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2019文献資料:アリストテレス『天体論』

 
 アリストテレス『天体論』  村治能就訳

  アリストテレス全集第4巻 岩波書店 1968年発行



        「自然学」関連目次

Ⅰ. 『自然学』 Ⅱ. 『天体論』 Ⅲ. 『生成消滅論』 Ⅳ. 『気象論




  
アリストテレス著 『天体論』


  第 1 巻 天体について
第 1 章 〔自然研究の対象は物体、大きさ、属性、運動、その諸原理〕


 自然に関する学問は明らかに、ほとんど大部分が、物体や大きさやそれらの諸属性ならびに運動について研究する。がさらに、こうした実体に属するかぎりの諸原理をも取り扱う。なぜかというと、自然によって形成されるもののうち、その或るものは物体や大きさ〔そのもの〕であり、或るものは物体や大きさをもっており、また或るものはそれら物体や大きさをもつものの諸原理だからである。
 さて、連続的なものとはとこまでも分割をかさねうるものであり、他方、物体とはすべての方向に分割できるもののことである。大きさのうち1方向に分割できるものが線であり、2方向にできるものが面であり、3方向にできるものが物体である。そして、これらのはかに他の大きさは存在しない、それは3つのものが存在するすべてのものであり、3つの方向がすべての方向であるからである。なぜなら、ピュタゴラスの徒も言うように、全宇宙もその内にある万物も3によって限られている、けだし、終りと中と始めとによって全休の数は与えられるが、それらがまた3なる数にはかならないからである。それゆえ自然からあたかもその法則のように〔この3なる数を〕受けとって、われわれはそれを、神々を祭るに際し、用いているのである。またじじつ物を呼ぶにも、こういう仕方を用いている、なぜなら、われわれは2つを両方と言い、2人を両人と呼ぶが、それをすべてだとは言わない、むしろ3つのものについて初めてこの〔すべてという〕呼び方をするからである。そしてこういう呼び方をするのも、いまも言うように、自然自身がそのように導くから、われわれもそれについてゆくまでのことなのである。


 したがって、「すべて」とか「全体」とか「完全」とかいっても、形相の点ではそれらのあいだになんら違いはないのであって、違いがあるとすれば、質料において、つまりそれらの名称がつけられる当のもの〔基体〕においてであるから、物体だけが大きさのうえで完全なものであろう。なぜかというと、物体だけが「3」によって限られており、しかも、このものが全体なのだからである。また3方向に分割できるものであるから、物体はすべての方向に分割されるのである、しかしその他のものでは、或るものは2方向に、他のものは1方向に分割される。なぜなら、それらは数にあずかるとすれば、同じく分割や連続にもあずかるからである、つまり或るものは1方向に連続的であり、他のものは2方向に、また他のものはすべての方向にそうなのである。だから大きさのうちで、分割できるかぎりのものは、すべて連続的でもある。だが連続的なものであれば、すべてまた分割できるかどうかは、いま言ったことからは明らかでない。ただ、つぎのことだけは明らかである、すなわち、線から面へ、面から物体へといった具合に、〔物体をこえてさらに〕他の類に移ることはできない。なぜなら、〔できるとすると〕物体はまだ完全な大きさではないであろうから。というのも、移り行きは、足りない点があれば、必ずそこから起きるにちがいないが、しかし完全なものが足りないということはありえない、なぜなら、完全なものはすべての点で存在しているからである。


 ところで、部分のかたちで存在する物体〔元素〕はおのおの、以上のようなわれわれの定義に従えば、こういった完全なものである―なぜなら、すべての方向〔3つの方向〕へのひろがりをもっているからである―ただし、自分に近く存在するものに接触することによって限られるから、それら物体はそれぞれ或る意味では多なるものである。これに反して、それらを部分とする全体は必ず完全であらねばならないし、またその名〔全体〕が示すように、全体的に〔すべての点で〕存在していなければならない、つまり、或る点では存在するが、他の、点では存在しないといったものであってはならないのである。



