ホーム

2019文献資料:アリストテレス『生成消滅論』


 
アリストテレス著 『生成消滅論』 戸塚七郎 訳

  
  アリストテレス全集第4巻 岩波書店 1968年発行


 
             「自然学」関連

  Ⅰ. 『自然学』 Ⅱ. 『天体論』 Ⅲ. 『生成消滅論』 Ⅳ. 『気象論



  
アリストテレス著 『生成消滅論』

  第1巻
  
 第 1 章  〔生成消滅は質的変化、増大・減少と異なるか〕
 
 では次に、自然のうちに生成し消滅してゆく事物の生成と消滅の運動について、それも〔生成消滅する事物の〕すべてにわたって一様な仕方で、これら生成・消滅運動の諸原因を区別し、同時にその定義を規定しなければならない。さらにまた、成長増大と質的変化についても、その各々がいかなるものであるのか、また、質的変化と生成とは、その実態が同一であると解すべきなのか、それとも、名目において区別せられているように、実態においても別なものであると考えなければならないのか、これらのことも明らかにしなければならない。

 ところで、古い哲学者のうちには、いわゆる
端的な生成を質的変化であると主張する人々もあれば、また質的変化と生成は別なものである、と説く人々もある。すなわち、一切のものは或る一つのものであると説き、すべてのものを一つのものに由来せしめている人々、これらの人々にあっては、生成は質的変化であり、またその語本来の意味での生成物というものは〔実は〕質的変化を受けているのだ、と主張するのは理の当然であるし、他方、質料の数を一つ以上であるとしている人々―例えばエンペドクレス、アナクサゴラス、レウキッポスなどがそうであるが、これらの人々においては、必然的に生成と質的変化は別なものでなければならないからである(もっとも、アナクサゴラス本人は自分自身の発言の意味をよく理解できなかった。すなわち、彼は、生成と消滅は質的変化と同一の運動をなしているという説を立てていながら、他の人々と同じように、要素は多数であると言っているのである)。つまり、エムペドクレスは、物質的要素を四つであるとし、要素の全体は、これらを動かすものを含めて、その数が六つであると言っているが、これに対してアナクサゴラスのほうは、レウキッポスやデモクリトスと共に、要素は無数であるとして〔おり、いずれも要素を多として〕いるのである。(〔しかし〕実際には、アナクサゴラスが、もろもろの同質体―例えば骨とか肉とか髄、その他、それぞれの部分がその全体と同名同義である類をもの―を要素であると定めているのに対し、デモクリトスとレウキッポスのほうは、分割不可能な物体によってその他の事物は構成されており、これらの物体は、その数においても、形態の差異においても無数であり、構成された事物が互いに異なるのは、それを構成している物体〔の形〕や、それらの位置や配列による、と述べている〔違いはある〕。)

 だが、アナクサゴラスの徒は、明らかにエンペドクレスの徒とは相反する主張をなしている。なぜなら、彼 エムペドクレスは、火と水と空気と土を四つの要素となし、それらは肉とか骨とか、その他、それに類する同質体よりも単純であると言っているが、彼らアナクサゴラスの徒の主張では、これら同質体が単純なのであり、要素なのであって、かえって土や火や水や空気のほうが構成されたものだからである―つまり、彼らの考えでは、これらはいずれも、同質体を構成するあらゆる種子の混合だからである。
 かかる次第で、ただ一つのものから万物を構成する人々としてみれば、生成と消滅を変化と主張するのは当り前のことである。それは、彼らの見解では、〔変化の根底には〕常に、基体となるものが同じ一つのものとして留まり続けているからであり、じつにこのような種類の変化を、われわれは「質的に変化している」と名づけているからである。しかし、物質的要素をなす類のものの数が一つより多いとする人々にとっては、当然、質的変化は生成と異なっていなければならない。なぜなら、〔彼らによれば、多くの要素が様々な仕方で〕一つに結び合ったり、〔結合しているものが要素に〕分解したりした結果が、生成と消滅になるからで〔、同一要素の同一結合体が他になり変るのではないからで〕ある。それゆえに、エンペドクレスもまた、このような意味で言っているのである、「いかなるものに心、〔もともと〕生誕なるものはなし、……ただ、混合と混合せられたものの分離とがあるのみ」。したがって、〔生成消滅に関する〕彼らの説明が、以上のように述べられる限り〔彼ら自身の、要素は多であるとする〕前提と斉合するということ、そしてまた彼らも、実際に、以上のような風に主張しているということ、 これらのことは明らかである。しかし、質的変化については、彼らとしても、それが生成とは別にあると主張しなければならないのであるが、ところが、彼らが実際に述べている言葉に即して考えてみると、そうすることは 不可能である。


