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ジョン・ロック著 
人間知性論  1689年
             An Essay concerning Human Understanding
 1689年
                 (ジョン・ロック:1632-1704)



   『人間知性論』 第2巻 観念について

                 第8章  
単純観念にかんする他の諸考察  抄録

                 第23章 
実体の私たちの複雑観念  抄録


   
第8章 単純観念にかんする他の諸考察

  心では観念、物体では性質

7. 観念の本性(nature)をさらによく発見して、観念にかんする論議を理会できるようにするため、
観念をもって心にある観念ないし知覚とする場合と、そうした知覚を私たちのうちに生む物体での
物質の変容とする揚合とに区別することが便利だろう。そうするのは、このように区別して観念は
〔物質的〕主体に内属する〔固有な〕ある事物の正確に心像・類似物だと私たちが(おそらく通常は
そう考えるが)考えないためである。というのも、感覚の観念の大部分は心では私たちの外にある
事物の似よりでなく、その点は、観念を表わす名まえが観念の似よりでなくて、しかも、名まえを
聞くと私たちのうちに観念が喚起されがちであるのと、同じなのである。

8 いったい、心が自分自身のうちに知覚するもの、いいかえると、知覚とか思惟とか知性とかの直接
対象であるもの、これを私は観念(idea)と呼ぶ。そして、心になにかの観念を産む力能を、この力能が
存する主体の性質(quality)と呼ぶ。たとえば雪の球は白いとか冷たいとかまるいとかの観念を私たち
のうちに産む力能をもっている。そこで、白い・冷たい・まるいが雪の球にあるとしてそれらの観念を
私たちのうちに産む力能を、私は性質と呼ぶ。また、白い・冷たい・まるいが私たち
の知性のうちの感覚ないし知覚であるとして、これらを観念と呼ぶのである。もしこの観念を私
が事物自身にあるように語ることがあるとしたら、私たちのうちに観念を産む事物の性質を意味
すると理解していただきたい。



一次性質

9 物体のうちにこんなふうに考えられる性質は、第一、物体がどんな状態であれ、物体から
まったく分離できないようなもの、物体がどんな変更・変化を受けようと、どんな力が物体に加えられようと、それらを通じて物体が不断に保有するようなもの、知覚するにじゅうぶんなかさの物質分子のすべてに感官が不断に見いだし、また、たとえ単独では感官が知覚するのに小さすぎる物質であっても、すべての物質分子から分離できないと心が見いだすようなもの、そうしたものである。たとえば、一粒の小麦をとって、二つの部分に分割しよう。それぞれの部分はやはり固性・延長・形・可動性をもっている。また、分割しよう。やはり同じ性質を保有する。こうして、部分が感知できなくなるまで、分割していこう。部分はそれぞれそうした性質をやはりすべて保有するに違いない。なぜなら、(製粉機やすりこ木やその他なにかの物体が他の物体を、感知できない部分に砕くさい、他の物体に対して行なうことは、まっ
たく分割ということだけだが)分割は、ある物体から固性・延長・形・可動性のどれにもせよ、取り去ることがけっしてできず、前にはただ一つであった物質のかたまりを二つまたはそれ以上の別個な分離したかたまりにするだけであり、それら別個なかたまりはすべて、分割ののちそれだけ多数の別個な物体と数えられて、ある一定の数を作るのである。こうした性質を、私は物体の本原的性質ないし一次性質と呼ぶ。この性質が私たちのうちに単純観念、すなわち固性、延長、形、運動あるいは静止、数を産むことは、私たちに観察できようと思う。

10 第二に、本当は事物自身にあってはその事物の一次性質によって、すなわち、事物の感
知できない部分のかさ・形・組織・運動によって。多種多様な感覚を産む力能であるにすぎない
ような性質であり、たとえば色、音、味などである。これを私は二次性質と呼ぶ。これに、ただ
単に力能とだけ認められる第三の種類を加えてよかろう。とはいえ、これも主体の真実の性質で
あって、その点では、私か普通の話し方に従って性質と、ただし〔一次性質と〕区別じて二次性質
と呼ぶものと、まったく同じなのである。なぜなら、〔たとえば〕火の一次性質によってろうや粘
土に新しい色あるいは堅さを産む火の力能は火の性質であって、その点では、私が前に感じなか
った暖かさとか熱いとかの新しい観念ないし感覚を〔火の〕一次性質によって、すなわち〔火の〕感
知できない部分のかさ・組織・運動によって私たちのうちに産むような火の力能とまったく同じ
なのである。