第 2 章 〔 四つの元素と第5の物体的実体 〕


 ところで、全宇宙の本性について、その大きさが無限であるか、あるいはその総体積が限られているかどうかは、後になって検討すべきことである。がしかし、それらの部分のかたちで存在するもの〔元素〕については、いま、つぎのような〔論議の〕きっかけをつくって、述べることにしよう。すなわち、われわれの考えでは、自然的な物体や大きさはすべてそれ自ら場所的に動くことのできるものだということである。なぜなら、自然がそれらの運動の原理だとわれわれは主張するからである。さて、場所的な運動、すなわちわれわれが移動と呼んでいるものはすべて、あるいは直線的か、あるいは円環的か、あるいはまたこの両者の混合したものかである。けだし、この両者だけが単純な運動だからである。そしてその理由はといえば、直線と円と、これら二つの大きさだけが単純だからである。ところで、円環的とは中心をめぐる運動のことであり、直線的とは上へと下への運動のことである。また上へと私の言うのは、中心から離れるものをさし、下へと言うのは中心へ向かうものをさすのである。かくして単純な移動はすべて必然的に中心から離れる運動か、中心へ向かう運動か、中心をめぐる運動かいずれかでなければならない。そしてこのことは初めに言ったことと理窟が合うと思われる。なぜなら、物体もさきに3において完全なものになったが、その運動もいま3において完全なものになったからである。


 しかし物体のうち、或るものは単純であり、他のものはそれら単純なものから合成されたものである(単純なものと私の言うのは運動の原理をその本性のうちにもっているかぎりのものをさす、たとえば火や土やこれらの類に属するものやこれらと同類のものがそれである)。であるから、運動もまた必ず或るものは単純であり他のものはなんらか混合したものであらねばならない、また単純物体の場合にはその運動は単純であり、合成物体の場合にはその運動は混合的であらねばならないが、ただ、合成物体の運動は合成要素〔単純物体〕のうちの優勢なものに従うのでなければならない。そこで、いやしくも単純な運動が存在し、そして円運動が単純な運動であり、また単純物体の運動が単純であり、単純な運動は単純物体のであるとするならば(なぜなら、単純な運動が合成物体のであるとしても、〔その運動は〕優勢な単純物体に従っているだろうから)、だとすると、それ自らの本性に従って円運動をするようにきまっているところの、なにか単純物体が存在しなければならない。
なぜかといえば、単純物体〔元素〕のおのおのにはその本性に従った運動が一つしかない以上、強制されればあるいはそれ自身のとは別の他の運動をうけ入れるとも考えられるが、本性に従えばそうしたことは不可能だからである。さらに、もしも本性に反する運動は本性に従う運動とは相反するものであり、一つには一つの反対しかないとすれば、円運動は単純なのだから、それがもしも移動する物体の本性に従っていないだろうとすると、必然的に移動する物体の本性に反するものでなければならない。だから、もしも火あるいはその他そういったものが円運動をするものだとすると、それの本性に合った移動は円運動とは反対なものであろう。しかし一つには一つが反対する、つまり上への運動と下への運動とは互いに反対である。他方、もしも本性に反して円運動する物体があってそれは〔四元素〕とはなにか別のものだとすると、それにはなにか他の本性に合った運動が属するであろう。だがこのことは不可能である。なぜかというと、上への運動が属するならば、それは火あるいは空気であろうし、下への運動が属するならば、それは水か土かであろうから。のみならず、こうした〔円〕運動は最初のものでなければならない。なぜなら、完結したものは完結しないものよりも本来先であり、円は完結したものの一つであるが、どんな直線もそうではないからである。すなわち、無限な直線もそうでないし(もし完結したものなら、始めと終りとをもち〔無限ではない〕だろうから)、またどんな有限な直線もそうでない(なぜなら、すべての有限な直線にはそれのそとにそれをこえてなにかが存在する、つまりどんな直線も延長することができる〔とすれば完結していない〕からである)。


 したがって、より先なる運動は、自然においてはより先なる物体に属するが、円運動は直線運動よりも先であり、直線運動は単純物体に属するから(なぜなら、火は直線的に上へと移動し、また土的なものは下へと中心に向かって移動するから)、必然的に円運動もまた単純物体のうちの〔より先なる〕或るものに属さなければならない。というのも、混合物体に属する移動は混合している単純物体どものうち、優勢なものにかなったものであることは既にわれわれの述べたところだからである。それで以上のことから明らかなことは、この地上における〔四種の〕形成物のほかになにか別に或る物体的な実体が自然に存在しており、そしてそれはこれら地上のあらゆるものよりも神的でかつ先なるものであるということである。が同時にまた、このことはつぎのような場合にも明らかである。すなわち、すべての運動は本性に従って、あるいは本性に反して行なわれる、そして一つのものにとって本性に反する運動が他のものにとっては本性に従った運動である、たとえば上昇運動と下降運動とは自然そういう具合になっている、なぜかというと、一方の運動は火にとって、他方の運動は土にとって本性に反しまた本性に従っているから、かくて必然的に円運動もまた、これら火や土にとっては本性に反するものだから、それはなにか他のものに、それの本性に従ったものとして属するのでなければならないと、こうひとが想定するような場合にも明らかである。さらに以上のことに加えて、もしも円運動が或るものにとってその本性に合ったものであるとするならば、単純で最初のものどもに属する或る物体が存在することは明らかであろう、そしてそれは、火が上へまた土が下へと動くように、その本性に従って本来円運動をするようになっているものであろう。これに反して、もしも円運動するものどもが円を描いて移動するのは本性に反してであるとするならば、こうした運動のみがひとり連続的でかつ永久的だということは、それが本性に反したものであるだけに、不可思議であり、また全く不合理である。なぜかというと、他のものどもの場合においては、少なくともその本性に反したものは明らかに最も速くほろび去るからである。


