の財産の分割が、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積とともに、多かれ少なかれ資本家の数も増加する。直接に蓄積に基づく、あるいはむしろ蓄積と同じものであるこの種の集積は、二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手における社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が不変であれば、社会的富の増加度によって制限されている。第二に、社会的資本の、各特殊生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに分配されている。彼らは互いに競争する独立の商品生産者として相互に対立する。したがって、蓄積とそれにともなう集積とが、多くの点に分散されているのみではなく、機能しつつある諸資本の増大が、新たな資本の形成と古い資本の分裂とによって、阻碍されているのである。かくして、蓄積は一面では、生産手段と労働指揮との漸増的集積として現われるが、他面では、多数の個別資本相互の反撥として現われるのである。

31) この、社会的総資本の多数の個別資本への分裂、あるいはその諸断片相互の反撥にたいしては、それらの牽引が反対に作用する。これはもはや、単なる、蓄積と同義である、生産手段と労働指揮との集積ではない。それは、すでに形成された諸資本の集積であり、それらの個別的独立の廃棄であり、資本家による資本家の収奪であり、多数の小資本の少数の大資本への転化である。この過程を第一の過程から区別するものは、それはすでに存在して機能しつつある、資本の分配の変更のみを前提とし、したがって、その活動範囲は、社会的富の絶対的増加、すなわち、蓄積の絶対的限界によって制限されていない、ということである。ここで資本が一つの手に大きな団塊となって膨張するのは、かしこで、多くの手から資本が失われたからである。それは、蓄積や集積とは区別された、本来の集中である。

32) この諸資本の集中、または資本による資本の牽引の法則は、ここでは展開されえない。簡単な事実的示唆で足りる。競争戦は、
商品の低廉化によって演ぜられる。商品の低廉は、他の事情が不変であれば労働の生産性に依存し、また労働の生産性は、生産の規模に依存する。したがって、より大きい資本はより小さい資本に勝つ。さらに、一事業をその標準的諸条件のもとで営むために必要な、個別資本の最小量は、資本主義的生産様式の発展とともに大きくなる、ということが想起される。したがって、比較的小さい資本は、大工業がまだ点在的なまたは不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対する諸資本の数に正比例し、その大きさに逆比例する。それは、多数のより小さい資本家の没落をもって終るのをつねとし、彼らの資本は、一部は勝利者の手に移り、一部は消滅する。このことは別として、資本主義的生産とともに、信用制度という一つの全く新しい力が形成され、それはその初期には、ひそかに蓄積の控えめな助手として忍び込み、大小種々の大きさで社会の表面に散在する貨幣手段を、見えざる糸によって、個々の資本家または結合した資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦における一つの恐るべき武器となり、そして遂には、諸資本の集中のための巨大な社会的機構に転化されるのである。

33) 資本主義的な生産と蓄積とが発展するにしたがって、それと同じ程度に、競争と信用とが、二つのもっとも強力な集中の槓杆が発展する。それとともに、蓄積の進展は集中さるべき素材、すなわち個別資本を増加させ、また資本主義的生産の拡張は、一方には、先行する資本の集中がなければ実現されないような、巨大な産業的企業にたいする社会的要求を、他方には、そのための技術的手段をつくり出す。かくして、今日では個別資本の相互牽引力と集中への傾向とが、以前のいかなる時よりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度までは、資本主義的富の既得の大きさと、経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の進展は、決して社会的資本の大きさの積極的増加には依存しない。そしてこのことが、拡大された規模における再生産の別の表現であるにすぎない集積から、とくに集中を区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる分配変更によって、単に社会的資本の諸構成部分の量的配置を変更することによって、なされることができる。一方で、資本が一つの手における巨大な団塊に成長しうるのは、他方で、それが、多数の個々の手から奪われるからである。与えられた一事業部門で、集中がその極限に達するのは、そこで投ぜられたすべての資本が、一つの単独資本に融合したばあいであろう。与えられたある社会で、この限界に到達されるのは、ただ一人の資本家会社なりの手に、社会的資本全体が合一された瞬間であろう。