 われわれのこの批判の言葉が正しいことは容易に理解されるところである。というのは、実体が変らぬままでいる時に、われわれは実体のうちに大きさの上での変化、すなわち、いわゆる増大と減少を認めるのであるが、これと同じように、われわれは質的変化をも認めるからである。しかしながら、原理を一つより多いとする人々については、このことは当てはまらない。いやむしろ、彼らが言っている言葉からすると、質的に変化するということは不可能なのである。すなわち、質的変化が現われるのは性状においてである、というのがわれわれの主張であるが、その性状も(例えば温と冷、白と黒、乾と湿、柔と剛、その他これに類する個々の性状をここでは言っているのだが)、〔彼らによれば〕諸要素に属している差異性なのであって、このことはエンペドクレスの次の言葉が示すところである―「太陽〔火〕は凡ゆる点で見た目も曰く暖かであり、雨〔水〕は、そのいずこをとっても 暗くかつ冷たい」。(彼はまた、その他の要素についても同じような仕方で規定しているのである。)したがって、 火から水が生じたり、水から土が生じたりすることが可能であるというのでない限り、白いものから黒いものに変ったり、軟かいものが硬いものになったりすることも、〔彼の立場では〕ありえないことになるが(またこれらとは別の諸性質についても、これと同じ議論が当てはまるのである)、じつにこの変化こそ、まさしく質的変化なのだからである。このような訳で、変化が場所的に行なわれる場合であろうと、増大や減少においてなされる場合であろうと、また質的変化においてなされる揚合であっても、相対立するものには常に一つの質料が〔それらの基体として〕前提されていなければならないということは明白である。
 さらにまた、一つの基体が前提されているということと、その変化が質的変化であるということが同じ程度の必然性を持つことも、明らかである。なぜなら、変化が質的変化であるならば、その基体は一つの要素であり、相互に変化しあうものすべての質料は一つであるが、それと同時に、基体が一つであるならば、その変化は質的変化だからである。


 したがって、エムペドクレスは、現われている事実に対しても、また自ら自分自身に対しても、相反する主張をなしているように思える。というのは、彼は、要素たるものが他の要素から生ずることを否定し、これらから生ずるのは要素以外のすべてであると言いながら、同時に一方では、「争い」を除く全自然を一つに括め(くくめ)上げた時には、〔前言に反して〕今度は、すべてのものがこの一つのものから生ずると言っており、したがって、明らかに、或るものが水として、また或るものが火として生じたのは、或る一つのものからであり、それら〔一つのものの諸部分〕が或る種の差異や性状でもって切り分かたれることによってそうなるからである。この点は、太陽は白くて暖かいが、一方、大地は重くて硬い、という彼自身の言葉が示す通りである。それゆえ、これらの差異が取り去られるならば(つまり、それらは生じてきたものであるから、取り去られ〔てなくな〕ることが可能なものでもあるからだが)、明らかに、土が水から生ずることも、水が土から生ずることも、また同様にして、その他の要素のどれについても、しかも、〔愛が立ち去る〕その時ばかりでなく、〔争いの支配する〕現在においても、そのようなことが行なわれるのは必然のことである―けだし、それらはその性状において変化しているからである。また、彼の主張からすれば、性状というのは事物に付け加わることも、逆に事物から切り離されることも可能なものであり、とりわけ「争い」と「愛」とがいまだ互いに抗争を続けている場合にそうなのである。実に、この抗争があったがゆえに、あの時期に、もろもろの要素が生み出されたのである。ところで、生み出されたという訳は、〔それ以前は〕火や土や水などは一つの全休をなしていて、少なくとも火や土や水〔として〕は存在していなかったからである。

 また、エムペドクレス説では、一なるものを始元とすべきなのか、それとも多(ここで言う多とは火とか土、およびこれらと並ぶ要素のことだが)をそれであるとすべきなのか、この点も判然としていない。なぜなら、〔一なるものが〕質料として変化の基底に横たわっており、土や水は、〔「争い」に基づく分解の〕運動のゆえに変化してそれから生成する、という意味では一なるものが要素であるが、これに対して、一なるものは、かのものどもが一つに結び合う場合に、その結合運動によって生ずるのであり、またかのものどもは〔単に一なるものが〕分解することによって生ずるのだ、という限りでは、かのものどものほうがより要素たるにふさわしく、かつ本性上より先なるものだからである。



