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 2019文献資料:アリストテレス『気象論』

   
アリストテレス著  『気象論』 泉治典、村治能就訳

   アリストテレス全集第5巻 岩波書店 1969年発行



             
アリストテレス「四元素・原理論
「自然学」関連目次

   Ⅰ. 『自然学』 Ⅱ. 『天体論』 Ⅲ. 『生成消滅論』 Ⅳ. 『気象論



 
 アリストテレス著 『気象論』

 〔目次〕
 第1巻
  第1章 『気象論』で扱う領域
  第2章 四元素の概略
  第3章 宇宙を占める第5元素と地上の四元素
 第4巻
  第1章
四元素を構成する四つの原理と生成,変化,消滅の諸形態
  第2章 熱と冷の3種の働き

  .................................................................................


 第 1 巻
 第 1 章 〔『気象論』で扱う領域〕

 ところで、自然の第一義的な諸原因とあらゆる自然的な運動について、また天界の移動にしたがって配置されている諸星と物体的諸元素―その数と性質、および相互変化―について、さらにまた生成と消滅一般についても、すでに論じられたのである。
 けれども、先人たちがみな気象論と呼んでいた研究部門はまだ残されていて、これから考察されなければならい。これは、およそ自然にしたがって起こるかぎりのものであるが、諸物体の第一の元素のそれよりも不規則で、かつ諸星の運行にもっとも近く接した場所〔月下界の上方〕で起こる諸現象を含んでいる。たとえば銀河〔第1巻第8章〕や、彗星〔第1巻第6、7章〕や、燃えながら動く諸異象〔流星など。第1巻第4、5章〕についてである。また、〔月下界の下方で〕空気と水とに共通する諸様態とみなされうるもの〔第1巻第9―12章〕、さらに大地の諸地域とその種類、およびその諸地域の諸様態にかんすることがらが含まれる〔第1巻第13章-第2巻第3章〕。これらにもとづいて、われわれは風と地震の原因を明らかにし〔第2巻第4-8章〕、またその運動に伴なって起こるすべての現象についても明らかにすることができるだろう。これらの諸現象のうち、或るものは説明に困難であるが、それ以外のものは何らかのしかたで把握することができる。われわれはまた、落雷や旋風や火風〔第2巻第9章―第3巻第1章〕について、さらに凝結によってこれらと同じ物体〔空気と水〕の諸様態をひきおこすその他の循環的諸現象〔虹、彙など。第3巻第2ー6章〕についても述べるだろう。
 しかし以上について論じ終えたなら、われわれは動物と植物とについて、一般的にも個別的にも、なんらかのしかたで説明できるかぎり、きめられた順序にしたがって考察するだろう。そしてその考察を終えたとき、われわれの最初の計画がすべて果たされたことになるだろう。
 では、これらを前置きとして、まずさきの〔気象的〕諸現象について論じることにしよう。




  第2章 〔四元素の概略〕


 円環的に移動する諸物体〔諸星〕の自然がそれから組成されている諸物体〔諸星〕の一つの始源について、さらにまた、その他の四つの始源による四つの物体〔元素〕についてもさきに規定された。われわれは、これら四つの物体の運動は二様であって、一つは中心〔大地〕から離れていくもの、一つは中心へ向かっていくもの、であると主張する。(それらの物体は四つ、すなわち、火と空気と水と土とであるが、それらすべてのうちで火はもっとも高く昇り、土はもっとも低い場所に横たわっており、残る二つのものの相互関係はこの両者に比例的である。なぜなら、残る二つのうちで空気はもっとも火に近い場所にあり、水はもっとも土に近い場所にあるからである。)そこで、大地をかこむ領域全体は、これら四つの物体から組成されているのである。われわれは、これらの物体について、そこに生じる諸様態が論じられなければならない、と主張するのである。
 ところで、この領域は、必然によって天界の移動に続いており、それゆえそれのすべての運動能力はかしこから統御されているのである。なぜなら、万物の運動の始まりがそこからくるかのもの〔諸星〕をもって第一原因とみなさなければならないから。(しかもそのようなものは、永遠的であって場所的に運動が終わることなく、むしろつねに完全な状態にある。だがそれ以外のすべての物体〔四元素〕は、それぞれ限界づけられた場所に分かれて存在している。)それゆえ、火と土とこれらに類する諸元素〔水と空気〕は、大地のまわりに起こる諸現象の質料因である、と考えなければならない(われわれは、基体として存在し、変化をこうむるものをこのような名前で呼ぶ)。しかし、諸元素の運動の始まりがそこからくるという意味での原因〔始動因〕は、永久に連動するもの〔諸星〕の能力に帰せられなければならない。