一次性質がその観念を産む仕方

11 次に考察すべきことは、物体が私たちのうちに観念を産む仕方である。そして、これは
  明々白々に、物体が作用すると想念できる唯一の道である衝撃によるのである。

12. そこで、外的対象が私たちの心に観念を産むとき、心と一体になっていないとすれば、
しかも、私たちは、感官へ単独に入ってくるような対象で前記の本原的性質を知覚するとすれば、
明らかに、私たちの身体のある部分によるある運動がこの対象から脳、いいかえれば感覚の座ま
で、私たちの神経ないし動物精気によって続けられ、この脳いいかえれば感覚の座で、それら本
原的性質について私たちのもつ特定の観念を心に産むのでなければならない。で、ある観察でき
る大きさの物体の延長や形や数や運動は視覚がある距離を置いて知覚できるのであるから、明ら
かに、単独では知覚できないある物体が、観察できる大きさの物体から目までやって来て、これ
である運動を脳に伝えるのでなければならず、この運動が、観察できる物体について私たちのも
つ観念を私たちのうちに産むのである。

二次性質の〔知られる〕仕方

13. これら本原的性質の観念が私たちのうちに産み出されるのと同じやり方で二次性質の観
 念も産みだされると、すなわち、感知できない分子が感官へ作用することによると、
考えることができよう。というのは、私たちの感
官のどれによっても一つ一つのかさや形や運動を発見できないほど小さな物体が、しかもたくさ
んの物体が、明々白々にある。この点は、空気や水の分子やその他それらより極端に小さな分子
で明白であり、そうした分子は、事によると、空気や水の分子がエン豆や雹(ひょう)の分子より小さい
のと同じくらい、空気や水の分子より小さいだろう。そこで、さまざまに運動するさまざまな形・か
さ・数のこうした分子が私たちの各種の感官を感発して、私たちのうちに物体の色や匂いからく
るさまざまな感覚を産むと、差し当たっては想定しよう。たとえば、すみれは、独特の形とかさ
の、さまざまな程度と変容の運動をする、こうした感知できない物質分子の衝撃によって、この
花の青い色やよい匂いの観念を私たちの心に産むようにすると、想定しよう。というのも、神は
このような〔すみれの色や匂いの〕観念を、これとすこしも相似しない〔すみれの分子の衝撃とい
  う〕そうした運動に結びつけたもうたと想念することは、神が痛みの観念を、この観念にすこし
  も類似しない、肉を裂く鋼鉄片の運動に結びつけたもうたと想念することと同しように、できな
くはないのである。


14. 色や匂いについて言ってきたことは、味や音やその他の似かよった可感的性質について
も理解できよう。それらは、どれほどまちがって実在するとされるにせよ、本当は、事物自身に
あっては多様な感覚を私たちのうちに産む力能にすぎず、前述のように事物の一次性質、すなわ
ち部分のかさ・形・組織・運勁にもとづくのである。



一次性質の観念は類似物で、二次性質のはそうでない

15. これからして、次のことがよういに言えてくると思う。すなわち、物体の一次性質の観念は、
物体の類似物であり、その範型は物体自身に実在するが、それら二次性質によって私たちのうちに
産みだされる観念は、物体にすこしも類似しないのである。〔二次性質の場合、〕私たちの観念に
似よりのものは、物体自身のうちになにもない。二次性質は、この性質にもとづいて〔たとえば甘い
などの〕名まえで呼ぶ物体では、そうした感覚を私たちのうちに産む力能にすぎない。で、観念で
甘いとか青いとか温かいというのは、私たちがそう呼ぶ物体自身では、感知できない
部分のあるかさ・形・運動にすぎないのである。