   
第 2 章 〔 原子論者の見解 〕

 それでは、われわれは、端的な生成と消滅について、全体的に論じなくてはならない。端的な生成や消滅というものがあるのか、それともないのか、またあるとすれば、どのようにして行なわれるのか。またその他の運動についても、例えば増大とか質的変化についても、そのように論じなければならない。
  ところでプラトンであるが、〔彼もたしかにこれらの問題について考察を試みた〕。だが、それは生成と消滅だけについて、それらが事物にどのように現われるかということを問題にしたのであり、それも生成運動のすべてについてというのではなく、要素の生成だけに関するものであって、肉とか骨とかそれに類する他の〔同質体〕がどのようにして生成するかについては、全く考察を行なわなかった。その上また、彼は、質的変化についても、 増大についても、それらの運動がどのようにして事物に現われるかを考えはしなかった。

   一般に、〔これまでの〕誰一人として、以上のどの問題についても、皮相的なこと以上には深く立ち入ることをしなかった。ただし、デモクリトスだけは別である。この人はあらゆる問題について注意深く考えをめぐらしたが、しかし、いかにして考えるかというその方法の点ですでに、他の人々を凌いでいたようである。というのは、われわれが言っているように、これまでの人が増大について述べたことは、普通の人なら誰でも言うに違いないようなことであって、それ以外には誰一人としてはっきりと規定しなかったからである。すなわち、「似たものに似たものが加わる時そのものは増大する」と彼らは言っているのであるが、しかし、加わるというこのことがいかにして行なわれるか、という点になると、もはやなんの説明も与えていないのである。また、このことは増大だけに限らず、混合についても、その他の殆どいかなる問題についても同様であって、例えば、「作用する」と「作用を受ける」の揚合でも、自然的な作用を一方が加え、一方が蒙るのはいかなる仕方によってであるのか、 何も説明していないのである。だが、デモクリトスとレウキッポスは形体〔アトム〕を原理として立てて、質的変 化や生成はこれら形体に起囚するとしている。すなわち、これら形体の分離や結合によって生成や消滅が生ずるとし、一方、それらの配列や位置によって質的変化が生ずるとしているのである。しかし、彼らは、真理は現象の中に存すると考え、また、現象事実は互いに相反しており、しかも限りなくある、と考えたので、形体を無限に多数であるとした。したがって、アトム結合体の諸変化によって、同一の事物が異なった人それぞれには相反するもののように思われるのである。つまり、僅かのものが混入されることによって〔同一物の構造が〕置き換えられ、構造が一つでも置き換えられるとその全体が別なものとなって現われるのである。なぜなら、悲劇も喜劇も同じ文字を因として生まれるからである。


  ところで、〔多元論者たちの〕殆どすべてが抱いている見解というのは、
〔a〕 生成と質的変化とは別であるということ、そして 〔b〕 生成や消滅は〔事物の構成要素が〕結合したり、分離したりすることによって行なわれるが、質的変化のほうは、〔事物の〕性状が変化する揚合に現われるということ、であるから、これらの点については、 われわれは十分な留意の上で考察しなければならない。なぜなら、これらの見解はおびただしい、しかも〔いずれもが〕もっともな根拠を持った〔二律背反的〕困難を含んでいるからである。すなわち、〔1〕 もし生成が要素の結合であるとするなら、そこからは多くの不可能な結論が出てくるし(ところが、実際は、ほかにもなおまだ強制的でしかも容易にその非を解き明かすことのできない議論があって、これが、生成は他の仕方では起りえないことをわれわれに強いているのである)、また、〔2〕 生成は結合でないとしても、生成というものが全くないか、或いは生成は質的変化であるか、そのいずれかとなり、〔これらの結論はどれも先の前提と矛盾することになるのである〕。或いはまた、〔そういう結果になってもなお、生成は結合でない、と考えるのであれば〕、たとえ頑強な代物であるとはいえ、この矛盾を解く努力をわれわれは払わなければならない。