  
第3章 〔宇宙を占める第5元素「アイテール」と地上の四元素〕

 ではわれわれは、最初の前提とさきに述べた定義を思い出しながら、銀河と彗星と、その他これらにちょうど同類の諸現象について論じることにしよう。
 われわれの主張によれば、火と空気と水と土とは、相互に生成変化しあうのであって、それゆえおのおのは他のおのおののなかに、すでに可能的に存在しているのである。このことは、ついには消滅してそこへいたるところの或る同一のものを基体として持つ他の諸物体についても同様である。
 すると、ひとはまず第一に、空気と呼ばれているものについて難問にであうだろう。大地をとりまく領域のなかで、どのようなものをそれの本性と考えるべきだろうか。またそれは、ほかの諸物体の元素と呼ばれているものにたいして、どのような位置にあるだろうか。(なぜなら、土〔大地〕の容積がそれをかこんでいる諸星の大きさにたいしてどれだけのものであるかは、不明ではない。なぜなら、天文学者たちの探究によって、大地が若干 の星よりもはるかに小さいことが、すでにわれわれに知られているからである。けれどもわれわれは、他の諸元素から分かれてそれだけで集まっている水の実体を見ることはなく、またそれは、大地の表面に座を占める物体、たとえば可視的なもののうちでは海や川-ただし、なにかが地下の深いところにあるとしても、それは見えない―から離れてあることはできない。)しかし、問題はじっさいこうである。大地と大地にもっとも近い諸星とのあいだにあるものは、本性において或る一つの物体〔元素〕であるとみなすべきか、それとも多くの物体であ るとみなすべきか。もしそれが多くの物体であるとすれば、その数はどれだけであるか、またそのおのおのが占 める場所はとこまでに限定されているのか。
  ところでわれわれは、すでに第一の元素について論じ、その能力はどのようなものであるか、また天界の移動を包んでいる領域全休がその物体によって充たされるのはなぜであるかを明らかにした。そしてその見解は、たまたまわれわれだけが持っているものではなく、むしろ昔の人々も持っていた古くからあるものだと思われる。なぜなら、「アイテール」といわれているものは、古くからその名称をえていたが、アナクサゴラスはこれが火と同じものをあらわすと考えたらしく私に思われるからである。というのも、かれは天界が火で充たされていると考え、そして昔の人々はそのなかにある力をアイテールと呼んだのだと考えたからであるが、このあとの点では彼の考えは正しかった。なるほど「永遠に走るもの」は同時にその本性においてなにか「神的」(θεî oν)であると人々は思っただろうし、またそのようなものは、われわれの住む場所にあるどんなものとも同じではないから、人々はそれをアイテールという名で呼ぶことにきめたわけである。だからわれわれはこう言えるだろう、同じ見解が一度、あるいは二度、あるいはときどきでもなく、むしろたえずくりかえして現われ、人々のおいだをめぐるのである。
 けれども、〔I〕或る人々の主張によれば、たんに移動する諸物体〔諸星〕だけでなく、それらを包んでいるものも純粋な火であり、また大地と諸星とのおいだにあるものは空気であるとされる。しかし、現在学問によってじゅうぶんに明らかにされたことを考慮したならば、かれらはきっとそのような幼稚な見解を捨てたにちがいないだろう。なぜなら、移動しているもののおのおのは、こちら側から見ているわれわれにこのように見えるのだから、その大きさはじっさい小さいのだと思うとすれば、これはあまりに単純すぎる見解だからである。この問題は、さきにも天界にかんする考察のなかで述べられたことである。だが同じ証明をもういちど述べることにしよう。すなわち、物体〔星〕と物体〔星〕とのすきまが火で充たされ、かつそれらの諸物体が火から組成されていたとすれば、そのほかの諸元素は、ことごとくとっくの昔に燃やされていただろう。
 さらにまた、〔Ⅱ〕そのすきまは、空気だけによって充たされているのでもけっしてない。なぜなら、大地と天〔もっと唇外側の天〕とのおいだの場所が、がりに二つの元素〔空気と火〕によって充たされていたとすれば、空気の量は同じ仲間の諸物体〔諸元素〕のあいだに保持されるべき割合をはるかに超えてしまうに相違ないからである。そのわけは、大地の容積は、水の全量をうちに含んでいるにもかかわらず、大地をとりまく大きなもの〔全宇宙〕にくらべるなら、いわば一部分にもならないのだから。そしてわれわれは、水が分解して空気が生じ、あるいは空気から火が生じるばあい、たったそれだけの大きさのもののなかで過大な分量のものが生じないことを知っている。また、空気の全体が水の全体にたいして持つ比は、或る少量の水がそれから生じた空気にたいして持つ比と同じでなければならないだろう。ところで、もしだれかが、これらの諸元素は相互に他のものから生じあうことはなく、むしろ力において等しくあると主張したとしても、結論はすこしも変らないのである。なぜなら、この論法によるばあいでも、力の等しさはとうぜん諸元素の分量のなかに含まれていなければならず、そしてこのことは諸元素の相互変化が行なわれるばあいと同様だからである。それゆえ、空気であろうと火であろうと、ただその一つだけで〔大地ともっとも外側の天との〕中間の場所を充たさないことは明らかである。