16. 〔たとえば〕炎は熱くて明るく、雪は白くて冷たく、マナは白くて甘いと、炎や雪やマナ
が私たちのうちに産む観念から呼称される。普通は、これらの性質がそれら物体にあるのと、そ
うした観念が私たちのうちにあるのと同じで、観念は鏡に映っているように物体の性質の完全な
類似物だと考えられ、もしそうでないと言う者があったら途方もないと、多くの人に批判されよ
う。けれども。あ気即趾て利たちそっちに暖かさの感覚を近も火と同じ火がもっと近づくと、痛
さというびじJうど誉長ぺ感覚を私た吃のうちに産むことを考える者は。火かに(刀のうすに産む
暖かさの観念は現実に火のうちにあって、同じ火が自分のうちに同じように産む痛さの観念は火
のうちにないと、どんな理由で言うのか、とくと考えるべきである。また、雪が白さ・冷たさの
観念と痛さの観念を私たちのうちに産み、どちらも雪の固性ある部分のかさ・形・数・運動によ
ってでなければ産めないのに、なぜ白さと冷たさは雪にあって、痛さはないのか。




17. 火や雪の諸部分の特定のかさ・数・形・運動は、だれかの感官が火や雪を知覚すると否
とにかかわらず、火や雪に真実にある。したがって、それらの物体に実在するから、実在的性質
と呼んでよい。が、明るさ、熱さ、白さ、冷たさは火や雪になく、その点は、吐き気や痛みがマ
ナにないのと同じだ。そうした〔明るさや熱さなどの〕感覚を取り去ろう。目に明るさあるいは色
を見せず、耳に音を聞かせず、上顎に味わわせず、鼻に嗅がせないようにしよう。そうすれば、
色も味も香もすべて、そうした特定の観念としては消えてなくなり、それらの原因に、すなわち
〔観念を産む物体の〕部分のかさ・形・運動に還元されるのである。

  ・・・以下、省略・・・





第23章  実体の私たちの複雑観念について



実体の観念はどのようにして作られるか

1. いったい、心には、すでに〔本巻第2章第2節で〕言明しておいたように、外の事物に見い
だされるままに感官が伝える単純観念や、心自身の作用について内省の伝える単純観念がたくさん備えつけられるが、心は、これら単純観念の一定数が絶えずいっしょにくることも覚知する。この一定数の単純観念は一つの事物に属すると推定されるし、また、ことばというものは共通の認知に適して、手早く処理するため使われるので、それら一定数の単純観念はそんな風に〔認知され処理されるように〕一つの
主体に合一されて、一つの名まえで呼ばれる。これを疎漏のため、私たちは後になると一つの単
純観念のように語りがち、考えがちだが、実は多くの観念がいっしょになった複雑体である。と
いうのも、すでに〔第2巻第4章第19節で〕述べたように、複雑体を構成する単純観念が自存で
きるようすは想像されないので、私たちはある基体があって、そのうちにそれら単純観念が存立し、
それから結果すると、そう想定するように習慣づけられるのであり、そこで、この基体を実体と呼ぶのである。



