◆資本論ワールド編集部2022.09.20
文献:原形質とコロイド化学
★目次
1. はじめに
2. シュライデンと植物細胞
3. シュヴァンと動物細胞
4. 植物界での細胞学説の展開
5. 細胞学説にまつわる原生動物
6. 動物界での細胞学説の展開
7. 原形質の構造
8. 生命活動の本質 ナイトと走性
9. リービヒと生命力の化学
10. 原形質の化学
11. グレーアム コロイドの科学
その時代の用語法の特徴が影響を及ぼす。時代とともにどうしても変わっていく用語について用心しなければならないのは、昔の著作で用いられた言葉に、その脈絡にしてはあまりにも現代的な意味を読み取ってしまうことである。それでも、そうした用心が無用である執筆者が時にはいる。オーケンは「細胞」を近代的な意味で使えたし、また使ってもいる。彼の著作は当時広く読まれたので、細胞学説の始祖と認められる人たちにその意を吹き込んだ可能性は大である。
細胞の特定な部分についての知識、とりわけ核についても似たような経緯があった。魚の赤血球中の核は、18世紀にレーウェンフクのほか数人が観察していた。1823年にはハンター標本の図版中で、画家のバウアーFranzBauer(1758-1840)がそれらの血球の図を描いた。その説明に、それらが「核を示す」とある。これがおそらく、核という言葉をそのものを指して使った最初であろう。
1831年には、オーストラリアで経験を積んだR。ブラウン(218-222ぺ一ジ)が、ガガイモ科の研究にとくべつ力を注いでいた。それら双子葉植物の多くはオーストラリア原産で、英国産のツルニチニチソウの仲間である。ところがその受精の方式は、ブラウンがとくべつ興味を持っていたグルーブであった単子葉植物のランとそっくりだった。ブラウンはガガイモとランとの双方の表層細胞で核を見分けて図に描いた。彼はその核が植物細胞に常に具わっていることを示し、その言葉は生物学の用語として一般化した。
1833年から38年の間に、数人の研究者がいろいろな動植物の組織の細胞について記載している。なかでも、プルキニエ(306ぺ一ジ)は動物、それも胎児の皮膚について顕微鏡で見た構造に注目した。それが細胞の塊でできていると指摘し、フック以来知られていた植物の柔組織と対比した。
その頃、昔からフンボルト(246ぺ一ジ)の旅行仲間だった工一レンベルクC。G。Ehrenberg(1795-1876)がベルリンで活躍していた。工一レンベルクは微細な生き物に興味を持ち、最良の顕微鏡を駆使できた。多くの顕微鏡で見た構造を研究し、私たちが現在、単細胞であると知っている生物が食物を消化し、不消化物を吐き出しているのを観察した。それらの生物の性質を解釈する際に、それらに具わっていない諸器官に帰したのは誤りだったが、彼の見事な図を付した記載はそれら生物への注目を集めた、彼の『完今な生物としての滴虫類』 (1838)は、より広く読まれたシュライデンやシュヴァンの論文と同時代のものであった。
シュライデンは法律家出身だったが、長い間イエーナ大学で植物学の教授の職にあった。すでにその地において、オーケンの最盛期は過去のものであった。シュライデンはたいへんな能力と独創性があったにもかかわらず、気性の激しさと一人よがりの性格から、多くの誤りへと導かれてしまった。植物学が陥っていた無味乾燥な分類、つまり植物についてのただの名前づけや記載や分類撃あさ理をする仕事、それに新しい種を漁るといった仕事などに偏見を抱いた。その代りに、構造や成長についての顕微鏡による分析に情熱を注いだのだった。
それについてシュライデンは1838年、ミュラーの編集していたArchiv fur Anatomie und Physiologieに、「植物発生論」Beitrage
zur Phytogenesis(phytogesissはギリシャ語で植物発生)という表題の有名な論文を提出した。
シュライデンは、細胞が生きている生物の基木単位であるという観念を提起したのである。
動物界、植物界の二大世界の間の共通性を確立するための努力が繰り返し払われてきた。それが完全に不成功であった原因は、動物界の場合の意味における個体の概念が植物の世界にはいかにしても適用できないということにある。われわれが動物の場合と同義で個体について語りうるのは、ある種の藻類や菌類のように、体が単一の細胞でできている、きわめて下等な植物の例に限られる。いくらかでも高い水準に発達した植物は、完令に個体性をもって独立した個別的存在であるところの細胞の集合体である。
各細胞は二重の生活をする。一は独立の生活であり、それ自身の発生(Entwicklung)のみに関わるものである。他は植物体全体の不可欠な一部分となっているという意味で、間接的な生活である。しかし植物生理学についてみても、また比較生理学一般についてみても、第一義的な、絶対不可欠の基礎をなさなければならないのは、個々の細胞の牛命過程である。[佐藤七郎。大石圭子訳]
シュライデンはそれで核についてのブラウンの解釈を発展させた。
包括力のある天性の才能をもち、すでに先人によって観察されながらもなおかつ全体として忘れさられていたある現象の董要さを初めて如実に示してくれたのはロバート。ブラウンであった。ラン科植物の表皮細胞の非常に多くに、不透明の斑点を発見した。彼はこれを細胞の核(Zel1enkem)と呼んだ。彼はその後、花粉細胞の初期の段階、若い胚珠、柱頭の組織にこれがあることを追認した。私が胚発生の広汎な探究にかりたてられたのは、それがごく若い胚と新たに形成された胚乳中につねに存在するという事実を知ったときである。その多様な現れ方を考察したあげく、この細胞核が細胞それ自体の発生と何らかの密接な関係をもっているに相違ないと考えるに至ったのである。
