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資本論ワールドの科学史ハンドブック 12月号-3  2019.12.28
「物質進化の旅」シリーズ第2回


 
デモクリトス原子Atom:(分割不可)」から
 メンデレーエフ元素 Element の周期表」と「原子の崩壊」(階層・内部構造)


   ~ デカルト革命の400年と 『資本論』のElementarform ~

  
資本論ワールド 編集部 はじめに

 資本論ワールドの科学史ハンドブックでは、マルクス(1818-1883)の時代―
1850年代後半、1859年『経済学批判』(1859)から『資本論』初版(1867)、フランス語版(1872)、第2版(1873)、エンゲルスによる英語版(1886)と『資本論』第2巻・部(1885)第3巻・部(1894)の刊行―に焦点を当てながら、西洋科学史の歩みをたどっています。19世紀前半のドルトンの「原子論」から、ファラデー「電磁誘導と電場・磁場の発見」、ダーウィン「種の起源」、パスツールの「生化学・細菌学の創始」、そしてドイツ生命・細胞生物学の展開、メンデレーエフの「周期律表」による元素 Element 概念の“確立”-Elementarformの形成-、等々、20世紀現代科学への基盤が形成される時代でした。

 
「物質進化の旅」シリーズとして、第1回に、デカルト・ニュートンと『宇宙論への招待』を報告しました。西洋科学史における「コスモロジーの崩壊」と「その回復―膨張宇宙とビッグバン―20世紀宇宙論」です。
 今回第2回は、メンデレーエフの「周期律表の完成と原子Atom の崩壊」という現代的課題の序盤です。「
元素 Element 」を原子量の順番に並べて、化学的な性質やグループ分けを行うなど「周期率」形式・Formで表示する多様な学説が発表されていました。規則性と系列化の形式によって、化学的原子を元素概念のもとに統一的 / Elementarform に理解してゆく努力が続けられました。こうした時代背景―1860年にドイツ・カールスルーエで開催された国際化学会議が大きな転機となり―1869年、メンデレーエフによる「周期律・表」が確立してゆきます。
 すなわち 「
化学元素の周期的規則性」が明らかにされ、「元素 Element」は、原子のElementarform (構成要素の form : 形式・系列-デカルト系列アリストテレスの構成要素) として形成されました

  
『資本論』 第1章第1節 始まり
   ー デカルト・アリストテレスの“原理と実体の始まり”として現れる ー
 「 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積(注1)」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態/形式 Elementarform として 〔
個々の商品は、この社会の富の構成要素としての系列ー形式として 〕 現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。」 
 なお、「
Form」の日本語訳・「形態」(価値形態などの・・形態)については、慎重に十分な配慮が要求されます。「形式」としか理解できない文脈が多々、出現してきます。『資本論』の理解に欠かせません。「資本論入門」の当該箇所はこちらを参照してください
 また、次回、「『資本論』のなかのヘーゲル論理学」(2019・11月号-2 ヘーゲルとマルクス 「
仮象」-商品の物神性とヘーゲル論理学」)として準備中です。2020.1月号を参照してください。



 
20世紀への科学史
 
原子の崩壊ー内部構造へ

 1895年、ドイツのW・レントゲンによって可視光線や紫外線でもないべつの放射線が放電管の陰極線実験で発見され、「
新しい型の放射線について」発表されました。「X線」と名付けられた2か月後に、フランスのアンリ・ベクレルによって「ウランの放射線」が発見され、つづいて1898年、キューリー夫妻による放射性元素であるポロニウムとラジウムの発見、「放射能 radioactivité

」と名付けられました。また、1899年イギリスのラザフォードは「ラジウムの放射能を研究し、アルファ粒子(α・アルファ線)とベータ粒子(β・ベータ線)の放射線を発見」しました。
 こうして、X線の発見から放射能の発見へ、そして、これまでの元素・原子説から全く新しい「電子と原子核のミクロ世界」(20世紀)、さらに「真空とヒッグス粒子ー物質進化」の21世紀を迎えています。
 第2回「物質進化の旅」は、19世紀から20世紀, 21世紀へとまたがって進んでゆきます。