 したがって、動くものが、或るひとたちの言うように、火であるならば、円運動は下降運動に劣らず、火にとってはその本性に反するものである。なぜなら、現にわれわれは火の運動が中心から直線的にはなれる運動であることを観ているからである。だから、以上述べたすべてのことから推して、この地上のわれわれの周囲にある物体のほかになにか別に〔これらとは〕切りはなされたものが存在し、それはこの地上のものどもから遠くはなれているだけそれだけより尊い本性をもっているということ信ずることができるであろう。

・・・以下、第1巻省略・・・



 第 3 巻
第 3 章 〔 元素をめぐる諸見解 〕

 で、残るところは、どんな物体には生成があり、また、なぜそうなのかを述べることである。さて、どんな場合でも知識は最初のものによって生まれるのであるが、諸元素は物体を成り立たせるもののうちでも最初のものだから、こうしたもののうちのどれが元素であるか、またなぜそうなのか、さらにその数はいくつで、どんな性質であるのかを検討しなければならない。しかしこれは、元素の本性がなんであるかを仮定すれば、おのずと明らかになる。そこで、元素とは、物体が分解されると、でて来る物体であって、諸他の物体のうちに可能的に、または現実的に含まれているものと仮定しよう(可能と現実とのいずれであるかは、なお議論の余地があるのだから)、しかし元素それ自身は類的には他のものに分解されないものである。けだし、実際、すべてのひとたちがあらゆる場合に元素とはなにかこういったもるのだと言おうとしているからである。そこで、元素とは上述のようなものだとすると、なにかこういった物体が必然的に存在しなければならない。なぜなら、肉とか木とか個々のこういったもののうちには、火や土が可能的に含まれているからである。その証拠に、火や土が現に肉や木などから放出されている。これに反して、肉や木は火の中に、可能的にも現実的にも、含まれていない。でなければ、それらが火から放出されるだろう。同じように、たとえこうしたものが一つだけしか存在しないとしても、それらがそのうちに含まれることはあるまい。なぜなら、たとえそれが肉とか骨とかその他そういったもののどれかであるとしても、それで直ちにこれがすべてのものを可能的に含むとは言いえない、むしろこれがそうしたものどもになる生成の仕方はとうかをさらにみるべきだからである。


 アナクサゴラスは元素についてエムペドクレスと反対なことを説いている。すなわち、エムヘドクレスは火や土やこれらと同類のものが物体の元素であって、 万物はこれらから合成されると言うが、アナクサゴラスはこれに反対する。かれによれば、元素とは同質部分的なもの(つまり、たとえば、肉とか骨とかそういった個々のもの)のことである、空気や火は、これに対して、これらおよびその他あらゆる種子の混合物なのである、つまり、空気も火もそれぞれすべての目に見えない同質部分的なものが全部集まって出来たものなのである。だから、万物はこれら空気と火から生成するとも言う。現にかれは火とアイテールを同じものだと言っているのである。また、すべての自然的な物体は自己本来の運動をもち、その運動には単純なのと混合したのとがあり、そして混合運動は混合物体のであり、単純運動は単純物体のである以上、なにか単純物体が存在するだろうことは明らかである。なぜなら、単純運動が現に存在するからである。かくして、元素が存在するということ、また、なにゆえに存在するかということも明らかである。



第 4 章 〔 元素の数について 〕


 つぎに検討すべきことは、元素の数は有限か無限か、いずれか、また有限ならば、その数はいくつかということだろう。まずはじめに、或るひとたちの考えるように、その数は無限であるわけにはいかない、そのことをみてゆこう。それにはまず、同質部分的なものをすべて元素だとするアナクサゴラスのような場合をみょう。実際、このような見解をとるひとたちはだれも、元素を正しくつかんでいないのである。なぜかというに、われわれの見るところでは、多くの混合物体、たとえば肉とか骨とか木とか石とかをさすのであるが、これらは同質部分的なものに分解されるからである。