シュライデンは、その本質的要素である核を伴った細胞から、さらに転じてその起源を考察した。ここで彼は誤って、細胞が核の表面から出牙によって生じると考えた。しかしその他の細胞の活動をシュライデンはかなり正確に観察した。とりわけ、現在では原形質流動として知られている細胞実質の活発な運動を植物組織で記載した(図106)。これはブラウンも観察して(221ぺ一ジ)ダーウィンに見せていたものである。
シュヴァンはヨハンネス。ミュラーの弟子だった。素朴で信仰心が篤く、いくつかの分野の研究(349-352ぺ一ジ)で天賦の才を発揮した。古典とされる彼の『動植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究』
(1839)は、シュライデンの論文よりも綿密であった。植物より観察が困難な動物組織の基木構造の研究が辛として追究されている。シュヴァンは軟骨についての論議から始めたが、軟骨では細胞の輪郭がほかの組織よりはっきりと観察できた。軟骨について次のように述べている。
それらの構造と発展というもっとも重要な事象は、植物の場合の対応する過程と一致する。これらの組織は独得の要素的細胞とまったく並列に置かれるべき細胞から生じる。これらの細胞はその発展過程において、植物細胞に類似した現象を現す動物界と植物界を隔てていた主な障壁すなわち構造の不一致一は、これによって崩れ落ちたこれらの組織における細胞、細胞膜、細胞内容、核、および核小体は、植物細胞の場合に同じ名で呼ばれている部分にあらゆる点で類似していることがわかったのである。細胞の基本的な形は、丸い小胞の形であるように思われた。しかしわれわれは、細胞がたがいに扁平になりあっているのも観察したし、細胞と細胞の間に量の多少はあるが細胞間質も見たし、さらに細胞壁の肥厚も観察した。[檜木田辰彦訳]
シュヴァンの論議は、動物体の始まりである卵あるいは卵子に及ぶ。動物によっては、ニワトリのように卵が非常に大きく、栄養物質である卵黄で膨張し、保護的な役割をする卵自の層で包まれている。別の卵では、力エルの卵のように卵黄と卵自の量はずっと少ない。さらにほかには、当時フォン。べ一アが発見したばかりであった顕微鏡的な大きさの哺乳動物の卵のように、卵黄と卵白が最少限まで減っているものまであった(1828、414-415ぺ一ジ)。それでもシェヴァンが示すように、それらすべての異なるタイプの卵はすべて本質的には細胞である。卵が非常に膨大化していても、細胞として本質的な核、細胞膜その他を明らかに認めることができる。
さらに、卵から若い動物への発生は卵細胞の分裂によって進められる。この現象がとくにはっきりしているのは、ごく初期の細胞分裂で、現在それはふつう「卵割」と言われている。卵割は1837年、シュヴァンと同じ時代のジーボルトやサルスによって無脊椎動物において観察された。1838年には哺乳動物の卵でも卵割が記載された。シュヴァン自身は鶏卵でこの過程を見て(1839)、胚発生の正常な一過程として扱った。すぐ後には、カエルの卵でも観察され(1841)、以後それは、この研究のための古典的な材料となった。〔卵割はスワンメルダムを含め数人の草分けを果たした学者たちによってカエルの卵で観察されていた〕。
本質的にはそのような「芽胞」であった卵から、シュヴァンは成体組織の研究へと進んでいく。その論議はいちどきに、ビシャよりもはるか先にまで及んだ。細胞を基礎にして、彼は組織について5つに分類している。
(a) 細胞が遊離独立している組織。血液など。
(b) 細胞が独立しているが相互に密着している組織。皮膚など。
(c)細胞がいろいろな程度ではあるが癒着しており、よく発達した壁をつくっている組織。軟骨、歯、骨など。
(d)細胞が伸長して線維になっている組織。腱、靭帯など線維状組織。
(e)シュヴァンが「細胞の碓と昨が融合して生じた一と考えた組織。これに
彼は筋肉と神経を含めた。
シュヴァンはそれから、動植物が細胞起源であり、いずれもが細胞で構成されているという彼の信念を概説する。彼の結論は以下の通り説明できよう。
(a)動物も植物も、すべて細胞もしくはその分泌物から成る。
(b)細胞はある程度それら独自の牛命を持つ。
(c)それら全細胞の個々の牛命は全体としての生物体に依存する。
この立場は全般的に見て今でも妥当する。
生物体の原動力に関する問題は、それゆえに、個々の細胞の原動力に関する問題に還元されるのである。そこでわれわれは、細胞形成に伴う一般的諸現象を考察しなければならない。この考察ば、これらの現象を説明するためには、細胞にはどのような力があると仮定する必要があるか、ということを理解するためのものである。これらの現象は、2つの自明なグループにまとめることができるであろう。第1は、1個の細胞を形成するための分子の結合Zusammenfugunguに関連する現象であり、第2は、細胞白体の構成要素<および〉〔または〕細胞を取り囲むチトプラステムcytoblastemaの化学変化に関連する現象であり、われわれはそれを、代謝的なmetabolisch現象と呼ぶことができよう。[同上]
ここでシュヴァン自身の造語2つを説明する必要がある。
チトプラステムcytoblastemaとはチトプラストcytoblast、つまり核がそれからつくられると考えられていた物質、すなわち原形質だった。今では原形質protoplasm(306-307ぺ一ジ)の語が代りに使われている。しかしこの初期の用語は、生物学上の観念をはっきりさせるのに非常に役に立ち、興味深い歴史を秘めている。