 
参考文献
 『
量子物理学の発見 -ヒッグス粒子の先までの物語』 Beyond the God Particle
 レオン・レーダーマン/クリストファー・ヒル 文藝春秋 2016年発行
 ~ 宇宙の始まりを探る旅
目次と概要」・・「■訳者解説は、こちら



   物質進化の旅 ー 量子物理学の発見』
 
 第2章 そのとき、ニュートン物理学は崩れた

1.
 デモクリトスは科学的な問いを立て、事実に即した正確な答えを求めた。元素という考え方の基礎をわれわれに与えてくれたのは彼だった。元素は、さまざまな物質に、その物質特有の振る舞いをさせるのだから、複雑でダイナミカルな〔相互作用が重要な役割を果たすような〕性質を持つはずだ、とデモクリトスは推論した。身の回りで出会う普通の物質は、実にさまざまな性質を示すが、それらはいずれも、より基本的な原子の性質に還元される[より基礎的なもので説明される]。元素のなかには、小さな球形をして、自在に動き回れるもの(たとえば液体)もあれば、鉤(カギ)のようなものを持ち、互いにしっかりと繋がり合って硬い構造を作るもの(金属)もあり、ブロックが積み重なるように規則的な結晶配列を作るもの(ダイヤモンドや水晶)もある。知られている現象はどれも、その説できちんと説明されるはずだし、ひょっとするとその説で、観測可能な新しい現象を予測することだってできるはずだった。それは、科学があらゆる理論に課す、理論が満たすべき条件である。
 もちろん、これは当時としてはあまりにも野心的な企てだった。デモクリトスには、自分の仮説を検証するために使える顕微鏡も粒子加速器もなかったのだ。しかし還元主義的なその仮説には、化学法則と、化学の基礎となる考え方が含まれていた。デモクリトスは、物質の基本構成要素に、ギリシヤ語の「atomos」(「分割できない」という意味)という言葉にちなんで、「原子(アトム)」という名前をつけた。われわれが目にするものはすべて、原子という基本単位から組み立てられている。大きなスケールの物質世界で見られる現象はすべて、原子の基本的な性質から立ち現れてくるのだ。
2. 物質世界に関するこの見方[原子論]は、きわめて現代的であるばかりか、まさに科学がやるべき仕事のひとつを指し示している。デモクリトスの説によると、ある種の物質は、化学反応で(たとえば、燃やす、腐らせる、水に溶かすなど)構造を変えるが、原子そのものは変化しない。彼の説は、さらなる探究を妨げず、むしろ指針を与えてくれた。ここには、「素粒子(英: elementary particle)」という概念のルーツがある。素粒子は、それ以上基本的なものに還元できない、宇宙にあるものすべてを構成する基本単位である。この世界にあるものすべての性質は、素粒子の性質から生しているのだ。

3. 原子は「最小の物質」なのだろうか
 その後の数世紀間に活躍したのは、錬金術師たちだった。彼らは鉛(Ph)という元素を、金(Au)という元素に変えようとしたが、一度たりとも成功したためしはなかったし、実際、どんな元素であれ、他の元素に変えることはできなかった。錬金術師たちは、元素を変換しようと数限りない試みを繰り返したが、結局のところ、さまざまな化合物に含まれる元素を、別の元素に置き換えただけだった。しかし彼らの努力は、化学物質の取り扱い方や、化学反応や物性について、膨大な実験的知識の「データペース」を蓄積するために役立った。錬金術師たちが築いたその基礎の上に、化学という学問分野が発展したのである。                 ”
 この意味において、デモクリトスの原子論は検証にかけられ、正しかったことが証明されたわけだが、彼の学説の細部は、後世の科学によって途方もなく大きく拡張されて、むしろひとつの知的枠組みであることが明らかになった。彼の原子論は、深い知識が得られていないことをごまかすために、「気」、「火」、「土」、「水」、「第五元素」という万能薬を振りかざす代わりに、科学的な努力を地道に続けるための指針となるものだったのだ。

