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2019文献資料:アリストテレス『自然学』

 アリストテレス著『自然学』 出隆、岩崎允胤訳

 アリストテレス全集 岩波書店 1968年発行



        
「自然学」関連目次


  
Ⅰ. 『自然学』 Ⅱ. 『天体論』 Ⅲ. 『生成消滅論』 Ⅳ. 『気象論





  
アリストテレス著『自然学』

  第 1 巻
 
 第 1 章 〔 自然学の対象と研究方法上の心得 〕

 およそいかなる部門の研究においても、その対象にそれの原理、原因、ないしそれの構成要素があるかぎり、われわれがその研究対象を知っているとか学的に認識しているとかいうのは、これら〔それの原理・原因・構成要素〕をよく知ってからのことである(というのは、普通われわれは、各々の対象事物の第一の原因、第一の原理を、その構成要素にいたるまで知りつくしたとき、そのとき初めてその各々を知ったものと思っているからである)、だから明らかに、自然についての学〔学的認識〕の場合にも、まず第一にわれわれのつとむべきはそれの諸原理に関する諸事項を確定するにある。
ところで、そのための道は、われわれにとってより多く可知的でありより多く明晰であるものごとから出発して、自然においてより多く明晰でありより多く可知的であるものごとへと進むのが自然的である。けだし、同じものごとがわれわれにとっても端的にもひとしく可知的であるというわけではないからである。だからそれゆえ、われわれは、この仕方に従って、自然においてはより多く不明晰であるがわれわれにとってはより多く明晰なものごとから出発して、自然においてより多く明晰でありより多く可知的なものごとへと進まねばならない。ところで、われわれにとって最初に明白であり明晰であるのは、実はむしろ混然たる集団である。そしてこの混然たる集団からそれの構成要素やそれの原理が可知的なものになるのは、この集団が分析されてから後のことである。それゆえにわれわれは、この普遍的なものどもから特殊的なものどもへと進むべきである、というのは、全体の方がわれわれの感覚に対してはより多く可知的であり、しかも普遍的なものは或る全体的なものだからである。けだし、普遍的なものは多くのものを、いわばその諸部分として、包摂しているもの〔ゆえに全体的なもの〕であるからである。なお、なんらかこれとほぼ同じような関係は、ものの名前とそれの説明方式との関係にもみられる。というのは、たとえば「円」という名前は漠然と或る全休を指し示しているが、この「円」の定義はそれを特殊なものども〔中心、等距離など〕に分析しているからである。また同じように、幼児は、初めのうちには、男なら誰をでも「父」と呼び、女なら誰をでも「母」と呼んでいるが、後になるとこれらの各々を、〔本当の〕父や母より以外の男や女と区別して〔本当の父や母を指すに〕用いるようになる。



 
第 2 章 〔 自然の第一原理の数や種類についての諸難問 〕

 さて、ものの原理は、(1)一つであるか、(2)一つより多くあるか、そのいずれかであらねばならない。そして、もし原理が、(1)一つであるとすれば、それは、(a)パルメニデスやメリックスの主張するように不動なものであるか、あるいは、(b)自然学者たちの説くように動くものであるか、そのどちらかである、すなわちこの自然学者たちのうちの或る人々は空気を、或る人々は水を、それぞれ第一の原理としてあげている。だが、もし原理が、(2)一つより多くであるとすれば、その数は、(a)有限であるか、あるいは(b)無限であるか、そのどちらかである、そして、もし(a)一つより多くではあるが有限であるとすれば、その数は二つか三つか四つか、あるいはその他の或る一定の数でなくてはならない、またもしその数が(b)無限であるとすれば、そうした原理は、(i)デモクリトスの主張するようにその類においては一つであるがその形態においては異なるものどもであるか、あるいは(ⅱ)種において異なるものどもであり、さらに反対のものどもでさえあるか、そのいずれかである。なお、「あるものども」〔諸存在〕がどれだけあるかを探求している人々もまた、これと同様の探求をしてものである。けだしこの人々は、諸々の存在がまず第一にそれからであるところのそれ〔諸存在の第一の原理または構成要素〕について、それが果たして一つきりであるか、あるいは多くあるのかを探求しており、そしてまた、もしそれが多くあるなら、その数が有限であるか無限であるかを探求している、したがってこの人々も、やはり同じく、原理や構成要素が果たして一つであるのか多くあるのかを探求しているものである。