代謝的metabolischは形容詞で、名詞は代謝metabolismである。語源から見て「変化しがち」という意味である。そこで言う変化とは化学的で、生命と特別な結びつきを持つ変化のことである。
私たちが「代謝的」という変化は、生物体の中で間断なく続いている。その生命過程には複雑な物質を絶えず分解する過程すなわち異化もある。生命の維持にはそれらを常につくり上げる過程すなわち同化も含む。これらきわめて密接な関係にある2つのことを今でも代謝と呼んでいる。そこで表される観念は、生物学上非常に重要である。(シュヴァンは同化と異化という言葉を使わなかつた。)
シュライデンは、新しい細胞が核から出芽によって生まれるという誤った考えを細胞学説に植えつけ、それゆえに核をcytoblast(すなわち細胞芽)と呼んだ。その誤りをシュヴァンも解かなかった。難点はすぐさま生じた。
ネ一ゲリKarlW11helmvonNageli(1817-91)は、生物学思想に関していくつもの分野で貢献した多才な植物学者だったが、細胞の起源に光を当てようと努めた。生殖過程と成長点での細胞形成を顕微鏡で調べたのである。彼の研究は非常に多岐にわたる形態に及ぶ。その細胞分裂という現象がいちばん容易に見られるのは下等な藻類であった。藻類では、生きていてしかも透明な、細胞内物質の運動や挙動が観察できた。彼は、核が細胞を出芽するという見解を破棄する根拠をすぐ見て堅ったのだった(1842-6)。
この問題については、チュービン'ゲン大学の植物学教授、フォン・モールHugovonMoh1(1805-72)がさらに研究を進めた。植物細胞で細胞膜のすぐ内側にある部分は、中心を占めている水のような液と区別されねばならないと指摘した。彼は、この比較的外側の穎粒に富む粘液質を原形質protoplasmと名づけた(1846)。この言葉は一般生物学用語に加えられた。それは、細胞をつくる物質のうちで、その部分だけが厳密な意味で生きていると言えるということだ。多くの細胞で原形質は常に動いている。
原形質protoplasmの語源は 「最初につくられた」という意味である。昔の神学者たちは、最初につくられた人間アダムをprotop1astと呼んだ。才能豊かなボヘミアのナチュラリスト、プルキニェJohannesEvange1istaPurkinje(1787-1869)はかつて神学を修めたが、1839年の報文『動植物の構成要素の相似性について』 On the analogies in the structural elements of animals and plants [英訳書名]でこの言葉を用いた。トゥールーズのデュジャルダンFelix Dujardin(1801-60)は慧眼を具えた観察家だったが、1835年からある原生動物が私たちに関係するかどうかについて批判的分析に手を染めた。彼はsarcodeという言葉を原形質に使って、その性質について多くの記載をした。しかし、原形質という言葉とその内包する観念とを普及させたのはフォン.モールだった。彼の植物細胞に関する影響力のある非常に重要な一連の論文が、この問題についての通念を整理してくれた。)
ひき続いて、細胞についての知識のもっと重要な進歩が、ネーゲリにより遂げられた。彼は化学分析によって、原形質が窒素分を含むことを証明した。その点で他の細胞成分、とくに細胞壁や貯蔵澱粉とは相違することを示した。こうして彼は、原形質の概念に最も重要な要素を加えたのである。
5. 細胞学説にまつわる原生動物
シュライデン、シュヴァン、ネーゲリ、フォン。モール等が細胞概念を苦心して仕上げている間に、デュジャルダンは、昔からのグループだった「滴虫類」の研究を続けていた(1835-41)。その中にはワムシ、蠕虫、様々な藻など、互いに関係のない多くの形が含まれることを知った。それらを除いてしまった残りの滴虫類のからだをつくる物質全体が、収縮、運動、消化、その他の生命過程を行えることを記した。これら滴虫類の体表は、繊毛という微細で運動性のある毛のような突起物で多少なりとも覆われているのを観察した。それらが運動することで生物に推進力を与える。デュジャルダンはまた、より高等な動物と対比して、これらの生き物のからだが比較的「無構造」なことも見た。
その頃数人の研究者が、原生動物とはたった1個の細胞でできた生物であるという概念にまで到達していた。1845年、この考えを比較解剖学の教科書で明記したのはジーボルト Kar1 Theodor von Siebold(1804-85)だった。そうして彼は、多くの原生動物が運動を行うことを可能としている装置として、繊毛を強調した。彼はまた、寓等動物の諸器官でも、繊毛の存在と運動とに注目した。しかし、それら諸器官では繊毛細胞が固定しているので、繊毛の運動は細胞を移動させる代りに流れを起こす作用を持つ。20年も前に、プルキニエが脊椎動物で繊毛運動を観察していた。彼はその時、それらの運動が細胞活動の一形態だとは明言できなかった。それがジーボルトによって初めて可能となったのである(1861)。同年に細胞をめぐるテーマの仕上げをしたのは比較解剖学者のゲーゲンバウル(420ぺ一ジ)で、 彼はシュヴァンを補足して脊椎動物の卵を細胞と考え得ることを示した。
原形質、原生動物およびび卵細胞といった概念を総合したのは、ボン大学の解剖学教授だったヘルムホルツの後任シュルツェMaxSchu1tze(1825-74)である。彼は組織学に専念し、広範囲に動物を研究した。1861年、彼は細胞を「有核の原形質の塊」と定義した。彼の研究は植物や原生動物にまで及んだ。1863年には「生命の物質的基礎」として原形質の概念を導入した。原形質が植物でも動物でも、高等か下等かを問わず取り上げたあらゆる組織において、生理学的にも構造的にも根本的な類似性を示すことを明らかにした。