4. われわれが日常的に出会う「普通の物質」は、自然という「玉ねぎ」の、一番外側の層を構成している。普通の物質は、原子がたくさん(あるいは少数)集まった「分子」でできている。塩(NaCl)、水(H2O)、われわれが呼吸する空気中に含まれている酸素(O2)、暖房に利用されるメタン(CH4)などは、いずれも原子が集まってできた分子だ。分子は、化学的か方法で原子に分解することができ、その原子からまた別の分子を作ることもできる。酸素分子とメタン分子を混ぜたものにマッチで火をつけると、一瞬のうちに原子の組み換えが起こり、水分子と二酸化炭素分子が生じ、大量の熱が放出される。一方、ナトリウム(Na)、塩素(Cl)、水素(H)、炭素(C)などは、原子、つまり「元素」だ。原子は、化学反応によって別の原子に変わることはない。これらは化学における「素粒子」なのだ。

5. 化学反応が起こっても、反応の前後で原子の総数は変わらない。また、金(Au)の原子を、化学反応で鉛(Pb)の原子に変えることはできない。高校の化学実験の範囲を超えるような操作をしない限り、原子をそれ以上分割することはできない。原子をさらに細かく分割することは、化学の領域から踏み出すことなのである。それは自然という玉ねぎの、より内側の層、原子物理学や原子核物理学で扱われる層に踏み込むことだ。いちばん最後が、クォークやレプトン、ゲージ粒子の層だ。今のところ、クォーク、レプトン、ゲージ粒子は真の「素粒子」だと考えられているが、未来の科学では、これらを構成している別の何かが「素粒子」の座に就くかもしれない。

6. 19世紀も半ばになる頃には、それまでに知られていたすべての化学反応にもとづいて、元素すなわち原子が、その性質に従って分類された。それを成し遂げたのが、ロシアの偉大な科学者ドミトリー・メンデレーエフである。メンデレーエフによる分類の枠組みに、こんにち、「元素の周期表」と呼ばれている。周期表は、何千年もかけて、錬金術や化学の分野で物質をあれこれいじってみたらどうなったというだけの雑多なデータをまとめたものとしては、驚くほどシンプルだ。分子の種類はほとんど無限にあるというのに、メンデレーエフはそれらを、たった百種類ほどの原子に還元したのだから(こんにちでは、元素の種類は百よりも少し多くなっているが、メンデレーエフの時代には、今よりだいぶ少なかった。ヘリウムをはじめ、メンデレーエフ以降に発見された元素はいくつもある。重い原子は多くの場合不安定で、粒子加速器で人工的に作ることはできるけれども、高校の化学教室の壁に貼られている、昔ながらの周期表には含まれていない)。周期表には、軽い原子から重い原子へと進むにつれて、似たような性質が繰り返されるというパターンが反映されていた。
 シンプルになったとはいえ周期表はまだ複雑で、原子もまた、より少数の、より基本的な何かに還元される可能性があることを示唆していた。原子には内部構造があるのだろうか? 「原子よりも内側の屑」は存在するのだろうか?