実体一般についての私たちの観念

2.それゆえ、純粋実体一般という思想についてみすがら検討しようとする者はだれも見いだすだろうが、
この観念は、私たちのうちに単純観念を産むことのできる諸性貿のなにかわからない支えという想定
それだけのほかにはまったくなく、この諸性質が普通は偶有性と呼ばれるのである。もし〔たとえば〕色
あるいは重さが内属する主体はなにかと問われる者があったら、固性あり延長ある部分というほ
かにはなにも言うことがなかったろう。また、この固性と延長とが内属するものはなにかとたず
ねられたら、この人は、前に〔本巻第13章第19節で〕挙げたインド人よりはるかによい事態には
ありはしなかっただろう。そのインド人は、世界が大きな象で支えられていると言って、なんの
上にその象は立っているかと問われた。それに対するインド人の答は大きな亀たった。が、この
背中の広い亀を支えるものを知るようにさらにせがまれて、なにかわからないある事物(もの)と答えた
のである。こうしてこの場合、私たちは、明晰判明な観念をもたずにことばを使う他のすべての
場合と同じように、子どもたちのように語るのだ。子どもたちは、自分の知らないような事物が
なにかと質問されると、ある事物だと即座に答えて満足する。が、本当は、子どもたちにせよ、
おとなの人たちにせよ、ある事物というのは、そのように使われるとき、次のことを意味表示す
るだけだ。すなわち、その人たちにはわからないこと、その人たちが知り語ると称する事物は判
明な観念のまったくないもので、したがって、それについてその人たちは完全に無知で蒙昧にあ
ること、そうしたことを意味表示するだけだ。してみると、私たちのもつ観念で実体という一般
名の与えられるものは、存在すると見いだされる諸性質の想定されはするが知られない支えにす
ぎず、私たちは、それら諸性質がsine re substanteすなわち支える事物なしに存立できないと
想像するので、この支えをsuatantia〔実体〕と呼ぶのであるが、このことぱの本当の表意に従う
と、わかりやすいイギリス語で言えば、standing under〔下に立つ〕とかupholding〔上に保つ〕
とか言うことなのである。



各種の実体について
3. 実体一般の不明瞭で相関的な観念はこうして作られるが、個々の種の実体の観念は、人々
の感官の経験と観察によっていっしょに存在すると覚知され、したがって、
この実体の特殊な内部構造すなわち不知の本質から生ずると想定されるよ
うな、単純観念の集成をまとめてえられるようになる。こうして私たちは〔たとえば〕人間・馬・
金・水などの観念をもつようになる。それら人間などの実体について、いっしょに共存する一定
の単純観念というより他のなにか明晰な観念をもつ者があるかどうか、私はすべての人自身の経
験に訴える。〔たとえば〕鉄とかダイアモンドとかに観察できる通常の諸性質がいっしょになって、
鉄やダイアモンドの実体の真の複雑観念を作るのであって、鍛冶屋や宝石商はふつう哲学者より
よく知っている。哲学者は、実体的形相ついてなにを語るうと、鉄やダイアモンドに見いださ
れることになっている単純観念の集合で形成されるものと別な鉄やダイアモンドの実体観念をもって
はいない。ただ注意しなければならないが、実体についての私たちの複雑観念には、この
観念を作るそれらすべての単純観念に加えて、そうした単純観念が属し存立するある事物という
混乱した観念がいつもある。それゆえ、ある種の実休について話すとき、私たちは、その実体が
かくかくの性質をもつある事物だと言うのである。たとえば物体は、延長を有し、形をもち、運動
できるある事物で、精神はある思考できる事物である。同じように、硬さともろさと鉄を引き
よせる力能とは磁石に見いだされる性質だと、私たちは言う。これらおよび似よった話し方は、
実体がいつも、なにかわからないが延長・形・固性・運動・思考その他の観察できる観念より以
外のある事物と想定されていることをはっきり示している。



実体一般の明晰な観念はない

4. それゆえ、〔たとえば〕馬や石など、形体的実体のある特定の種について語ったり考えたり
するとき、それら馬や石のどちらについても私たちのもつ観念は、馬あるいは石と呼ばれる事物に合一すると日ごろ見いだされているような可感的性質のいくつかの単純観念の複雑体ないし集合体にすぎないが、しかも、それらの性質が単独もしくは相互のうちに存立するようすを想念できないので、私たちは、それらの性
質がある共通主体のうちに存在し、この主休によって支えられていると想念する。この支えを私
たちは実体という名まえで示表するが、私たちがある支えと想定する事物の明晰あるいは判明な
観念は、絶対確実に私たちにないのである。