 ところで、これらすべての困難の根幹をなしている問題は次の点、すなわち、事物が生成したり、質的に変化したり、増大したり、さらにはこれらとは反対の変化を蒙ったりするのは、第一なるものどもがそれ以上分割で きない大きさのものであるということ、そのことによってであるのか、それとも不可分割的な大きさなどというものは存在しないのであるか、という点てある。けだし、この点において最大の相違が生ずるからである。


 では改めて問うが、もし第一なるものどもが〔不可分割的な〕大きさのものであるとすれば、それらは、デモクリトスやレウキッポスが主張しているように、物体であるのか、それとも 『ティマイオス』 の中で言われているように、それは面であるのか。ところで、これは他の箇所でも述べたことだが、分解を面に至るまで続け、〔面で止める〕というまさにこのことは、理に反することである。それゆえ、それらを不可分割的な物体であるとしたほうが、まだ納得がゆくのである。もっとも、これらの物体にしても、実際に多くの不合理を含んではいる。だがそれでも、先にも言われたように、かかる物体を用いれば、質的変化や生成を可能ならしめることはできるのである。すなわち、同一のものを向きや並び具合や形状の差異などの点で置き換えをすることで、このことは可能でる。これはデモクリトスが試みているところである。(それゆえに、彼は色は存在しないと言うのである。つまり〔彼によれば〕、事物が色を帯びるのは形体の向きに因るからである。) これに反して、物体を面にまで分解する人々にとっては、〔生成や質的変化を可能ならしめることは〕もはや不可能である。というのは、面が一つに寄せ集められても、そこに生ずるのは立体以外の何ものでもないからである。たしかに、彼らは、面からなんらかの性状を生み出そうと試みることさえ全くやっていないのである。

 ところで、広く認められている諸事実を綜観する能力が劣っているというのは、経験の不足がその原囚である。 それゆえ、自然的なことがらの中で暮してきた人々は、それ相当に、広範囲に亘って関連を持ちうるような原理を立てることが可能であるけれども、これに対して、多くの抽象的議論に時を費したために、これまで現にある事実を観てきていない人々は、僅かな事実に目を向けただけで、いかにもたやすく自己の見解を表明する。かかる点からしても、自然学的に考察する人問と弁証法的に考察する人問との違いがどれほどであるかが分るであろう。なぜなら、不可分割的な大きさが存在するという問題についても、一方の人々は、〔そのような大きさがなければ、〕三角形それ自体が多になるであろう、と〔論理的な調子で〕語るのに対し、デモクリトスのほうは、この問題にふさわしい議論、すなわち、自然学的な議論によってこれを確信したということがはっきりしてくることだろうから。ところで、われわれが言わんとしているこの点は、議論が先へ進むにつれて明白となるであろう。


 たしかに、もし或る物体、すなわち大きさを持ったものが完全に分割しつくされうるものであり、またこの分割が〔そのものの本性上〕許されうるとしたなら、その場合には困難が生ずる。なぜなら、その時には、〔物体において〕分割を免れるどのような〔部分〕が存在しうるというのであろうか。すなわち、もし或る物体が完全に分割しつくされうるものであり、しかもこの上うな分割が本性上許されることであるとしたら、実際には、分割は 〔継起的であって〕同時的には行なわれなかったとしても、その物体〔の全休〕が同時的に分割されてしまうことも可能となろう。また、実際にこのような分割が行なわれるとしても、〔その物体の本性にとっては〕有りうべからざることが生じたことにはならないであろう。したがって、〔実際の〕分割が中間で〔次々に二分するという仕方 で〕なされようと、また一般にどんな風になされようと、同じことで、もし或る物体が本性上完全に分割しつくさ れる性質を持っているのなら、それが〔実際にそのように〕分割されようとも、なんら不可能なことがされたことにはならないであろう。けだし、それが無数の部分に分割され、しかもその分割部分が無慮数千回分割されたとしても、なんら不可能なことではないからである―もっとも、これほどの分割をなしうる者は、恐らく一人もいないであろうけれども。