34) 集中は、産業資本家が、その活動の規模を拡大しうるようにすることによって、蓄積の仕事を補う。この規模拡大が、蓄積の結果であるにせよ、集中の結果であるにせよ、また集中が合併という手荒な方法で行なわれるにせよ―このばあいには若干の資本が、他の諸資本にたいする優勢な引力中心となるのであって、他の諸資本の個別的凝集力を破壊したのちに、それらのばらばらになった破片を引き入れる―あるいは多くの既成または形成中の資本の融合が、株式会社の設立というより円滑な方法によっておこなわれるにせよ、経済的な作用は同じことである。産業設備の規模の増大は、いかなるばあいにも、多数人の全労働をより包括的に組織するための、その物質的推進諸力をより広く発展させるための、すなわち、個別的に習慣的に経営される生産過程が、社会的に結合され、科学的に処理される生産過程に、転化するのを推し進めてゆくための、出発点をなすのである。

35) しかし、社会的資本の主要組成部分の量的配置変更を要するに過ぎない集中に比すれば、円形から螺旋系に移行する再生産による資本の漸増である蓄積が、きわめて緩慢な行程であることは、明らかである。蓄積によって、若干の個別資本が鉄道を敷設しうるまでに増大するのを、待たねばならなかったとすれば、世界にはまだ鉄道はないであろう。これに反して、集中は、株式会社によって、たちまちこれをなしとげた。そして集中は、このように蓄積の効果を高め、促進すると同時に、資本の技術的組成における変革を、すなわち、資本の可変部分の犠牲においてその不変部分を増加させ、したがって、労働にたいする相対的需要を減少させる変革を、拡大し、促進する。

36)  集中によって一夜で溶接された資本塊も、他の資本塊と同様に、ただしより急速に、再生産され、増殖され、かくして社会的蓄積の新たな強力な槓杆となる。したがって、社会的蓄積の進展について語られるばあいには―今日では―集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
 
37) 正常な蓄積の進行中に形成される追加資本(第22章第1節を見よ)は、ことに新たな発明や発見の、一般に産業上の諸改良の、媒介物として役立つ。しかし、元の資本も、いつかは全身的更新の時期に達するのであって、その時には前の皮を脱ぐとともに、より多量の機械装置や原料を動かすのに、より少量の労働で足りるような、改良された技術的態容をもって再生する。言うまでもなく、このことから必然的に生ずる労働需要の絶対的減少は、この更新過程を通る資本が、すでに集中運動によって大量に堆積されていればいるほど、ますます甚だしくなる。

38) かくて、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比して、
ますます少ない労働者を牽引する。他方では、周期的に新たな組成をもって再生産される元の資本は、従来使用していた労働者をますます多く反撥する。

第24章 いわゆる本源的蓄積

39) この転形過程が、旧社会を深さにおいても、広さにおいても充分に分解してしまえば、すなわち、労働者がプロレタリアに、その労働諸条件が資本に転化されれば、資本主義的生産様式が自己の足で立つにいたれば、労働のさらにそれ以上の社会化と、土地その他の生産手段の、社会的に利用される、したがって、共同的な生産手段への、されにそれ以上の転化、したがって、私有者のさらにそれ以上の収奪は、一つの新たな形態をとる。いまや収奪されるべきものは、もはや自営的な労働者ではなく、多くの労働者を搾取しつつある資本家である。

40) この収奪は、資本主義的生産自体の内在的な作用によって、資本の集中によって、実現される。つねに一人の資本家が多くの資本家を滅ぼす。この集中とならんで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪とならんで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組み入れ、およびそれとともに資本主義体制の国際的性格が、発展する。
この転形過程のあらゆる利益を横領し、独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が、増大するのであるが、また、絶えず膨張しつつ、資本主義的生産過程そのものの機構によって、訓練され結集される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外皮とは、調和しえなくなる一点に到達する。外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。

41) 資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は、したがって、資本主義的私有は、自己の労働に基づく個別的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を産み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再興するのではないが、しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、共同と土地および労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎とする、個別的所有をつくり出す。


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