ところで、「あるもの」〔存在〕について、それが一つであり不動なものなのではないかと詮索することは、自然を研究する者のすることではない。けだし、あたかも幾何学者にとっても、幾何学の諸原理〔諸前提〕を否認する人々に対してはなんの議論のしようもないように、―というよりもむしろ、そうしたことは、或る他の学の、あるいはすべてに共通な学〔すなわち第一の哲学〕の仕事なのだが、―そのように、諸原理を研究しようとしている者にとっても、その対象たる諸原理そのものを否認する人々に対してはなんの議論のしようもないのである、というのは、もし「あるもの」が一つきりであり、しかもあのような意味で一つであるとすれば、もはや原理は存在しないわけだから。なぜなら、原理というからには、それはなにか或る一つのものの原理、または一つより多くのものどもの原理はずだから。
 だから実に、存在があのような意味で一つであるかどうかを詮索することは、あたかもよその誰かのただ議論のために議論されている逆説(たとえば、ヘラクレイトス流の逆説とか、あるいは誰だかの言った「存在はひとりの人間である」というような、そうした逆説)を相手に問答するのと同様であり、あるいは争論家的論議を解除し去ろうとするのと同様である。争論家的論議といえば、あの二人の、すなわちメリッソスとパルメニデスとの、どちらの議論にも争論家的なところがある、けだし、この二人は、虚偽を前提し、そして誤った推理をしているからである。もっとも、メリッソスの議論の方はよりいっそう粗雑で、なんらの困難も含まれていない、ただ或る一個の不条理な前提を許容しさえすれば、ああした結論はわけもなく出てくる、それは全くたやすい仕事である。

 だがとにかく、われわれ〔自然学研究者〕としては、自然によって存在するものども〔自然的諸存在、自然物〕のすべてを、あるいはすくなくもその或るものどもを、動くものであると前提しておきたい。そしてこのことは、事実からの帰納によっても明らかである。しかし同時にまた、あらゆる誤りをことごとく解除し去るということも、われわれの任務ではない。われわれの任務は、ただ当の学の諸原理〔諸前提〕から演鐸論証するに当たって誰かの犯した誤りだけをであって、その他の学でのそれをも解除し去るうとすることは、われわれの任務外である、それはあたかも、弓形〔円分〕を正方形化する仕方で円を正方形化することに反対するのは幾何学者の任務であるが、アンティポンのした仕方に反対するのは幾何学者の任務ではないのと同様である。だがとにかく、かれらの議論には、なるほど自然についての研究はないが、しかしたまたま自然学関係の〔空間・時間・運動などについての〕諸難問に言及しているところもあるから、それらについてすこしばかり論じ合っておくのもおそらく宜しきをえていよう、というのは、かれらの詮索にも一種の哲学〔真理愛〕が含まれているからである。

まずなによりも、つぎの問題から出発するのが最も適切であろう、すなわち、ものが「ある」〔存在する、云々である〕と言うのにもいろいろの意味があるからして、まず問題になるのは、すべて〔のあるもの〕を一つであると主張する人々が、果たしてその「ある」のいずれの意味でこのように主張しているのか?である。すなわち、
(1)果たしてかれらの言う「すべて」のあるものが、なにであるかと問われるあり方〔実体としてのあり方〕であるというのか、あるいはどれだけあるかと問われるあり方〔量としてのあり方〕であるというのか、あるいはどのようにあるかと問われるあり方〔性質としてのあり方〕であるというのか、さらにまた、(2)果たしてその「すべて」が、一つの実体としてあるというのか、たとえば、「すべて」がただ「一人の人間」であるとか「一頭の馬」であるとか「一つの霊魂」であるとかいうようにか、あるいは「すべて」が全く或る一つの性質であるというのか、たとえば、すべてが白いとか熱いとかその他このような或る一つの性質であるというのか、これらが問題である。というのは、これらはいずれも互いに全く異なることであり、かれらのように一律には主張しがたいからである。
 なぜそう主張しがたいかというに、それはまず、(1)、(a)もし「すべて」が実体としてもあり、性質としてもあり、量としてもあるものであるとすれば、たとえそれらが互いに切り離されてあるにしても、そうでないにしても、それらのあるものは〔一つではなくて〕多くあることになるからである。だがまた、(b)もし「すべて」が性質であるか量であるかであるとすれば、実体があろうとなかろうと、不条理な結論が出てくる、もし不可能なことを不条理と言うべきだとすれば。というのは、これら実体以外のあるものども〔性質・量・等々としての諸存在〕はいずれもその実体から離れて別には存在しないからである。けだし、これらはすべてその主語〔基体〕なる実体について述語されるもの〔実体の属性〕なのであるから。