7. 自然は王ねぎのような階層でできている

 メンデレーエフの周期表は、物質科学における近代の始まりを画するものだった。それがどういうことかを理解するためには、自然は玉ねぎのような構造になっているということを理解する必要がある。次々と小さな距離のスケールで自然を見ていくと、それまでにない現象や構造を持つ新たな層が現れる。距離のスケールが小さくなるということは、エネルギーのスケールが大きくなるということだ(「一粒子あたりのエネルギー」が大きくなる。これについてはすぐ後に、注意深く定義する)。自然はどこでもまったく同じ物理の基本法則に支配されているが、自然の中でわれわれが目にする「複雑さの構造」は、玉ねぎのように層状になっていて、それぞれの層ごとに、起こる現象が異なるらしいのだ。それぞれの層は、それを調べるために必要なエネルギーによって特徴づけられる。

8. しかし、「それを調べるために必要なエネルギー」とは、いったいどういう意味だろう? ここでそれをきちんと説明しておこう。少し専門的になるが、素粒子や原子のエネルギーの話をするときには、電子ボルトというエネルギーの単位を使う(electron Volt を略して、eVと書く)。化学反応に関与するエネルギーは、原子1個につき、0.1から10 eV 程度である。原子が原子(あるいは既存の分子)と化学結合をして分子を作るときには、0.1から10 eV ほどのエネルギーが解放されるということだ。そのエネルギーは、2個の原子を化学的に結合させる力によって生み出され、一般には、光や運動エネルギーとして放出される。
 放出されたエネルギーは、熱(原子の集団的なランダム運動)に変換されることが多く、炎から出る光として目に見えたり、爆竹がはじける音として耳に聞こえたりする。化学エネルギーが解放されると、目に見える現象になることが多い。なぜなら、可視光の光子は、一個あたり2から3eV程度のエネルギーを持つからだ。つまるところ、われわれの視覚系に入って外界を見させてくれる光は、眼球と脳で起こるさまざまな化学反応によって処理されている。われわれが光を認知するためのプロセスは、まさに化学反応のエネルギー・スケール[数電子ボルト程度]で起こっているのである。

9. 分子を調べるために0.1から10eV程度のエネルギー源を使うと、しばしば化学反応を引き起こすことになる。たとえば、メタン(CH4)と酸素(O2)を混ぜたガスの中でマッチを擦れば、たちまち化学反応が起こって炎が上がり、二酸化炭素(CO2)と水(H2O)が生じる。マッチは自ら燃焼することで(たいていは酸素がリンと結合する)、光子を生じさせると同時に、分子に運動エネルギーを与える(そのエネルギーは、原子1個につき1eV程度である)。そうして運動エネルギーを与えられた粒子が、メタンや酸素に衝突して、玉突きのようにそれらを衝突させて化学反応を引き起こし、その反応からまた光子が放出される。それが連鎖反応となって、次々とエネルギーが放出されれば、ドカーン!という音とともに、激しい爆発が起こるというわけだ。
 このとき起こる物理現象は、化学反応で起こる電子や原子の運動と、それら粒子間の相互作用である。それらはすべて、化学反応という層の中の出来事であって、自然という玉ねぎの、他の層で起こることとはほぼ切り離されている。たとえば、日常目にする化学現象を調べる際は、陽子や中性子の振る舞いを考慮する必要はない(陽子や中性子は、原子核を構成する粒子で、原子よりもはるかに小さな距離のスケールに存在している)。原子核物理学は、エネルギーのスケールがまったく異なる層を扱い、その層では、エネルギーは百万電子ボルト(MeV)という単位で測られる。それに対し、化学の層で起こる現象のエネルギー・スケールは、だいたい0.1から10eVである。
 化学現象を調べる際は、太陽の周りの軌道上をゆったりと進む、地球の運動を考慮する必要はない。化学にとって重要なのは、原子相互の相対運動や、原子の内部で電子が行う運動である。熱の現象(原子たちのランダム運動や衝突など)のエネルギー・スケールは、典型的なところで、室温で原子1個あたり0.1eV程度だ。温度が上がるにつれて熱運動のエネルギーは大きくなり、起こる化学反応も変わりはじめる(「煮炊き」をするときに起こる変化がそれだ)。一方、地球が太陽の周囲をめぐる軌道運動では、地球上の原子がそろって動くだけなので、そのせいで原子が大きなエネルギーで衝突することはない。もちろん、小惑星が地球と衝突すれば、地球の原子に小惑星の原子が衝突して莫大なエネルギーが生じ、深刻な化学現象が起こるはずだ。それどころか、核物理学(!)の現象さえ起こるだろう。