精神の観念の明晰さは物体と同じ

5. 同じことが心の作用すなわち思考することや推理することや恐れることなどについても起こる。
私たちはこれらの作用がひとりでは存立しないと結諭し、また、どのようにして物体に属したり物体によって
産みだされたりできるかを認知しないので、これらは精神[ないし霊]と呼ばれる別なある実体の活動
だと考えがちなのである。が、これで明白なように、〔物質の場合に〕私たちの感官を感発する多
くの可感的性質が存立するある事物というほかに、物質〔的実体〕の別な観念ないし思念をもたな
いが、〔精神の場合も〕私たちは、思考することや知ることや疑うことや運動する力能などが存立
するある実体を想定することによって、物質についてもつのと同じくらい明晰な〔実は不明晰な〕
精神の軋何丿思念をもつ。というのは、物質の実体は、私たちが外からえる単純観念の(なんで
あるかわがらずに)基体だと想定され、精神の実体は(なんであるかについて似よった無知を伴っ
て)内なる自分自身に実地経験される諸作用の基体だと想定されるからである。してみれば、だ
れにもわかるように、物質の形体的実体の観念は、精神的実体すなわち精神〔ないし霊〕の観念と
同じように私たちの想念・認知から遠いのであり、それゆえ、私たちが精神の実体の思念をなに
ももたないところから、精神の実体の非存在を結論できないことは、同じ〔物体の実体の思念を
もたない〕理由で物体の存在を否定できないのと同じである。なぜなら、物質の実体の明晰判明
な観念を私たちがもたないことを理由に物質がないと断言することは、精神の実体の明晰判明な
観念をもたないことを理由に精神はないと言うのを同じように理知に合うからである。〔しかし、
物質の存在は疑えない。同じように、精神もまちがいなく存在する。〕




各種の実体について

6. それゆえ、実体一般の隠れた深奥の本性がなんであろうと、個々別個な種の実体について
  私たちのもつ観念はすべて、単純観念のいろいろな集成、すなわち、不知ではあるが単純
観念の合一の原因であって単純観念全体をみすがら存立させるような心ののうちに共存する、
単純観念のいろいろな集成にほかならない。私たちが個々の
種の実体を私たち自身に表象するのは、単純観念のこうした集成によるのであって、それ以外の
どんな事物にもよらない。こういうのが、私たちの心にある実体のいろいろな種について私たち
のもつ観念であり、こういうのだけを私たちは、たとえば人間・馬・太陽・水・鉄という個々の
実体の種の名まえによって他人に意味表示するのである。こうしたことばを聞くと、言語を理解
するすべての人は、この呼び名のもとにいっしょに存在すると日ごろ観察もしくは心想してきた
いろいろな単純観念の集成を自分の心に形成し、これらの単純観念はすべて、不知の共通な主体
すなわち〔それ自身には〕他のどんな事物にも内属しないような不知の共通な主体のうちにあって、
この主体にいわば固着すると、そう想定するのである。とはいえ、一方では、明々白々なことで
あって、自分自身の思想を探究するすべての人が見いたすだろうが、たとえば金・馬・鉄・人
間・硫酸塩・パンと、なんでもよいが、ある実体についてその人のもつ観念は、いっしょに合一
して存在すると観察してきた性質ないし単純観念にいわば支えを与える基体の想定とともに〔こ
の基体に〕内属すると想定するような可感的性質の観念にすぎないもの、そうしたもののほかに
は、たにもないのである。たとえば太陽の観念といえば、輝き、熱く、まるく、絶えず規則的に
運勤し、私たちから一定の距離にあるという、いろいろな単純観念や、おそらく他のある単純観
念、すなわち、太陽について思考し論議する者がその太陽と呼ぶ事物のうちにある可感的性質・
観念・特性を観察するさいこれまで多かれ少なかれ明確であったような、他のある単純観念や、
そうした単純観念の集団のほかに、なにがあるか。