・・・以下、省略・・・



  
第 4 章  〔 原理についての自然学者たちの見解と批判 〕

 では、自然学者たちはどう説いているかというに、それには二通りの説き方がある。すなわち、(1)或る自然学者たちは、事物の基体たる物体を一つであるとした、すなわち、あの三つ〔水・空気・火〕のうちのいずれか一つ、あるいは火よりは濃密だが空気よりは稀薄な或る他の一つ、であるとし、そしてその他の多くの事物は、この一つから生成するのであり、濃密化または稀薄化によって多となるのであるとした(だが、この濃密と稀薄とは互いに反対のものであり、一般的に言えば超過と不足とであり、それはあたかもプラトンの言う「大と小」と同じようにである、ただし、プラトンはこれら〔大と小と〕を質料だとし、「一」を形相だとしているが、かれら自然学者たちは〔逆に〕その基体としてあげた一つをば事物の質料だとし、反対のものども〔濃密と稀薄〕をばその事物の種差とし形相としているので、この点では異なっている)。
 しかるに、(2)他の自然学者たちは、一つのもののうちに反対的性質のものどもが含まれていて、これらがこの一つのものから分離して出てくるとしている。たとえばアナクシマンドロスの主張するように。あるいはまた、「あるもの」は一にして多であると主張する人々たとえばエンペドクレスやアナクサゴラスなどのように、というのは、この二人もまた、その混合体から分離して他のものどもが出てくるとしているからである。もっともこの二人はつぎの点で互いに異なっている、すなわち、前者〔エンペドクレス〕はそれらが周期的循環をなして出てくるとしたのに、後者は1回きりだとした点で、また後者は同質部分的なものどもおよび反対のものどもを数において無限であるとしたのに、前者はその言うところの元素〔四つ〕のみとした点で、互いに異なっている。

 ところで、アナクサゴラスがそれらをこのように無限であると考えるようになったのは、(a)「あらぬものからはなにものも生じない」という自然学者たちに共通の見解を真であると想定していたがゆえにであるように思われる(実に、このゆえに、かれらはあのように「すべては一緒であった」と言いうのは〔実は〕変化することであるとし、そして或る人々はこれを結合し分離することであるとも言ったのである)。だがさらに、(b)反対のものどもが互いに他から生じるということからも〔それらを無限であると考えるようになったものと思われる〕、なぜなら、それらはすでに初めから互いに他のうちに含まれていたはずだから。というのは、すべて生成するものは必然的に、あるものから生成するか、あらぬものから生成するかのどちらかであり、そしてこの両選択項のうち、あらぬものから生成するということの方は不可能であるとすれば(けだし、この見解〔あらぬものからはなにものも生成しないという見解〕は自然について論じた人々のすべてがひとしく承認し〔前提し〕ているところだから)、残る一項が、すなわち「あるものどもから生成する」ということが、―ただし、すでにその混合体のうちに含まれていたが、そのかさが小さいのでわれわれには知覚されなかったところの「あるものども」から生成するのだということが、―必然的に結論される、とかれらは考えたからである。