10. メンデレーエフの周期表は、さまざまな化学現象をみごとに説明し、あらゆる化学反応を理解するための基礎となったが、20世紀の初めになると、原子は実は素粒子ではなく、さらに小さくて、より基本的なものから構成されていることが明らかになった。そのあたりを理解するためには、原子の内部を見ていかなければならない。原子の内部を探るための道具は、できれば原子よりもサイズの小さいものがよい。調べたいものよりも道具のほうが大きいのでは、小さなものを切り分けたり歯科手術をしたりするために、こん棒や戦闘用の斧を振り回すようなものだからだ。・・・
・・・以下、省略・・・



 
訳者解説 青木 薫  2016年7月
 「
量子物理学に今、革命が起ころうしている


 本書は、量子物理学の発見から、こんにちに至る発展、そして近未来への現実的な展望までを、2012年に発見されて大きな話題となったヒッグス粒子にフォーカスしつつ、実験物理学者ならではの切り口で生き生きと描き出す、ユニークかつ魅力的な本である。そもそも実験家が一般読者のために本を書くこと自体、まずめったにない。読者のみなさんはすでにご存知かもしれないが、一般向けの物理学の本は、ほとんどすべてと言っていいほど、理論家によって書かれているのである。
 そうなってしまう理由は明らかだ、と、本書の著者であるレオン・レーダーマンは、大成功を収めた著書『The God Particle』(邦訳『神がっくった究極の素粒子』上下 高橋健次訳、草思社刊)のなかで述べている。実験家と理論家の違いについて面白おかしく語ったくだりで、レーダーマンは、「なんたって連中(理論家)には、時間がたっぷりあるんだから」と言う。本を書けるのは、ヒマだからさ、というわけだ。「いや、わたしは忙しい!」と憤慨する理論家もいるだろうが、そのセリフがレーダーマンの口から出たものとわかれば、きっと苦笑いして「降参」の手を上げるだろう(ちなみに、本書のもっひとりの著者であり、レーダーマンの親しい同僚で何冊かの共著をものしている物理学者クリストファー・ヒルは、ご想像の通り、理論家である)。
 そして本書の魅力は、難解きわまりないことで悪名高い量子物理学が、ぐっと身近に感じられることだろう。量子物理学という分野は、一般にはきっとこんなふうに思われているのではないだろうか。
「それって、猫が死んでいるとか生きているとか、宇宙が無数に分裂するとかしないとか、まるで禅問答のような話が延々と続く分野でしょう?」。しかし、そう思っている人にこそ、ぜひとも本書を手にとっていただきたいと思うのだ。個性的な粒子たちを、目の前で見ているかのような、あるいはその手で捕まえようとしているかのような、実験家ならではの語りを、きっと楽しんでもらえるはずだ。しかし、本書の魅力をよりいっそう深く味わっていただくために、ここではまず、著者たちにゆかりのフェルミ研究所〔エンリコ・フェルミ:1901-1954.〕とはどういう研究所なのか、そしてレオン・レーダーマンとは何者なのかを、少し紹介させていただこう。