分類学にとって非常に重要な一連の進歩は、ヘッケル(427-431ぺ一ジ)によって細胞概念を取り入れてなされた。動物界と植物界とを区別する際の困難から、彼は第3の同格なグループとして原生生物を導入した(1866)。その分類は容認されなかったが(183ぺ一ジ)、その概念は下等な動植物が非常に似通っていることに注意を引いた点で役に立った*。後年、ヘッケルは海綿を原生動物から分離した(1869)。きわめて重要なのは、彼が動物界を単細胞生物と多細胞生物、つまり原生動物と多細胞生物とに分けるという大規模な一般化を明確に表明したことである。これはヘッケルの『腸胚説研究』
Studien zur Gastraea Theorie (1873-84)にとって欠くことできない部分の1つであつた。
多種多様な動物において、細胞を基礎とした組織の一般的解釈を確立しようと尽力したのは、わけてもスイスのケリカー刈brechtK611iker(1817-1905)であった。彼はオーケン、ヨハンネス。ミュラー、そしてヘンレの弟子で、長い間ヴユルツブルク犬学の教授だった。ケリカーは幸運にも、動物の胚発生にシュヴァンの学説を適用することができた(後出)。卵を1個の細胞として、またその発生過程を細胞分裂の結果として扱った(1844)。その課題はジーボルト(1849)とレマーク(1852)によってさらに発展させられた。ケリカーはおびただしい量の質の高い顕微鏡観察をして、組織学を別個の分野として樹立した。この問題について最初の教科書を書き(1852)、9年後には発生学教科書の手本とされるものも著した。
ケリカーにとって天与ともいうべきその分野でなされた発見は彩しい数にのぼり、ほとんど誤りがない。不随意筋が本質的に細胞から成ることについての論文や、神経線維が、その実質は中枢神経系か神経節にある細胞の突起にほか)ならないことを実証した論文が注目される。卵割過程での核分裂をケリカーは強調したが、それについて十分な観察を最初にしたのは、彼の共同研究者だったライディヒ(1848)とレマーク(1852)だった。ケリカーは核を遺伝的性質の伝達者と考えて特別に重視した。これについての彼の解釈は、引用されることは滅多にないが、この問題を取り上げた後世のほとんどすべての学者によって受け継がれている。ケリカーは遺伝と変異の問題に関心が深かった。彼はメンデルの仕事を知らなかったが、種族の特徴の変化が漸次には起こらず、急激で突然の変化によるものであるとの見解を持ち、その意味で ド.フリースの先駆者であった。
ケリカーにも増して影響力があったのはフィルヒョウ Rudo1fVirchow (1821-1902)であった。長い間ベルリン大学で教授の席にあり、学界でも政治関し)係でも傑出した自由主義者であった。フィルヒョウの自由主義的立場は、彼が55年間編集に携わったArchiv
fur Pathologieに発露されている。名前からすればそれは疾患研究のための雑誌である。ところが彼の選定基準は、論文が病理学に関係するかどうかより、知識として重要な貢献があるかどうかであった。それで、非常にさまざまな学問が掲載された。東洋語についての論文、比較解剖学や比較生理学、人類学、ギリシャ語やアラビア語文献の中世の翻訳についてなどが、癌の組織学や熱病の伝染性についての論文の間に散在したのだ。
フィルヒョウの生物学思潮への主な貢献は、名著『細胞病理学』 Cellular Pathologie (1858)に盛り込まれている。彼は疾患と病巣組織とを、かつてケリカーが正常組織について行ったのと同じ要領で、細胞形成および細胞構造の見地から分析した。病理学の分野によっては、フィルヒョウがあまりにも見事に探究し尽くしてしまって、以後に発展の余地がほとんどない部門もある。からだを「個々の細胞が市民である1国」と見なし得るという、現在ではよく知られている考えを興したのは彼だった。病気は市民戦争で「外からの力が作用して引き起こされた市民の間の混乱」であった。
『細胞病理学』でフィルヒョウが述べる。
細胞が発生するところには必ず細胞が先行しなければならない。このようにして、すべての生あるものを通じて、連続的な発生という不易の法則がある、このとが原理として確立されたのであります。ある新しい世代が、改めて発生の系列の振り出しになる、といった発生の不連続はありえません。[梶田昭訳]
これを結晶化したのがフィルヒョウの有名な格言「すべての細胞は細胞から」Omnis cellula e cellula だが、それは「すべての生物は卵から」 Omne vivum ex ovo (ハーヴェイについてのジーボルトの解釈、410ぺ一ジ)、「すべての生仰は生物から」 Omne vivum e vivo (パストゥール、394-396ぺ一ジ)と肩を並べる。それら3つは生物学が今までに得た広範な一般概念の最たるものである。それらはいずれも19世紀中頃の、10年ほどの間に完成した。
フィルヒョウとケリカー以後、組織とは別個に細胞の詳細な構造を研究することは、細胞学という別個に虹立した分野となった。1893年、O.ヘルトヴィヒの『細胞と組織』 Zelle
und Gewebeが出たことでそれが独立したと言ってよかろう。細胞学は組織学、つまり組織中での細胞相互の閃係についての研究とは区別されねばならない。細胞分裂の研究は遺伝学の諸問題との関連かとくに重要である。
7. 原形質の構造