 したがって、もしも複合体が元素でないとすれば、すべての同質部分的なものも必ずしも元素ではなくて、先にも述べた〔本巻第3章〕ように、類において他のものに分割できないものだけが元素であろう。さらに、このような意味に解すれば、元素をその数が無限だとする必然性もなくなる。というのは、元素は有限であるとしても、以上の意味にとれば、全く同じ結果になるだろう。つまり、エムヘドクレスも試みているように、こうしたものがわずか2つか3つしかないにしても、同じことになるからである。なぜなら、かれらのように考えても、すべてが同質部分的なものからなるとすることにはならない(現にかれらは顔を顔から成るとも、そのほか自然に形づくられたもののどれをも、そんな風に解しているわけではない)、だから原理の数は有限なものとするほうがはるかによく、しかも証明されようとするものがすべて同じものであるかぎり、できるだけ少ないほうがよいことは明らかである。このことは、まさに数学者たちも要求しているとおりである。


 なぜなら、かれらはつねに原理を類か数か、いずれかにおいて有限なものとするからである。さらに、物体が他の物体と異なると言われるのはそれらに固有な差異によってであり、その差異が有限ならば(実際、差異があるのは、感覚されるものによってであるし、またこれらはその数が有限である、もっとも有限だということについては証明する必要があるけれども)、明らかに元素もまたその数は必ず有限でなければならない。

 のみならず、他のひとたち、たとえばレウキッポスやアブデラ人デモクリトスがしたような仕方で説いても、同様にその結果は合理的なものでない。なぜかというと、かれらによれば、最初の大きさあるものは数において無限ではあるが、大きさとしては、それ以上分割できないものであって、一が多に成ったり、あるいは多が一に成ったりするのではなく、むしろこれらの大きさの接合と組合せとによって万物は生み出されるからである。実際、このひとたちも或る意味ではすべての事物を数でありまた数から成るとしている。もちろん、はっきりと言つてはいないが、とにかく、それはかれらの言おうとしているところなのである。


 そのうえ、かれらは、物体は形において相違があり、形は無数であるから、単純物体もその数は無限だと言う。もっとも、おのおのの元素〔原子〕の形がどんな性質のものか、そしてなにであるかについては、細かに規定しておらず、ただ、火に球の形を与えるだけである、また空気や水やその他のものを大小で分け、それらの本性はあらゆる元素のいわば汎種子混合体のようなものだとしている。だから、このひとたちにしても、同じ誤りは第一に、原理を限られたものとして把握していないことである、原理を限っても、かれらが言いたいことは同じように言えるのである。つぎには、もしも物体の差異が無数でないとすれば、明らかに元素は無数ではないだろう。そのうえ、不可分な物体を唱えることによって必然的に数学的な知識に逆らわねばならなくなるとともに、一般の通念や感覚的な事実をも否定しなければならなくなる。これらの点については、時間と運動とを論じたところですでに述べておいた。

 しかし、かれらは〔他の意見と衝突するばかりでなく〕同時にまた自家撞着せざるをえないのである。そのわけは、元素が不可分だとすると、空気と土と水とは〔原子の〕大小で区別することができない。なぜなら、それらは相互に生成し合うこともできないから。けだし、最大の原子がつぎつぎに分け出されると、やがてきっと不足するだろう、しかもこのようにして、水と空気と地とは相互に生成するとかれらは説くからである。またこのひとたちの見解によっても、元素の数は無限になりそうもないようである。なぜかというと、物体は形において相違し、形はすべて角錐から合成される、すなわち、直線的な形は直線的なもの〔正四面体〕から、球は八つの〔正四面体型の〕部分から合成されるとするからである。つまり、形には一定の原理がなければならず、そうすれば、その原理が一つか二つか、またはそれより多数か、いずれかであるにしても、とにかく単純物体の場合もその数は〔この原理と〕同じになるだろうからである。さらにまた、おのおのの元素にはなにかそれに固有な運動があり、そして単純物体の運動は単純であり、しかも単純運動の数は二つ以上ではなくて場所も無限ではないがゆえに、単純運動の数は無限ではないとすれば、このようにしてもまた、元素の数は無限ではありえないだろう。
・・・第5章以下、省略・・・