 それでは、〔上の前提にしたがって〕物体はこのように完全に分割されるものであるから、それが分割されたものとしよう。すると、その場合、何が残ることになるだろうか。大きさを持ったものが残るのであろうか。いや、そういうことは決してありえない。なぜなら、もしそうだとすると、何ものかがまだ分割されずに残っていることになるが、しかし、〔さきの約束によれば〕物体は完全に分割されるものであったからである。だが、そうかといって、もし残っているものが物体でも大きさを持ったものでもありえず、しかも、このような分割が行なわれねばならぬとするなら、
〔a〕 物体は点から構成されている、すなわち、物体を構成しているものは大きさを持たないもの、ということになるであろう。或いはまた、〔b〕 構成するものが全くの無でなければならないであろう。〔もし無であるなら〔b〕、〕その結果は、その物体が無から生じ、無から構成されているということになり、かくして、その物体は〔実際には無であるが、〕ただ、全体としてそのように見えているにすぎないことになるだろう。一方、物体が点によって構成されているとしても〔a〕、不合理がつきまとうのは同じことで、その場合には物体はどんな量も持たないことになる。その訳は、〔分割以前に〕多くの点が互いに結合しあい、一つの大きさ〔物体〕をなして、同じ一つところに寄り集まっていた時、それらは、〔結合することによって〕全体を少しでもよけいに大きくすることはなかった(というのは、物体が二つ又はそれ以上に分割されても、〔分割された部分の〕総体はそれだけ少しでも小さくなることも大きくなることもなかったからである)、したがって〔或る物体を構成する〕点のすべてが一つに結びつけられても、〔点そのものに大きさがない以上、〕それらはどのような大きさを作ることもできないであろうからである。


 しかしまた、物体が分割される際に、それの切り屑のごときものが生じ、このようにして或る物体がもとの大きさから離れてゆく〔ために、分割後には大きさが残らない〕のだとしても、やはり上と同じ議論があてはまるであろう。なぜなら、〔物体は完全に分割されると前提されているのである以上、〕「〔分割を免れた〕かの物体が分割されるというのはどのような意味においてであるのか」〔この点が問題のままで残されているからである〕。また、かりに、離れていったのは、物体ではなくて、物質と離れてあることのできる形相とか性状なのであり、また、もとの大きさは、じつはそのような性状を呈している点もしくは接触であるのだ、としても、大きさが大きさのないものによって構成されているというのは理に合わないことである。さらにまた、もろもろの点は、〔物体でないのである以上、〕どこに座を占めることができるであろうか、またそれらは動かぬものであるのか、それとも運動するものであるのか〔、このことも問題となろう〕。また、接触は、〔それぞれその〕一つが常に或る二つのものの接触であるが、それは、接触や分割や点以外に何ものかがあるという意味を持っているのである。・・・以下、中略・・・・・


  しかし、端的にして完全なる意味における生成〔と消滅〕は、一部の人々が主張するように、〔アトムの〕結合と分解によって定義しつくされているのではない〔彼らはまた、一方では、連続体における〔アトム構造の〕変化が質的変化だと言っているのである〕、それどころか、これこそすべての誤りが生ずる点なのである。というのは、端的な生成や消滅は、結合や分離によるのではなく、或るものが全休としてこのものから、あのものへと変化する場合に生ずるからである。ところが彼らは、このような〔連続体における〕変化はどれも質的変化だと考えている。だが、実際には、そこには違いが見られるのである。というのは、〔変化の〕基底をなしているものにおいては、〔それを構成する要素として〕一つは定義〔形相〕的なもの、いま一つは質料的なものがあり、その場合、これらの要素において変化が生ずる時には、それは生成か消滅になるが、しかし、変化が事物の性状において、すなわち、事物に付帯的に生ずる場合には、質的変化になるべきだからである。
 ところで、分解されたり、結合されたりすると、事物は消滅しやすいもの〔や消滅し難いもの〕になり変るものである。なぜなら、水が分割されて、嵩がより小となれば、それだけ速やかに空気が生成〔して水は消滅〕するが、しかし水が結合されて〔量がより大きくなって〕いる揚合には、空気の生成はひときわ遅くなるからである。われ われのこの主張は、後の議論において、もっと明確になるであろう。だが当座は、生成は結合(少なくとも一部の人々が主張しているような種類の結合)ではありえないということ、このことだけが規定されたものとしておこう。 ・・・第2章 終わり・・・