力能は実体の私たちの複雑観念の大きな部分

7. というのは、ある特定の種の実体のうちに存在する単純観念の大部分を収集し寄せ集める
者は、その実体のもっとも完全な観念をもつが、そうした単純観念
のなかに実体の能動的力能と受動的受容力を数えるべきである。この能動的力能と受動的受容力は
単純観念でないが、当面の件では簡潔のため便宜上単純観念に数えていっこうに差支えなかろう。
たとえば、鉄を引きよせる力能は、
磁石と呼ばれる実体の複雑観念の諸観念の一つであり、そのように引きよせられる力能は、鉄と
呼ばれる〔実体の〕複雑観念の一部であって、それらの力能は、磁石や鉄という主体に内属する性
質と認められている。というのは、すべての実体は、この実体から私たちが直接に受けとる単純

観念を私たちのうちに産む適性があるように、この実体のうちに観察される力能によって他の主
体のある可感的性質を変える適性があり、したがって、すべての実体は、他の主体にとりいれら
れたそれら新しい可感的性質によって次のような力能を、すなわち、私たちをこの新しい可感的
性質によって間接に、〔しかも〕実体〔自身〕の可感的性質が直接に感発するのと同じように、規則
正しく感発する力能を、私たちに知らせるのである。たとえば、私たちは自分の感官によって火
のうちにその色と熱を直接に知覚する。この色と熱は、正しく考察すれば、私たちのうちに色と熱
の観念を産む火の力能にほかならない。また、私たちは〔木材を火で焼いて作る〕木炭の色と砕
けやすさも自分の感官で知覚する。これで私たちは、木材の色と堅さを変えるような、火のもって
いるもう一つの力能の知識をえる。火は、前者〔すなわち火自身の色と熱〕によって直接に後者
〔すなわち木炭の色と砕けやすさ〕によって間接に、それらいろいろの力能を私たちに知らせる。
それゆえ、私たちはこれらの力能を火の性質の一部であると見なし、ひいては、火の複雑観
念の一部とするのである。というのも、私たちが認識するこれらの力能は、結局のところ、その
力能が作用する主体のある可感的性質を変更するだけであり、したがって、この主体に新しい可
感的性質を私たちへ展示させるので、そこで、私たちは、そうした力能をそれ自身に考えれば本
当は複雑であるにかかわらず、いろいろな種の実体の複雑観念を作る単純観念の中へこれらの力
能を数えてしまうのである。で、私たちが個々の実体について考えるとき心に想い起こす単純観
念の中へ、こうした潜在力のうちのあるものの名まえを挙げるときは、この比較的ゆるい意味で
理解するようにお願いする。というのも、私がいろいろな種の実体について真の判明な思念をも
とうとすると、それら実体にいろいろある力能を考察することが必要なのである。

そしてその理由

8. また、力能が実体の私たちの複雑観念の大きな部分をなすことを怪しむべきでない。なぜ
なら、実体の二次性質は、その大部分が実体を相互に区別するのに主として
役だち、普通はいろいろな種の実体の複雑観念のたいせつな部分をなすもの
なのである。というのも、私たちの感官は、諸物体の真実の構造や違いがもとづく微小部分のか
さ・組織・形を私たちに知らせないので、私たちはやむをえず、物体の二次性質を、私たちの心
に物体の観念を形成させ相互に区別させる特長を示す符号・標印(しるし)に利用するのである。が、
この二次性質はすべて、〔本巻第8章第10節で〕すでに明示しておいたように、ただの力能にすぎな
い。なぜなら、〔たとえば〕阿片の色と味は、その催眠や鎮痛の効能と同じように、一次性質にも
とづく単なる力能であって、この力能によって阿片は、私たちの身体の違う部分に違う作用を産
むに適するのである。