分子論的物質観から影響されたことは明らかだが、細胞をより細かい単位にまで分析しようと試みる学派が常に存在した。それら仮定された物体のために考案された名前は無数にある。 スペンサーは「生理学的単位」、ダーウィンはジェミュールgemmules、ヘッケルはプラスティドゥーレp1astidu1es、ワイスマンはビオフォアbiophores、ヘルトヴィヒはイディオブラストidiob1asts、ド。フリースはパンゲンpangensと呼んだ。20世紀になって生化学が勃興する)とともに、多くの人びとは原形質の挙動をコロイド分子の作用とか、とりわけアミノ酸の集合に帰そうとした(346、408ぺ一ジ)。
これらの言葉はすべて、もろくも破綻するような生命観を内包していた。彼らはみな生物を、本質的には独特の微綱な物体が一体となった凝集物のようなものと想定し、その微細な物体はそれぞれ互いに似かよっていて、それぞれが独立に成長と分割を行うものであると考えたのである。この単純な信念を表明した人たちは、生命の神秘を、あまりにも微細でこの目で認められない何かのせいであると片づけて安心してしまった。問題をこう解くことで、そのほかの条件を満たすかぎりでは哲学的な満足感を与えることができたのである。第1に、これらの1つには、無生物起源の凝集物が、生物だけに見られ、生物には常に具わっているある決まった諸性質を示しているはずであるという意見が表明されていた。その性質とは代謝、傷の治癒、生殖、遺伝、環境への適応、「記憶」すなわち過去の歴史によって決定された行動である。事実、ちょうど生物を考慮に置いてのみその細胞に意義が与えられるように、細胞の諸部分は1個の細胞を考慮に入れてのみ意義を与えられる。カントは細胞について何も知らなかったのだが、とうの昔にこのような姿勢には説得力があると見ていたのである(195-197ぺ一ジ)。
一方、細胞の諸部分が「独立」した存在であるかどうかは別として、何か「粒子」のようなものを持つかどうかは、理論ではなく観察の問題である。染色体や動植物の中心体、そして植物の色素体(338-340ぺ一ジ)として知られる構造を含めた細胞の特定の小体が、存続し、分裂して細胞から細胞へと受け継がれ、しかもそれらは同一の構造のみから由来するのだという証拠がある。それら構造のいくつかの振舞いについて、なかでも染色体についてならば部分的にはわかっている。そのほかあれこれの構造については、何もわかっていない現状では概説してもしょうがない。
原形質の物性面について主に言えること、それは液体としての振舞いである。これについてはいくつかの証拠がある。歴史的に最も興味深く先駆的だったものはR.ブラウンの名前と結びついている。その「ブラウン運動」と言われているのは、実は、18世紀に二一ダム(389-392ぺ一ジ)がすでに観察していた。しかしブラウンは『植物花粉の顕微鏡観察』
Microscopic Observation on the Pollen of Plants (1828)で初めて正確に記載したのである。この本については、ジョージ.エリオットGeorgeE1iot(1819-80)の小説『ミドルマーチ』Middlemarch
(1871-72)の中で、ライドゲート大尉からフェアブラザー師に贈られたことを思い出されるかもしれない。
顕微鏡学者なら誰でも「ブラウン運動」に馴染みがある。もし微細な粒子が溶液に懸濁されて高倍率で調べられると、止まることないダンスが見られる。粒子がまるで生き物のように見える。ブラウンの最初の考えもまさしくそれで、彼もはじめは生物の運動だと見た。後になってそれが純粋に物理的な現象だということを見つけたのだった。
ブラウン運動は、コロイド状態についての体系的な研究が始まってからますます関心を呼んだ。それについての新しい研究は1861年、グレーアムThomasGraham(344-345ぺ一ジ)によって着手された。もっと時代が下って20世紀には、ブラウン運動は溶液中の分子運動と関係づけられた。ブラウン運動は条件さえ適当なら、生きているどんな原形質ででもそのまま)で観察できる。原形質が死ぬとブラウン運動は停止する。原形質が液体でなくなるからである。
生きている原形質が液状であることの別の証拠は、それがショック状態では球状となることである。これはずっと昔、1864年にベルナールとフィルヒョウの弟子だったドイツの生理学者キューネWi1helmK Kuhne (1837-1900)が示していた。彼は植物細胞の原形質流動に対する電気刺激の効果を記載していて、それをブラウンが示した時、ダーウィンの好奇心を呼び覚ましたのだった(221ぺ一ジ)。
原形質から分泌されたり取り込まれたりした水溶液が球状になることも、昔から知られていた。これは、原生動物のいわゆる「食胞」でとくに目をひく。球状となるのは表面張力のせいで、原形質が液状であるもう1つの証拠なのだ。
高倍率では、最も透明な原形質でもいろいろな大きさの微細な穎粒が現れてくる。それらの本性と分類についてはまだ論議されているところだ。
そんなわけで原形質は、物理的には通常は粘張な液体として振舞い、中に穎粒を懸濁している複雑なコロイド系であるといえよう。しかし、多くの研究者が原形質のもっと詳しい構造を明らかにしようとしてきた。 そうした試みで最も重要なのは、ハイデルベルク大学の教授ビュッチュリ
Otto Butschli (1848-1920)によって1878年に最初にくり広げられた泡沫説である。彼は生きている原形質が蜂の巣状に見えるのを発見した。これは粘度の異なる2液の混合によると彼は考えた。彼はこの混合物を機械的にまねしてみようと試みて、自分のつくった混合物が原形質の反応のいくつかを示すと確信した。私たちが知っている、生きている綱胞を支配する極度に複雑な条件から見ると、その考えはナイーヴ過ぎると思える。ビュッチュリはしかし、原形質が液体であることを確かなものにすることによって、実質的な貢献をしたのである。