  第2巻 
  
 第 1 章 〔 いわゆる四要素は、物体のまことの要素ではない 〕

 さて、「混合」「接触」そして「作用することと作用を受けること」については、これらが自然的に変化するものともに、いかなる仕方で現われるか、が述べられた。さらに、端的な生成と消滅についても、それがいかなる仕方で、またいかなるものについて、そしていかなる原因によって成立するか、が論ぜられたし、同様にまた、質的変化に関しても、そもそも質的変化とは何であり、生成や消滅とはいかなる違いを持っているか、が述べられた。だが、先に挙げた問題のうち、諸物体のいわゆる要素にかかわる問題の考察が、なおわれわれには残されている。
 実際に、生成と消滅は、自然的に構成されている実体においては、知覚されうる物体なしには行なわれえないのであるが、ところが、これら知覚可能な物体の基体をなしている質料については、人によってはそれが一つであると主張し、例えば、空気とか火とか、或いは、これらの中間的なもので、物体的ではあるが離れて存在するもの、とかをそれであるとしており、また、人によってはその数が一つより多いとし(もっとも、彼らの中には、火と土がそうであると考える者もあれば、これらに加えて第三番目のものとして空気をも挙げる者も、また、例えばエムペドクレスのように、水も加えて、これらのものに続く第四番目のものとしている者もあって、意見は様々であるが)、これら質料が結合したり分離したりする場合、或いは質的に変化する場合に、それらから事物の生成と消滅が結果される、と主張している。

 さて、第一なるものども、すなわち、結合や分解という形においてにせよ、或いはまた、それ以外の変化の形においてにせよ、とにかくそれらが変化する場合に、その結果として生成と消滅が行なわれることになるような 第一なるものども、これらを始元とか要素とか呼ぶのが至当であるということは、同憲されているものとしてお こう。しかしながら、
〔1〕 上に挙げられた諸物体とは別に、なお一つの質料を立て、しかもこの質料を、物体的でありながら〔これらの諸物体とは〕離れてあるもの、としている人々は、誤りを犯しているのである。というのは、彼らの言うこの物体も、〔物体である限りは〕知覚されうるような反対対立を伴わずしては存しえないからである―すなわち、一部の人々が始元であると言っているその「限りなきもの」も、軽いとか重いとか、或いは、冷たいとか温かいとかでなければならないからである。また、〔2〕 『テマイオス』における記述のありようもまた、〔この問題について〕なんら明確な規定を持っていない。というのは、彼プラトンは、彼の言う「一切を受け入れるもの」が要素とは離れてあるのかどうか、はっきりとは述べていないし、また、それは、いわゆる諸要素よりも先なるものとしてそれらの基底に横たわる一種の基体であって、あたかも、金が金の製品よりも先なるものであるのと同じである、と主張したが、その後では全然それを用いていないからである(もっとも、この例にしても、上のようなたとえ方をされるのは適切ではないのである。質的変化を蒙っているものについては、今のたとえの通りであるが、しかし生成や消滅が行なわれているものが、それが生じてきた源であるかのものそのものの名前で呼ばれることは不可能である。ところが、プラトンは、金製品のどれをも金であると主張するのは至極正しいことである、と実際に語っているのである)。それどころか、彼は、要素はそもそも立体であるのに、それを平面になるまで分析しているが、しかし、平面が乳母、すなわち第一なる質料であるなどということは、許されぬことである。

 これらの説に対し、われわれの主張というのはこうである。すなわち、知覚町能な物体の質料というものは、存在はするが、しかし、それは離れてあるものではなくて、常に反対対立〔対立性質〕を伴っており、そしてこの質料から要素といわれているものが生ずるのである。ところで、それら質料とか反対対立については、他の箇所もっと詳しく規定されている。しかしながら、第一なる物体も、〔知覚可能な物体と〕同じように質料から生じてきているのであるから、〔ここで〕これらの物体についても規定しなければならないのであるが、その場合われわれは、質料、つまり、対立性質から離れてあるのではないが、しかしそれらの基体となっている質料〔第一質料〕をも、〔反対対立と併べて、〕始元とか第一なるものと考える。(というのは、「温」が「冷」の質料であるのでも、また「冷」が「温」の質料をなすのでもなくて、これら両者の基体をなしているものがその質料なるが故である。)それゆえ、始元とされるものは、第一には可能的に知覚されうる物体であるものがそうであり、第二には反対対立が―例えば温かさと冷たさといったようなものが―、そして第三番目にようやく、火や水やそれに類する第一なる物体がそうである、ということになる。〔これら第一なる物体が第三番目というのは、〕これらのものは、互いに変化しあうが(それもエンペドクレスその他の人々の述べているような意味でそうなのではないが―かりに彼らの言う通りだとすると、質的変化はありえないであろうから―)、しかるに反対対立のほうは、相互に変化をしないからである。