こうしてそれゆえに、かれらは、すべてがすべてから生成するのをみて、すべてはすべてのうちに混合されていると主張する。そしてかれらの説くところによると、それらが互いに異なるもののように現われ異なる名前をもって呼ばれるのは、」無限に多くのものの混合のうちで多さにおいて最も優勢に含まれているものの名前によってである。けだし、かれらによると、なにものも純粋に全く白くあり、あるいは黒くあり、あるいは甘くあり、あるいは肉であり、あるいは骨であるのではなくて、その各々の事物に最も多く含有されているところのもの、このものがその事物の自然〔実体〕であると思われるだけのことなのである。

 さて、(a)「無限なもの」が無限なものとしてのかぎり不可認識的であるとすれば、多さまたは大きさにおいて「無限なもの」は或る不可認識的な量であり、種において「無限なもの」は或る不可認識的な性質である。ところで、かれの原理は多さにおいても種においても無限なものであるから、これら無限な原理から成る事物〔複合体〕を知ることは不可能である。なぜなら、われわれがこの複合体を知ったと言われるのは、それがどのような性質のものから成り、またどれほど多くの量から成るかを知ったときにであるから。
  ・・・中略・・・



 
第 6 章 〔 原理は数において二つまたは三つであること 〕

 だがつぎに論ずべきは、こうした原理が二つであるか三つであるか、あるいはそれより多くであるかについてである。というのは、(1)原理は一つではありえないからである、なぜなら、〔原理たるべき〕反対のものどもは一つではないから。だが(2)無限に多くでもありえない、そのわけは、(a)〔もし原理が無限に多いとすると〕あるものが認識されないということになろうから、そしてまた、(b)いかかる一つの類のうちにも〔最高の原理たるにふさわしい〕反対性はただ一対あるだけであり、実体は或る一つの〔最も普遍的な〕類であるから、なおまた、(c)限られた数の原理をもってしても認識は可能であり、しかも無限に多くの原理をもってするよりは、エンペドクレスのしたように、限られた数の原理をもってする方がよりよいからである。このことは、現に、あのアナクサゴラスがその無限に多くの原理をもって説明したところのすべてを、エンペドクレスは〔その限られた数の原理をもって〕説明しえたとしているのでもわかる。なお最後に、(d)或る反対のものどもは他のよりもより先であり、また或る反対のものどもから他の反対のものども、たとえば甘と辛、白と黒のごときが、生成〔派生〕することもある、しかるに原理〔始まり〕は常に〔始めのものとして〕止まっていなくてはならない。
 さて、以上によって、原理が一つでもなく、また無限に多くでもないということは、明白である。だが、(3)原理がその数において限られているとなると、原理を二つきりではないとする考えも出てくるが、これには相当な理由がある。というのは、(a)〔もし、反対のものども二つきりだとすると〕どうした自然的な仕方で、濃密は稀薄に対し、あるいは逆に、稀薄は濃密に対して、なんらかの働きを及ぼしうるのか、という難問が生じようから。そして、これと同様の難問は、その他のいかなる反対性についても生じる。というのは、たとえば、あの愛があの憎みをさそい集めて、これからなにものかを作り出すとか、あるいは逆に、憎みが愛からなにものかを作り出すとかいうようなこともありえないで、かえって、これら両者が或る第三のものに働きかけて、この第三のものからなにものかをであろうから。だが或る人々は、この第三のものをも一つより多くあるとし、そしてこれらから、かれらは、あらゆる存在事物の自然が組み立てられているのだとしている。

なおまた、(b)上述の諸難問のほかに、もしこれら反対のものどもの基に〔これらの基体として〕或る第三の実在をたてないと、さらにつぎのような難問が提起されるであろう。けだし、われわれには、反対のものどもがいかなる存在の実体であるとも認められず、しかも原理たるものは、他のいかなる基体〔主語〕についてもその属性〔述語〕とされてはならない、なぜなら、もしそうだとすると、当の原理のそのまた原理があることになろうからである。というのは、基体はもとのもの〔原理〕であり、これの述語となるもの〔属性〕よりもより先であると考えられるからである。
 なおまた、(C)われわれは、或る実体を他の実体に対して反対のものであるとは言わない。そうだとすれば、どうして実体でないものから実体が生じえようか? あるいはまた、どうして実体でないものが実体より先でありえようか?

 ・・・以下、省略・・・