つぎに、あの難問を解くにあたってわれわれに残されていることは、二つの物体―空気と火という―は第一の物体の置かれた場所にたいしてどのような位置におかれるか、またどのような原因によって、かしこにある 諸星は大地とそのまわりの場所に熱を与えるか、を述べることである。そこできめられたとおりに、最初に空気 について述べてから、戻ってこれらの問題を論じることにしよう。



  〔I〕さて、水が空気から転化して生じ、また空気が水から転化して生じるばあい、上界〔月下界の上方〕に雲ができないのは、いったいなぜだろうか。というのも、その場所が大地から遠のいて冷えれば冷えるだけ、いっそう雲ができやすくなるはずだからである。なぜなら、その場所は、諸星が熱くてもそれにあまり近くなく、かつ 大地から反射してくる光線にもあまり近くないから。この反射光線は、〔水蒸気の〕集まったものを熱によって分解させるため、雲が大地の近くにできることを妨げている。だから、雲の集まりが生じるのは、その反射光線が虚空のなかに分散して、そのためすでに力を失っている場所においてなのである。
 また、水は本性上空気全体から生じたものではないか、あるいは空気全体から生じたばあいでも、大地のまわりにあるものはたんなる空気ではなく、むしろ霧のようなるのであり、それゆえこれがふたたび集まって水になるか、のいずれかである。しかし、あれほど大量にある空気がぜんぶ霧であるとすれば、空気の実体と水の実体とはきわめて過大であると見なければならないだろう。ところで、もし天界の諸物体〔諸星〕のあいだのすきまが或る物体〔元素〕で充たされているとしても、それは火ではありえない。なぜなら、火は他の諸物体をぜんぶ燃やすからである。それゆえ、それを充たすものは空気と、大地全休をとりまく水以外にはない、ということになる。水と言ったのは、霧は水の分解〔蒸発〕したものだからである。

 さきの問題については、このようなしかたで難問が提出されたこととする。そこでわれわれは、これから述べることとすでに述べたこととを明確に分けて論じていくことにしよう。〔a〕われわれはこのように主張する。月に達するまでの天界〔月下界の上方〕は、火とも空気とも異なる物体で占められているが、そのうちの或る部分は いっそう純粋であり、或る部分はいっそう不純であって、異なる性質を持っている。そしてその物体は、とくにそれが空気に続き、大地のまわりの領域に続いているところで不純である。ところで、第一の元素とそのなかに ある諸物体〔諸星〕が円環的に移動するとき、それは下方の世界と物体のうちでつねに自分に接触している部分を運動によって分解させ、これを燃やして熱を生ぜしめるのである。
   〔b〕しかしわれわれは、つぎのことから考察を始めても、これと同じ見解に達することになろう。すなわち、 天界の円運動の下にある物体はいわば或る種の質料であって、熱・冷・乾・湿、およびこれらから生じるその他の諸性質を可能的に持っているが、これらの諸性質は、運動と静止―その原因と姶源についてはさきに述べられた―とによって現実化するのである。つぎに、もっとも重いものともっとも冷たいもの、すなわち土と水とは、中心〔大地〕の表面あるいは中心をかこむ場所で離れ離れに存在している。しかし空気と、われわれが通常火と呼んでいるがじっさいはそうでないもの〔じっさいは熱い乾いた蒸発物〕とはこれらを包み、これらと接触している。それがじっさいは火でないというのは、火は熱の過剰であり、いわば沸騰のようなものだから。しかしま た、われわれが空気と呼んでいるものは、一部は大地のまわりにあり、〔霧となって〕蒸発し、かつ土の蒸発物を含むために湿った暖かいものであるが、一部は大地の上の高い場所にあって、熱くて乾いたものであると考えなければならない。なぜなら、霧の本性は湿っていて冷たいが、蒸発物の本性は熱くて乾いており、また霧は可能的に水のようなものであるが、蒸発物は可能的に火のようなものだからである。それゆえ、雲が上界〔月下界の上方〕にできないことの理由は、そこにはたんに空気があるだけではなく、火のようなものがあるからである、と考えなければならない。