 しかしながら、このように考えたからといって、問題が少しでも減少した訳ではない。物体にはどのような、そして、どれだけの反対対立が始元としてあるのか、この点をわれわれは述べなければならないのである。なぜなら、われわれの他にも、反対対立を仮定し、これを用いている人々はいるが、彼らは、自分たちの掲げている反対対立について、何故それらのものが、或いは、何故にそれだけの数のものが、そうであるのか説明を与えていないからである。



 
  第 2 章 〔 温ー冷、乾ー湿の対立性質 〕

  ところで、われわれが探求しているのは知覚可能な物体の始元であるが、だが、ここで言う知覚可能な物体とは、触知可能なもののことであり、しかも触知可能なものとは、それに対する知覚が触覚であるもののことであ るから、物体の形相や始元をなすのはどんな反対対立でもよいという訳ではなく、ただ触覚において現われる反対対立のみがそうであることは明白である。というのは、〔第一なる物体が〕互いに異なっているのは反対対立によってであり、しかも、触知可能な反対対立によるからである。それゆえに、白さと黒さも、甘さと辛さも、同 様にしてその他の知覚可能な反対対立のどんなものも、〔それが触知可能であるのでなければ、〕要素を構成することはない。もっとも、視覚は触覚よりも先なるものであるから、これら知覚の〔対象をなす〕基体においても、視覚のそれは触覚のそれよりも先なるものである、〔こう考えられるかも知れない〕。しかしながら、視覚の対象をなすものは、触れられうる物体の性状ではあるが、それは、この物体が触れられうるものである限りにおいてそうなのではなくて、触れられうるものとは異なった何ものかであるという意味においてそうなのである―この何ものかのほうが、本性上より先なるものであるかもしれないが。

 そのような訳であるから、触れることの可能な差異や反対対立そのものについても、その中のどのようなもの が第一なるものであるのかを、われわれは先ず区別しなければならない。ところで、触覚において現われる反対対立とは次のようなものである。すなわち、「温」と「冷」、「乾」と「湿」、「重い」と「軽い」、「固い」と「柔かい」、「粘りがある」と「脆い」、「ごつごつしている」と「滑らか」、「きめが粗い」と「きめが細かい」などである。だが、これらのうち重いと軽いは、作用することもなければ作用を受けることもないものである。なぜなら、事物が重いとか軽いと言われるのは、それが他のものになんらかの作用を加えたり、他のものによって加えられたりすることによるのではないが、しかるに「要素」たるものは、互いに作用を加え、また加えられることのできる心のでなければならないからである。すなわち、「要素」は互いに混合しあい、変化しあうものだからである。これに対して、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の場合は、先の対は作用を加えるものであるという意味で、また後者の対は作用を受けるものであるという意味で、それぞれ挙げられているのである。というのは、温かいとは、同族的なものを結びつけるもののことであり(なぜかというと、引き離すということは、これこそ火の働きであると言われているのであるが、じつは同類を一つに結びつけることだからである。つまり、同類を結びつけることは、異質的なものを取り除くことになるからである)、また冷たいとは、同族的なものも同類でないものも、等しく一つに寄せ集め、結びつけるもののことだからであるし、ところが、湿っているとは、容易に限定されうるものでありながら、それ自身の固有な限界によっては限定されえないもののことであり、また乾いているとは、それ独自の限界によって容易に限定されるものではあるけれども、〔他のものによっては〕なかなかに限定し難いもののことだからである。
・・・以下、省略・・・