三種の観念が〔形体的〕実体の私たちの複雑観念を作る

9. 形体的実体の私たちの複雑観念を作る観念は次の三種である。第一、事物の一次性質の観
念で、私たちの感官によって発見され、知覚されないときさえ事物のうちにある。たとえば物体の
諸部分のかさ・形・数・位置・運動であって、私たちが覚知するとしないとにかかわりなく、
物体に真実ある。第二に、可感的二次性質で、これは一次性質にもとづいており、私たちの感官
によって私たちのうちにいろいろな観念を産むような、形体的実体のもつ力能にほかならない。
その観念は、事物自身にあるといっても、ある事物がその原因のうちにあるのと別なあり方ではない。
第三に、ある実体に考えられる、〔他の実体の〕一次性質を変更したり〔自分自身の一次性質を〕変更
させられたりする適性で、こうして変わった実体は前に産んだのと違った観念を私たちのうちに
産む。これらは能動的力能と受動的力能と呼ばれる。この力能はすべて、これについて私たちが
なにか覚知もしくは思念するかぎり、結局のところ、ただ可感的単純観念である。というのは、
〔たとえば〕磁石が鉄の微小部分をどんなに変更する力能をもつにせよ、かりにもし鉄の可感的運
動がこの力能を知らせなかったら、磁石がかりにも鉄に作用するようにもっているなにかの力能
について、私たちはなんの思念ももたなかっただろう。で、私は疑わないが、私たちがまいにち
扱う物体は百千の変化を相互に生む力能をもっており、しかも、可感的結果にけっして現われな
いため、私たちはけっしてそう思わないのである。

「かりにもし物体の微小部分の一次性質を発見できたら、物体の今の二次性質は消え失せただろう」

10. それゆえ、力能はまさしく実体の私たちの複雑観念の大きな部分をなすのである。〔た
とえば〕金についての自分の複雑観念を検討しようとする者は、この複雑観念を作る観念のいく
つかが単に力能であることを見いたすだろう。というのも、火に熔けるが、すっかりなくなってしまわ
ないとか、王水に溶けるとか、そうした力能は、色や重さと同じように金の私たちの複雑観念を作るの
に必要な観念なのである。また、この色や重さも、適正に考察すれば、
さまざまな力能にほかならない。なぜなら、本当を言うと、黄色さは金に現実にあるのでなく、
適正な光の中に置かれたとき私たちの目によって私たちのうちに黄色の観念を産むような、金に
ある力能であり、太陽の私たちの観念から取り去ることのできない熱は、太陽が蠟(ろう)にもちこむ白
い色が太陽に真実にないのと同じように、太陽に真実にはない。これら〔太陽の熱と蠟の白さ〕は
どちらも等しく、太陽の力能で、太陽の感知できない部分の運動と形によって、人間に作用して
は人間に熱の観念をもたせ、蠟に作用しては白の観念を人間に産めるようにするのである。



11. かりにもし私たちの感官が鋭くて、物体の微小部分すなわち物体の可感的性質がもとづ
く真実の構造をじゅうぶん識別したとしたら、疑いもなく感官は私たちのうちにまったく違った
観念を産んだだろう。〔たとえば〕いま金の黄色であるものは、そうなると消え、その代りに、私
たちは一定の寸法と形の諸部分の讃嘆すべき組織を見るだろう。これを顕微鏡はだれにもわかる
ように私たちに知らせる。というのは、ある色を私たちの肉眼に産むものが、こうして〔顕徴鏡
によって]私たちの感官の鋭さを増すと、まったく違う事物だと知らされるからである。こうし
て、色のついた事物の微小部分のかさの、私たちの通例の視覚に対する割合のいわば変更は、前
に産んだのと違った観念を産む。たとえば砂やすりガラスは、肉眼には不透明で白いが、顕微鏡
では透明だし、いまこんな風に見える毛髪は、前の色を失い、いちじるしく透明で、ダイアモン
ドその他の透明な物体の反射から出るようなあるキラキラ輝く色が混じる。血液は、肉眼にはす
べて赤く見えるが、血液のいっそう少しの部分が見えるよい顕微鏡では透明な液に浮かぶ少数の
赤い小球を示すだけだ。で、千倍も一万倍もなお拡大できる顕微鏡を発見できたら、この赤い小
球がどんなに見えるか、しかとはいえない。