ビュッチュリが原形質の構造について取り上げたテーマは多岐にわたった。すべては理論と実際との両面から、二重の批判に曝される。実際面では、顕微鏡的外見がどこまで実際の客観的状況を示すものか、あるいは光学的な作用に遇ぎないのか。あるいはまた、それらは前処理の人工的産物なのだろうか。それらに黒自をつけなければならない。
理論面では、原形質の活動を別個に扱ってはならない理由はないと言えそうだが、そういった類の分析結果は、生物を説明できないのである。乳濁液が、ある見方からすると生きている原形質のように振舞っても、その事実によって生きている原形質は何であるかという理解に近づけるわけではない。その振舞いのいく分かがどのようにして決定されるのかを、理解するのに役立つに過ぎない。ある男が人を襲うとする。彼の動きは運動法則の実例で、ガリレオ物理学の原理で分析可能かもしれない。しかし、その分析も当の二人がどう感じたかを説明もせず、やられた人が殴り返すか裁判に訴えるのかどうかを決めたりもしない。同じく、原形質が乳濁液の物理や化学の法則に従って振舞うと言われても、細胞の挙動についてほとんど理解の助けにならない。それはある組織の一員として振舞うのだから。
しかし、実を言うと、原形質の可視的構造について明らかとなった知識は、穎粒の相互関係よりむしろ、それらの構造と関係することである。泡状の構造がいつの間にか乳濁液に移行し、その両者が「コロイド状態」という概念に含まれるのである。
Ⅹ. 生命活動の本質
植物生理学の新しい分野が1つ、ナイトによって拓かれた。このイギリスの地方に住んだ紳士は、バンクス(217-218ぺ一ジ)と文通していた。農業改良という純粋な応用を目的として、彼は驚くほど多数の重要な科学上の貢献をした。彼を最も有名にしたのは、「ナイトの回転板」として知られる装置である。茅を出している植物が、急速に回る円板につけられ垂直か水平の位置に置かれる。回転の平面が垂直なら、重力が作用する線は常に変化する一方、遠心力の及ぼす線は、植物の軸に対して常に一定である。この条件では、植物の茎は回転板の中心にむけて半径に沿って伸び、一方根は中心から離れる方向に成長する。
重力に対する植物の反応はこうして除外されて、遠心力に代えられたのだが、ザクス(1868)が導入した言葉で走地性geotropism (ギリシャ語で「土へ向かう」)として知られている。それは根に対しては「正」であり茎には「負」であるという。走地性は一般に生物にとって重要な現象だが、とりわけ植物にとっては重要である。これはその後、動物にも植物にも、生物に発見された一連の類似した反応の原形である。
これらの運動は、今ではもっと一般的な「走性」という用語で知られている。それらは、外部からの刺激に応じた運動、成長もしくは屈曲による、生物体またはその一部の単純で無意識の反応として定義される。こういったものとして走光性(光に対する反応)、向日性(太陽に対する反応)、走熱性(熱に対する反応)などがある。走化性もあり、よく知られている事例では、シダそのほかの管束を持つ隠花植物の精子のリンゴ酸に向かう性質である。数人のナチュラリストの中でもレーブJacques
Loeb (1859-1924)は、成長や発生に関する多くの現象を走性によるものとした。この間題は、とくに植物や下等動物の振舞いについて強調されたばかりでなく、近代実験発生学(438-441ぺ一ジ)でもまた重視された。より島等な動物では、走性は、いつのまにか反射行動に移っている(375-376ぺ一ジ)。
プリーストリー、ラヴォアジエ、インヘンホウス、セネビエ、ナイトたちの業績を評価したのはイギリスの化学者、デイヴィー Sir Humphry
DaW (1778-1829)だった。彼ら見解をほとんどそのまま『農芸化学精髄』 Elements of Agricultural Chemistry
(ロンドン、1813)で融合した。しかし、生命力の化学の真の創始者は、先見の明あるドイツの威厳あふれる教育者、リービヒであつた。
リービヒは最初ハイデルベルク大学の、後にギーセン大学の化学教授となった。彼はすべての生命力が化学的、物理的諸因子の結果として説明できると確信していた。彼が創建した大学研究室のドアの上に「神は分銅と物差しにより、御身のあらゆる創造物を秩序づけた」という格言を掲げた。彼の偉大な業績は、生物が展開する諸現象に化学的知識を適用したことであった。彼は実習の導入や、現在では常時使われている装置の導入で大きな貢献をした。
リービヒは有機化学分析法を改良したが、なかでも溶液中の尿素量の定量法を導入した。この物質は哺乳動物の血液や尿中に見出され、長い間、「合成される」、つまり元素からつくられる最初の有機化合物であると考えられていた。〔実際には、CO(NH2)2が関係するような過程では合成されないし、当時まだそれ自体も合成されていなかった〕。それは動物のからだの中で「蛋自質」(343-348ぺ一ジ)として知られる特有な窒素化合物の分解過程で普通につくられるものであるため、生理学上非常に重要である。
有機化合物の合成を目指していたヴェーラーFriedrich Woh1er (1800-82)と一緒に、リービヒは1篇の論文を書いたが(1832)、それで初めて、現在なら「基」と呼ばれる原子のある有機的な集合が、あたかも元素であるかのように、1つの長い反応系列の化合物中で変化しないままの成分として存続し得ることを示した。この発見は、生物体内の化学変化についての私たちの概念でも、何より重要である。1838年以降、リービヒは生命過程の化学変化を解明することに没頭した。彼が研究を進めるうちに、以後その価値が十分認識されるようになる先駆的仕事を多方面で行った。すなわち彼は、すべての動物熱は燃焼の結果生じるもので、「内なる」火ではないという、当時ほとんど認められていなかった真実を説いたのである。また食晶を、動物の組織で果たす機能を考えて、脂肪、炭水化物[糖のこと]、および蛋自質に分類した。