 
  第 3 章 〔 基本的四性質ー温、冷、乾、湿の組合せ 〕

 さて、「要素」となるものは四つ〔の性質〕であり、これら四つの性質の組合せは〔計算の上では〕6個であるが、しかし、相反しあうものは、本来、対として組合せられることのできないものであるから(なぜなら、同一のものが温かいと同時に冷たかったり、さらには、湿っていると同時に乾いていたりすることは不可能だからである)、したがって、これら要素の組合せが4個となること、すなわち、温かいと乾いている、湿っていると温かい、それに今度は〔「冷」との組合せで〕冷たいと乾いている、冷たいと湿っている、の四つとなることは明らかである。そして、これら四つの組合せは〔それぞれ〕、単純なるものとして現われている物体、すなわち、火、空気、水、土と〔数の上で〕対応して、それらの属性をなしているのである。なぜなら、火は温かくて乾いているが、空気は温かくて湿っているし(というのは、空気は蒸気のごときものであるから)、また、水は冷たくて湿っているが、土は冷たくて乾いており、それゆえに、〔いわゆる〕第一なる諸物体にこれら質的差異を配分するのは、そしてまた、これらの組合せの数が〔それら物体の数と〕対応的であるのも、理にかなっていると言えるからである。けだし、単純な物体を要素であると考えているすべての人々はすべて、人によって、それを一つであるとしたり、二つであるとしたり、或いは三つとか四つであるとしている〔違いはあっても、四つ以上の要素は挙げていない〕のである。

 ところで、
〔1〕 要素を一つだけであると主張し、ついで〔この唯一なる要素の〕濃化と稀化によって他のものが生ずるとしている人々、これらの人々は、結局のところ始元を二つ、すなわち稀薄なものと濃厚なもの、いやそれよりは温かいものと冷たいものと言ったほうかよいであろうが、この二つであるとしているのである(なぜなら、これら二つが創造の担い手なのであって、彼らの言う「一なるもの」は、質料としてこれらのものの基体をなしているにすぎないからである)。これに対して、〔2〕 初めから二つの要素を立てている人々―ちょうどパルメニデスが火と土を立てたように―1、このような人々はこれらのものの中間をなすもの(例えば空気と水)を、これらのものから混合されてできたものと考えている。〔3〕 これと同様のことは、要素を三つであると主張する人々も試みている(それはちょうど、プラトンが『分割』において試みたことに比せられる。というのは、彼は中間のものを混合であるとしているからである)。たしかに、二つの要素を立てている人々も、三つの要素を立てている人々も、その主張するところは殆ど同一であると言ってよいであろう。ただ、前者が中間の要素を二つに分けているのに対し、後者はそれをただ一つのものとしている点で違いがあるにすぎない。だが、〔4〕 或る人々は、最初から要素は四つであると主張している。例えばエンペドクレスがそうである。しかし、この人とても、これら四つの要素を二つに括め上げているのである。なぜなら、彼は、火に対して火以外の要素すべてを対立させているからである。

 しかしながら、火にしろ空気にしろ、また上に挙げられたどのものにしろ、それら〔いわゆる要素〕は単純な物体ではなくて、混合されたものである。単純な物体は、これらと同じような性質のものではあるが、これらと同 一物ではない。例えば、火と似ている単純な物体は、火的ではあるが、火ではないし、また、空気に似ている単純物体は空気に類するものなのである。このことはその他の単純物体についても同様である。しかるに、火は温かさの過超であって、それは氷が冷たさの過超であるのと同しことである。なぜなら、凝固と沸騰は、それぞれ冷たさと温かさの、一種の過超だからである。したがって、氷が「湿っていて冷たい」の凝固であるなら、火もまた「乾いていて温かい」の沸騰ということになるであろう(〔このように、火も氷も、すでに単純なる要素の変容であるから、〕したがって、何一つとして氷から生ずることも火から生ずることもないのである)。
 ところで、単純な物体は四つであるが、その各々は、二つずつの対をなして、それぞれ二つの場所に属している(なぜなら、火と空気は、限界に向かって進んでゆく物体〔の形相として〕それに属し、一方、土と水は中心に向かうものに属しているからである)。また、火と土は極限に存するものであり、最も混じり気のないものであるが、これに対し、水と空気は中問に位し、上の二つに比べれば混合されたものである。しかも、一方の対に属するそれぞれのものは、他方の対のそれぞれのものに反対対立をなしている(なぜなら、火に対しては水が、また空気に対しては土が反対なるものだからである。すなわち、これら対立しあうものは、相反する性質によって構成されているからである)。しかしながら、〔いわゆる〕要素は四つであるが、そのそれぞれは、端的な言い方をすれば、一つの性質によって特色づけられているのである。すなわち、土は、〔冷たくて乾いているのであるが、〕冷たいという性質上りもむしろ乾いているという性質によって特色づけられており、水は、湿っているよりはむしろ冷たいという性質によって、また空気は、温かいというよりは湿っているという性質によって、そして火は、乾いているというよりは温かいというように特色づけられているのである。


  ・・・第4章以下、省略・・・