私たちの発見機能は私たちの状態に適当だ

12 いったい、私だちと私たちの周囲の万物の無限に賢明な考案者は、私たちの感官・機
能・器官を生活の便宜とこの世で私たちのなすべき仕事に適させたもう
たのであった。私たちは、自分の感官で事物を知って区別でき、私たち
の用に当てて現世の差し迫った必要にいろいろと適応させるように、そ
の限りで事物を検討できる。私たちは、事物の讃嘆すべき考案と驚嘆すべき結果をよく見抜いて、
造物主の知慧と力能と慈愛とを讃嘆し讃美する。私たちの現状に適するこうした知識をえる機能
を私たちは欠いていない。とはいえ、神は私たちが事物の完全明晰で十全な知識をもつことを志
向したもうたというようには見えない。そうした〔知識をもつ〕ことは、おそらく、どんな有限な
存有者の了解力にもな ことである。私たちは、創造主を知り、私たちの義務を知るようになる
のにじゅうぶんなものを被造物のうちに発見する機能を(鈍く弱くはあるが)付与され、生活の便
宜に応ずる才能をじゅうぶんに備えている。・・・・以下、省略・・・・





第24章 実体の集合観念について



一つの観念

1. 〔前章で述べた、たとえば〕人間・馬・金・すみれ・りんごなどのような、いろいろの単独
 な実体の複雑観念のほかに、心には実体の複雑集合観念もある。私がそう呼ぶの
 は、そうした観念が、一つの観念に合一されたとしていっしょに考えられる多数
の個々の実体〔の観念〕から作られ、そのように結ばれた観念は一つと眺められるからである。た
とえば、軍隊を作るような人々の集合の観念は、多数の別個な〔人間という〕実体から成るが、一
人の人間の観念と同じくらい一つの観念であり、世界という名まえで意味表示される、ありとあ
らゆる物体の大きな集合観念は、その世界の中の物質のどんな最小分子の観念とも同じくらい一
つの観念である。というのは、ある観念がどれほど多くの個々の観念から作られても、一つの表
象ないし写像と考えられれば、その観念を一つとするに足りるのである。



心の構成力能で作られる

2. 実体のこうした集合観念を心はその構威力能によって、つまり単純観念か複雑観念かをい
ろいろと一つの観念に合一する力能によって作る。その点は、心が同
じ機能によって個々の実体の複雑観念を作るのと同じで、個々の実体
の複雑観念は、一つの実体に合一された、さまざまな単純観念の集積から成るのである。で、心
は、〔たとえば〕一を反復した観念をいっしょに合わせて、一スコアとか一グロスなど任意の数の
集合様相ないし複雑観念を作るように、いくつかの個々の実体をいっしょに合わせて、部隊・軍
隊・群集・都市・艦隊のような、実体の集合観念を作る。この集合観念のおのおのについてすべ
ての人は見いだすが、自分自身の心ヘ一つの観念によって一目に表象し、したがって、その思念
のもとにあのいくつかの事物〔すなわち個々の実体〕を、〔たとえば〕一つの船・一つの原子のよう
に、完全に一つとして考察するのである。また、一万人の軍隊がどのようにして一つの観念をな
すかを想念することは、一人の人間がどのようにして一つの観念をなすかを想念するよりむずか
しくはない。なぜなら、多数の人間の観念を一つに合一して、一つと考えることは、一人の人間
を構成するすべての別個な観念を〔一人の人間という〕一つの特殊観念に合一して、それら別個な
観念をすべていっし上に一つと考えることと同じように、心にとって容易なのである。

人工的な事物はすべて集合観念

3. こうした種類の集合観念の中へ人工的な事物の大部分、すくなくとも別個な諸実体から作
られるようなものを数えるべきである。で、本当のところ、〔たとえば〕それぞれ単独な観念に合一
されている軍隊・星座・宇宙のような集合観念を正しく考察すれば、それらの観念は、ひじょうに
遠くて相互に独立した事物を一つの想念に合一し、一つの名まえで意味表示して、それらの事物
をいっそうよく観想し論議するため、そうしたひじょうに遠くて相互に独立した事物を一目で眺めるよう
にする、心の人工的な作図なのである。というのも、心がそうした構成の技術によって一つの観念に
もたらせないほど遠い事物あるいは反対な事物はなにもない。この点は、宇宙という名まえで意味
表示されるもので、目に見えて明らかである。

・・・第24章終わり・・・