リービヒの学説で非常に重要なのは、植物がその食物である炭素や窒素を大気中の二酸化炭素とアンモニァから得ており、これら化合物は、植物による腐敗過程で大気に戻されるということであった。この仕事のインヘンホウスそのほかの人びとによる発展が、自然界の1種の「物質循環」(334-336ぺ一ジ)について、哲学的概念を成り立たせ得た。壊されたものが絶えず組み立てられ、また後になると壊される。そのようにして生命の輸は回り、その動力は外からりんねもたらされたエネルギー、けっきょくは太陽の熱に由来するのである。輪廻はめぐりまためぐる。それがいつか止まるかどうかは、太陽系の中心にある動力源にかかっている。
残念なことに、リービヒは腐敗を、生命過程とは区別される純粋に化学的な過程だと考えていた。この考えを拭い去るのに、パストゥールが長年月を費やしたのである。
「生命の物質的基礎」として原形質の化学的性質を扱った文献の量は膨大である。厳密には、原形質が生命の基礎であることを止めてからしか研究はできないのだから、この問題は解き得ないのだが、原形質が何を取り入れ、何を放り出すかは学べるかもしれない。しかし生きている原形質は化学者の手に余るのである。彼の研究対象は、原形質の産物であり、死んだ原形質なのだ。
死んだ原形質は、多くの物質の非常に複雑な混合体から成る。物質中、最も量の多いのは水である。そのほかの大部分は、蛋自質およびそれらの誘導体として知られる複雑な窒素化合物、類脂質または脂肪、それに糖もしくは澱粉質などである。これら3つの物質の区別は、リービヒが彼の名著、『有機化学の農学および生理学への応用』 Die organische Chemie in ihrer Anwendung auf Agrikulturchemie und Physiologie で明確に行った。
[*現在の高分子化学の主要な概念や、後出のコロイド研究から発展して高分子物質の物性研究が形をなしたのは20世紀以降である。]
原形質の概念そのものを化学物質として普及させたのはT.H.ハクスリの有名なエッセー、『生命の物質的基礎』 The Physical Basis
of Life (1869)であった。どちらの本も、今日では周知の「原形質」という名称は使っていない。
オランダの化学者ムルダーGerard Johann Mu1der (1802-80)はある化合物を得て、それに次の化学式を与えた。
彼はこれがすべての有機体の基本的な成分であると信じて、proteine (1838) と名づけた。のちに彼はリービヒと一緒に働いたが、リービヒにはほどなく、そのような決まった化合物はないことがわかった。けれどもその名称はもともと混合物だった含窒素化合物を指すために残された。これらがけっきょくは「蛋自質」 proteine となるのである。
「糖」 carbohydrate と「類脂質」 lipoidいう語も、もっとゆっくりではあったが、それぞれ蛋自質と似たような発展をたどった。原形質に関連してこれら3つの言葉をはじめて使ったのは、ライプツィヒ大学の病理学者、ヴァーグナー Ernst Wagner (1829-89)であった。生きている原形質がこれら3つのタイプの物質から成るきわめて複雑な混合物であるという概念が最初に登場したのは、ヴァーグナーの著した『一般病理学ハンドブック』 Handbuch der allgemeine Pathologie (1862)であつた。
生きている原形質は液状である(313-317ぺ一ジ)。それなのに、その性状を知ろうとするとまず、それはかなりの「粘性」、つまりねばねばしたりゼリーのような性質を示す。生きている原形質の詳しい構造や組成についての最近の解釈は、原形質の性状と、コロイドcolloid状(「糊状」の意)の別の物質の性状とを比較することに密接に結びつくようになってきた。コロイド状態の研究は、古い化学と物理学とが相互に区別できなくなってきた多くの研究領域の1つである。
コロイドについての土台となる知識は、化学者のグレーアムThomas Graham (1805-69)による。彼は、1850年からロンドンの造幣局長官の肩書をつけたままその研究をつづけた。「コロイド」という言葉はすでに使われていたが、彼はそれを物質の特定の状態に用いたのである。彼は、溶液を一般に2つに大別して、コロイドとクリスタロイド
crystalloid とした。グレーアムの使った装置は極度に簡単なものであった。しかし、彼の方法の独創性にしても、得た結果の重要度についても、疑問の余地はない。彼はある物質が(a)溶液になるのがきわめてゆっくりで、(b)結晶化せず、(c)有機質の膜を通過するのがきわめてゆっくりか、あるいはまったく通過しないことを観察した。糊がこのタイプの物質なので、コロイドと呼ぶのである。これに属するのは澱粉(たとえば、でんぷん糊)、卵白、ゼラチン(たいていのゼリーのもと)などがある。これら3つとすべての点で対比されるのが、クリスタロイドである。
グレーアムはコロイド物質とクリスタロイド物質を峻別したが、たとえばけいそうど珪藻土のように、物質によってはコロイド状態もクリスタロイド状態も取り得ることに気づいていた。また、状態が不安定なことがコロイドの特性だとも認めていた。さらに、ほとんどのコロイドは生物由来のものであると見ていた。コロイドの表面エネルギーは「生命現象で発揮される力の本源と見なせるかもしれない」という彼の考えは、生命活動の本性についてのある種の近代的な見方をほぼ予見していた。