 フェルミ国立加速器研究所は、1967年に、もっぱら素粒子物理学の基礎研究を目的として、イリノイ州シカゴ近郊に設立されたアメリカの国立研究所である。初代所長はロバート・ウィルソン(同姓同名の多い名前だが、このウィルソンのミドルネームはラスバンRathbunという)。ウィルソンは第2次世界大戦中、原爆開発のマンハッタン計画に、最年少のチームリーダー(加速器部門)として参加した。しかし1945年5月にナチスドイツが降伏してみると、ナチスは核兵器を製造するどころか、ほそぼそと原子炉研究をやっていただけであったことが判明する。それを知ったウィルソンは、この恐るべき兵器の開発はここでやめるべきではないかと考え、同僚の物理学者たちに呼びかけてミーティングを開く。そのときの緊迫した状況は、専門家に読まれるだけの歴史資料を飛び出して、ジョン・アダムズとピーター・セラーズによる現代オペラ、『ドクター・アトミック』にも活写されている。しかしウィルソンの努力もむなしく、原爆が広島と長崎に落とされてしまったことは、日本人なら誰しも知る通りである。
 戦後ウィルソンは、核の軍事利用のための研究はいっさい拒否し、軍拡競争の中止、および核兵器使用の禁止を訴えて、米国科学者連盟(FAS)の設立に尽力した。また、もっぱら基礎研究を行う加速器研究所、今日のフェルミ研究所の設立を国に働きかけた。研究所の設立を審議する上下両院合同原子力委員会の席で、「その研究は国防のために役に立つのか」と尋ねられたウィルソンが、「直接その役には立ちませんが、この国を守るに値する国にするためには役に立ちます」と答えたことは有名である。
 その結果として研究所の設立が認められ、ウィルソンはフェルミ研究所の初代所長となった。乏しい資金をやりくりして加速器を作るためには、研究所の建物は粗末なもので我慢するしかあるまい、との意見もあったという。しかしウィルソンは、優れた研究者が集い、ともに研究したくなるような、魅力的な建物がぜひとも必要だと考えて、美しく印象的な中央管理棟を低予算で完成させた。それが、本書にも何度か登場するフェルミ研究所の中央管理棟、「ウィルソン・ホール」である。建築家にして彫刻家でもあったウィルソンは、「調和」を象徴するというそのデザインを、北フランスにある未完の大聖堂、ボーヴェ大聖堂のイメージに重ねた、と語っている。
 ウィルソンはその後、陽子と反陽子を高エネルギーに加速して正面衝突させる画期的な加速器、「テバトロン」の建造計画に着手した。しかし連邦政府の助成額があまりに少ないことに抗議して、1978年、ウィルソンはフェルミ研究所の所長を辞任する。


 そのウィルソンを引き継いでフェルミ研究所の第二代所長になったのが、レオン・レーダーマンである。レーダーマンはたぐい稀なりIダーシップを発揮して、危機に瀕していたテバトロンを完成に導き、この加速器はそれからおよそ30年の長きにわたり、「高エネルギーフロンティアの王」として君臨することになった。レーダーマンもままた、ノーベル賞何個分にもなると言われるほどの仕事をした(実際にもらったのは1個)。20世紀アメリカにおける理論物理学者のアイコンがリチャード・ファインマンだとすれば、実験物理学者のアイコンは、まちがいなくレオン・レーダーマンだろう。
 レーダーマンは傑出した実験家であるのみならず、ウィルソンの志を継いで、研究所と周辺の環境との融和や地域住民との交流にも努めた。また、本文中にもそれとなく触れられているように、飛行機に飛び乗ってワシントンDCに乗り込んでは、基礎科学研究への助成を精力的に訴えてきた。さらに、次世代への科学教育のためのプロジェクトにも多大なエネルギーを注ぎ、この方面ではレーダーマンその人に捧げられた本もあるほどだ。(『Science Literacy for the Twenty-First Century 』 [邦訳『科学力のためにできること 科学教育の危機を救ったレオン・レーダーマン』渡辺政隆監訳、野中香方子訳、近代科学社])。