 第4巻
 
第1章 〔四元素を構成する四つの原理と生成、変化、消滅の諸形態〕

 さきに諸元素の原因は四つの数においてあることが規定されたべそれらの原因の結合によって元素は四つの数においてあることになる。すなわち、その二つは能動的なもので熱と冷であり、他の二つは受動的なもので乾と湿である。これらのものについては例証によって確かめることができる。すなわち、〔a〕熱と冷は、同じ種類に属するものをも、異なる種類に属するものをも、つねに湿らせたり乾かしたり固くしたり軟かくしたりすること によって、限定し結合させ変化させることが見られるのである。しかし乾と湿は、それぞれにおいても、あるいは両者の結合によって生じた物体においても限定されるし、その他いま言ったような変化をこうむるのである。
〔b〕さらにこのことは、われわれがこれらの諸元素の自然的性質について与えた定義からして明らかである。すなわち、われわれは熱と冷を能動的なものと呼び(結合を与えうるものは何らか能動的であるから)、他方湿と乾を受動的なものと呼ぶ(限定されやすいものと限定されにくいものは、その本性が何らか受動するので、そのように呼ばれる)。
 こうして、四つの原因のうち或るものは能動的であり、或るものは受動的であることが明らかとなった。では、これらについての規定がなされたので、われわれはつぎに能動的諸原因の作用によって生じたものと、受動的諸原因が受けとる諸形態を知らなければならない。まず第一に、全体的で絶対的な生成と自然的な変化はこれらの諸能力〔能動的諸原因〕の働きであり、またそれと逆に自然にしたがうところの消滅もこれと同じである。そしてこれらの諸能力〔能動的諸原因〕は植物と動物およびそれらの諸部分において支配する。しかし、絶対的で、かつ自然的な生成は、これらの諸能力〔能動的諸原因〕が釣合いを持っているかぎり、その働きを受けるところのそれぞれの自然物の基体的質料からの変化であり、他方この質料は、すでに述べたところの受動的諸能力である。だが、熱と冷は質料を支配することによってこの生成を与えるが、支配が不完全なときは生煮えのまずいものが生じることになる。しかし、絶対的な生成とちょうど反対のものは、一般的に〔総括的に〕言えば腐敗である。というのも、すべての自然的に起こる消滅は、老年や枯木のようにここへ向かっていくのだから。また、すべての自然的な合成物は、何らかのしかたで外力によって滅ぼされるのでないかぎり、その終りは「くさくなること」である。すなわち、肉や骨やその他の身体の部分は、もちろん焼かれ〔て消滅す〕ることもできるが、それらの自然的に起こる消滅の終りは腐敗である。それゆえ、腐敗するものは最初は湿ったものとなり、つぎに最後に乾いたものとなる。そのわけは、これらのものが湿と乾とから成ったのであり、かつ能動的諸原理の働きによって湿が乾によって限定されていたからである。
 しかし消滅は、限定されるものが周囲にあるもの〔内部の熱よりも大きな熱〕の助けを借りて、限定するもの〔内部の熱〕を負かすときに起こる。(だが腐敗という言葉は、部分的に破壊されるものについても、自己の本性から離れていくときには用いられる。)それゆえ、火以外のすべてのものは腐敗するが、土と水と空気が腐敗するのは、これらがみな火にたいして質料をなすからである。また腐敗は、それぞれの湿った物体が自然的に持つところの〔内部の〕熱が、外部からくるまわりの熱によって消滅することである。それゆえ、物体は熱を失うこによってこの状態をこうむるが、固有の力〔内部の熱〕を欠くならばすべての物体は冷たいのであるから、腐敗の原因は二つであり、腐敗とは内部の冷と外部からの熱とに共通する様態でなければならない。腐敗するすべてのものがしだいに乾いていって、ついに土となり、こやしとなるのはこのゆえである。なぜなら、固有の熱が外へ出ていくにつれて自然的に持つところの水分がみな蒸発して、湿り気を吸収することがもはやなくなるからである。(なぜなら、湿り気を引き寄せ連れてくるのは自已に固有な熱の働きであるから。)そこで、暑い季節よりも寒い季節のほうが、ものの腐れるのは少ない。なぜなら、冬にはもののまわりを囲んでいる空気と水のなかにある熱は少なく、ほとんど活動しないが、夏にはそれがずっと多くなるからである。また、凍ったものはもはや腐れることはない。なぜなら、その〔内部の〕冷が〔外部の〕空気の熱よりも大きく、したがってそれに支配されることはなく、むしろ変化させるもの〔冷〕のほうが支配しているからである。さらに、沸騰するものや熱いものも腐れることはない。なぜなら、〔まわりの〕空気のなかの熱がもののなかの熱よりも小さく、そのためにそれは支配しないし、変化を生ぜしめることがないからである。また同様にして、動いているものと流れているものは、静止しているものより腐敗が少ない。なぜなら、〔まわりの〕空気のなかの熱が動かす力は、もののなかにある〔熱の〕力よりも弱いので変化をひき起こすことがないからである。だがまた、大きいものが小さいものよりも腐敗の少ないのも同じ理由によってである。なぜなら、大きいものは自已の固有の火〔熱〕と冷とを大量に持つので、周囲の物体のなかにある諸能力をして支配させないからである。それゆえ、海水は少量だけ別にとったときはすぐ腐敗するが、海全休は腐敗しない。このことは他のさまざまの水〔液体〕についても同様である。また、動物が腐敗物のなかで発生するのは、そのなかに自然的な熱がたくわえられていて、それが腐敗物のなかに分散している動物の諸部分を結合させるからである。
 以上で、生成とは何か、消滅とは何かが〔一般的に〕述べられたのである。