コロイドの本質についての知識は、20世紀までほとんどそのまま発展しなかった。私たちの世代の研究者は、コロイド状態とクリスタロイド状態との区別について物理的解釈を示してきた。どちらの状態の溶液も、固体粒子が別の媒質に懸濁されたものと見なせる。違うのは粒子の大きさで、コロイドはクリスタロイドよりも粒子が大きいのである。それは種類の相違というよりも程度の差なのであるが、この理論的結論を受け入れるには実際上の難点がある。
コロイド溶液中の粒子は、直径100万分の2ミリメートルからその50倍ぐらいまでの範囲である [現在では1nm~1,000nm ]。コロイド状態に関する最近の進歩の多くは、1903年に発明された限外顕微鏡の使用によるものである。これを用いると、コロイド溶液中で浮遊している粒子から反射された光を観察できる。さらにこの粒子がブラウン運動している状態を観察できる。
コロイドについて重要な概念がケンブリッジ大学のハーディW.B.Hardy(1864-1934)によって導入された(1899以降)。それは原形質の死後にひき続いて起こる事柄について、私たちの考えに影響を与えている。
ゼラチンや卵自のようなコロイド溶液は、ある物質によって多少なりとも固まった状態に「固定する」ことができる。それには、2つの仕方のどちらでもよい。固体の成分が微細な液体の滴を閉じ込めた細かいスポンジ状の骨格をなすか、あるいは、固体の成分が比較的大きな分散した粒子の状態で凝集して、極度に細かい懸濁液をつくるかである(図112)。固め方がどちらの状態を生じるかを決める。どちらの状態を生じたかは、顕微鏡で見られる。原形質でも同様である。それゆえ、死んだ原形質の構造は生きている原形質の状態について、実際上何の指標にもならない。
もちろんこういった批判は、染色体(312ぺ一ジ)、色素体(314ぺ一ジ)、星状体(312-313ぺ一ジ)などのような、生きているうちから観察される比較的大きな原形質体には当てはまらない。
コロイド物質の中でも生物学上最も重要なのは、種々様々なものを含む蛋自質として知られる類である。それらは原形質の構成に絶対必要である。死んだ原形質の大部分はそれらでできている。それらは、生物の実質の成長や補修に不可欠であるばかりか、糖と脂肪もともにその機能を担うのであるが、エネルギーや熱の元としても使われる。化学的には、蛋自質はすべて非常に大きな分子としてつくられている。
最近の蛋自質化学の土台は、ドイツの偉大な化学者、エミール.フィッシャーEmi1Fischer(1852-1919)の1882年以降の仕事にある。
フィッシャーは、蛋白質が「アミノ酸」として知られる物質の多数の分子がつながって、つまり縮合してできていることを示した。この類の物質の特徴は、各々1つ以上のNH2(アミノ基)と1つ以上のCOOH(カルボキシル基)を持つことである。前者は塩基性、後者は酸性を付与する。どちらが優勢かによって、アミノ酸は塩基としても、あるいは酸としても働く。
原形質の性質について人気のある1つの理論は、それをアミノ酸の混合物として見なすものである。アミノ酸はいろいろ込み入った仕方で互いに結合して、測り知れないほど複雑になるのだ。最近の機械論者の生命観は、すべての生命活動をアミノ酸にまつわる諸条件の連続的な変化やアミノ酸相互の変化として描く。それらは粘性の度合いの局部的な変化を通じて働くと説かれている。この見方からすれば、原形質はたとえば細胞分裂過程におけるように、時に応じて一定の整然とした方式でその粘性を変える。生きている細胞の他の多くの現象も、粘性の度合いの変化として解釈される。
原形質のはたらきの別の観点として、酵素の作用がある。酵素enzyme(ギリシャ語で「酵母」)という言葉は、化学変化を活性化するある種の有機物質を区別するためにキューネWilhe1mKuhneが導入した(1878)。そのような酵素は、それ自体の活性化する能力を失うことなく、無限の量の物質に作用し得る。生物体は多数の酵素をつくり出す。''それらの作用はきわめて特異的である。原形質の中には、原形質そのものではない多くの物質、いわゆる「栄養分」と呼ばれる物質があり、比較的単純な組成を持つ場合が多い。、この項目には糖とその誘導体、脂肪、および「貯蔵」蛋自質が含まれる(344ぺ一ジ)。
このように原形質の性質に関する問題は、多種多様な調節を受けた反応が起こっている礎質の性質と、その礎質がこれらの反応に及ぼし得る影響の仕方とに帰着する。ある1個の細胞の中でどの時点に起きている化学反応も、いろいろと多岐にわたる。細胞の小ささに似合わず、これらは相互に何らかの仕組みで空間的に分離しているに違いない。
原形質の複合体の中で進行している反応に関して驚くべき事実といえば、それがいとも易々と起こっていることである。糖の[化学的]合成はいまだに青酸なしでは起こり得ず、青酸は自然界では流星でしか検出されていないのに、緑色の細胞の中では日常的でしかも迅速に行われている。対応する化学反応過程を進めることができる酵素の多く俸、植物から抽出されている。酵素が抽出されると、それらなしではきわめて緩慢な反応を促進することだろう。酵素の数は、細胞のはたらきに対応する反応の数だけの多数に上るはずである。酵母細胞では酵素の一覧表がもうできている。それらの起源についてはほとんど知られていない。
[注]高分子化学、タンパク質の高次構造にわたる研究、および酵素化学などはすべて20世紀の所産であり、まさにそれら研究の萌芽があらわれようとしている時期に著者がこの稿をかいているわけである。
・・・終わり・・・