 テバトロンを完成させるためには、テクノロジーの壁をいくつも乗り越える必要があった。とくに重要だったのが、本書にも折に触れて登場する超伝導磁石である。フェルミ研究所は、このタイプの強大な磁石を作るためにユニークな設計思想を打ち立て、その後世界中で作られたほとんどの加速器はそれを継承している。さらに、そうして開発されたテクノロジーは、加速器のみならず、さまざまな分野での応用を生み出すことになった。レーダーマンは、純粋な基礎科学研究のために開発されたテクノロジーや概念が、医療や情報通信をはじめとする多くの分野で、現実の社会に大きく貢献できるということを、最先端の現場でまのあたりにしてきたのである。
 とかく世間では、科学のビッグプロジェクトというと、「どうして理系オタクの知的好奇心なんかに、われわれの税金を使わなきゃいけないのか」という反応が起こりがちだ。しかし、それは間違いだ、とレーダーマンは本書の中で訴える。そう思い込んでいる社会の未来は暗い。科学には正真正銘、社会を活気づけ、豊かにする力があるのだ、と。・・・
 ・・・以下、省略・・・


 
目次と概要
 『量子物理学の発見 -ヒッグス粒子の先までの物語』 
  
第1章 宇宙の始まりを探る旅……………
 2012年に世界の新聞の一面を飾った「ヒッグス粒子」の発見。本書では、その発見にいたるまでの人類の歴史を、ノーベル賞量子物理学者が綴る。それは、この世界の極小の構成単位を探る旅でもあり、同時に宇宙の始まりを探る旅でもあった

  
第2章 そのとき、ニュートン物理学は崩れた……………
 ギリシャ以来の物質の最小構成要素への人類の探究は、原子核とそれをまわる電子というモデルまでいきつく。しかし1912年のある日、物理学者のニールス・ボーアは気がつく。なぜ、電子は原子核に墜落しないのか? まったく新しい物理学の誕生

  
第3章 世界は右巻きか左巻きか……………
 水の分子を鏡に写しても左右対称で変わらない。しかし、変わってしまう分子もある。たとえば、われわれの世界の食べ物は右旋体の糖でできている。さてでは物理法則はどうだろうか?その対象性が破れていることを発見したのがこの本の著者だった

  
第4章 相対性理論の合法的な抜け道………………
 エネルギーは光速の2乗にそのものの質量をかけたものに等しい。E=mc2 。アインシュタインは、物質の質量はエネルギーに転換できることを示した。しかし、光に質量はないはずだ。とすれば、光はエネルギーに転換できないのか?

  
第5章 初めに質量あれ……………………………………
 宇宙が始まる前、すべてのものは無であり、質量はなかった。完全な対称性が成り立つ世界だった。その対称性が崩れ去る引き金を引いたもの、それが「ヒッグス粒子」だ。「ヒッグス粒子」が質量を生み出し、われわれの宇宙を生み出すことになった

  
第6章 何もないところになぜ何かが生まれたのか?・……………
 ではどのようにして何もないところからヒッグス粒子が生まれ質量が生まれるのか?たとえば10-25 秒という非常に短い時間では、不変のはずのエネルギー保存則が成り立たない瞬間がある。その「量子ゆらぎ」とよばれる現象のことから説明しよう

  
第7章 星が生まれた痕跡・……………
 宇宙初期にできた原始星の内部で、炭素、酸素、窒素、硫黄、ケイ素、鉄などの重い元素が作られる。しかし、これらの元素があまねく宇宙に行き渡るためには、崩壊による解放が必要だ。その痕跡がいまもふりそそぐ「ニュートリノ」という粒子だ

  
第8章 加速器は語る・……………
 著者らのフェルミ研究所は、標準理論のその先を探索する新加速器「プロジェクトX」の建造計画を進めている。それは高エネルギー追求から転換してコストは抑え、膨大な数の粒子を観測して珍しい現象を探す新たなアプローチだ

  
第9章 ヒッグス粒子を超えて・……………
 量子物理学はまだ道半ばだ。ヒッグス粒子は物質に質量を与えるが、それ自身の質量がどこから来るかはわかっていない。宇宙のほとんどを占める暗黒物質も検出できていない。未知の物理現象を求める実験は続く

・・・以上、終わり・・・