  
第 2 章 〔熱と冷の3種の働き〕

 しかし、さきに述べた〔能動的〕諸能力〔熱と冷〕が、すでに出来上っている自然的諸物体を基体として、そこに作用する活動について、以上に続くところの種類をあげることがまだ残されている。
 〔a〕熱の働きは「加熱」であり、加熱には熟することと、煮ることと、焼くこととがある。だが、冷の働きは「加熱しないこと」であって、そのなかには熟しないこと、煮ないこと、焼かないことがある。しかしこのようを言葉は、ことがらを表現するのに適当な名称ではなく、同類の現象にたいして普遍的に適用されず、したがっていま述べた種類のものは、それが文字どおり表現するものについてだけ言われるのではなく、むしろ分類によってことがらがこのように区別されるのだと考えなければならない。
 ではわれわれは、これらのおのおのが何であるかを述べることにしよう。
「加熱」というのは、ものが自然的かつ自已に固有な熱〔の力〕によって、それと反対の受動的諸能力〔湿と乾〕から完成にもたらされることである。だがこれらの受動的諸能力とは、それぞれのものに固有な質料をさす。なぜなら、ものは加熱されて初めて完成し、そのもの〔そのような性質のもの〕となるのだから。そして完成へいたる過程の始まりは、たとえ外からの〔熱の〕助けによって促進されるとしても、ものに固有な〔内部の〕熱によって起こる。たとえば、入浴やその他そうしたことによって食物の消化が促進されるとしても、始まりは体内の熱である。またこの過程の終りは、或るばあいは自然であり、形相ないし本質という意味での自然であるが、或るばあいは基体としてある形態にいたる〔実現する〕ことが加熱の終りである。このことは、水分を含むものが煮られたり沸かされたり腐らされたり、その他何らかのしかたで熱せられてこれこれの性質とこれこれの大きさに達したときであり、そのとき、ものは役立つものとなり、われわれはそれが加熱されていると言うのである。たとえば、醗酵前のぶどう酒、膿汁となる前の腫物のなかにたまったもの、鼻汁となる前の涙などであり、その他そうしたものがこれである。
  だがこの加熱されることは、質料ないし湿が支配されるかぎり、すべてのものに起こるのである。なザなら、質料は自然〔物〕のなかにある熱によって限定されるものだから。そして熱と湿との一定の比〔釣合い〕がそのなかにあるかぎり、そのものは自然〔物〕なのである。それゆえ、尿とか糞とかその他一般に排泄物は健康のしるしであるが、これらのものが加熱されていると言われるのは、明らかに体内の固有な熱が無限定なもの〔質料としての湿〕を支配しているからである。しかも、加熱されたものがいっそう濃いものとなり、いっそう熱いものとなるのは当然である。なぜなら、熱はものを固め、密にし、乾かす働きを持っているからである。「加熱」については以上のとおりである。
 〔b〕しかし「加熱しないこと」は、ものが自己の固有な熱を欠くために未完成であることであり、このような熱の欠除は冷である。だが未完成であることは、それぞれのものにとっての自然的質料である反対の受動的諸能力に属している。
 「加熱」と「加熱しないこと」とは、以上のように定義されたとしよう。

 ・・・以上、第4巻第2章終わり。以下省略。・・・