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 『資本論』 商品の変態


 『資本論』第3章貨幣または商品流通 第2節 流通手段

第1節 価値の尺度

  a 商品の変態


1.
 商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除し合う関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運勤しうる形態を作り出している。これがとりもなおさず、一般に現実の矛盾が解決される方法である。例えば、ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、その中でこの矛盾が解決され、また実現されてもいる運動形態の一つである。
2. 交換過程は、諸商品を、それが非使用価値である持ち手から、使用価値となる持ち手に移すかぎり、社会的な物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他のそれとかわる。商品はひとたび使用価値として用いられる個所に達すると、商品交換の部面から消費の部面にはいる。ここでわれわれの関心事となるのは、前の方の部面のみである。したがって、われわれは全過程を、その形式的側面から、したがって、ただ商品の形態変化または社会的物質代謝を媒介する、その変態をのみ、考察しなければならぬ。


3. この形態変化を、きわめて不充分にしか理解しないのは、価値概念そのものにかんしてはっきりしていないのを別とすれば、次の事情によるのである。すなわち、ある商品の形態変化は、すべて二つの商品、すなわち、普通の商品と貨幣商品の交換において行なわれるということである。この素材的要素である商品と金との交換をのみ固執すると、人は、まさに見なければならぬもの、すなわち、形態について起こることを看過する。金は単なる商品としては貨幣でないということ、そして他の諸商品自身がその価格を金で表わすことによって、金は商品そのものの貨幣態容となっているということ、人はこれを見のがしている。

4. 商品は、まず最初は金メッキもされないで、砂糖もふりかけられないで、あるがままの姿で交換過程にはいる。交換過程は、諸?商品の商品と貨幣とへの二重化を生ぜしめる。すなわち、一つの外的な対立を生ぜしめる。この対立の中に、商品は、使用価値と価値の内在的対立を示しているのである。この対立において、諸商品は使用価値として、交換価値としての貨幣に相対する。他方において、対立の両側は商品である。したがって、使用価値と価値の統一である。しかしながら、この差別の統一は、両極のおのおのにおいて逆に表示されている。そしてこのことによって、同時に、両極の相互関係が示されているのである。商品は現実に使用価値である。その価値たることは、ただ観念的に価格に現われる。価格は、商品を、その実在的な価値態容として対立する金に、関係せしめる。逆に、金材料は価値体化物として、貨幣としてのみ働いている。したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現われるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である。


5. われわれはいま、誰か一人の商品所有者、例えばわれわれの旧いなじみの亜麻布織職について、交換過程の場面、すなわち商品市場に行って見よう。その商品である20エレの亜麻布は、価格が定められている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼はこの商品を2ポンド・スターリングと交換する。昔気質のこの男は、この2ポンド・スターリングをもって、再び同一価格の家庭用聖書と交換する。亜麻布は、彼にとって商品、すなわち価値の担い手であるにすぎないが、金、すなわち、その価値態容にたいして売り渡される。そして、この態容からまた他の商品、すなわち、聖書にたいして売り渡される。この聖書は、こうして、使用対象として織職の家にやってきて、ここで教化欲望を充足させるわけである。したがって、この商品の交換過程は、二つの対立した、そして相互に補足し合う変態―商品の貨幣への転化と貨幣から商品への反転 ― となって遂行される(65)。商品変態の契機は、同時に商品所有者の取引―売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、さらにまた買うために売るというこの両行為の統一 ― である。

 (65) 「ヘラクレイトスはこう言った、だが、すべてのものが火……から成り、そして火は一切から成る。それはあたかも金から財貨が、財貨から金が成るようなものである、と」(F・ラッサール『暗き人ヘラクレイトスの哲学』ベルリン、1858年、第1巻、222ページ)。この個所にたいするラッサールの注(224ページ、注3)は、貨幣を単なる価値標章と説いているが、謬りである。

6. そこで亜麻布織職にとって大事なことは、その取引の最終結果であるが、彼は亜麻布のかわりに聖書を、すなわち彼の最初の商品のかわりに、同一価値の、しかし有用性をことにする他の商品をもっている。同様にして、彼は、その他の生活手段と生産手段とを獲得する。彼の立場からすれば、この全過程は、ただ彼の労働生産物を他の人の労働生産物と交換すること、すなわち生産物交換を媒介するだけである。

7. 商品の交換過程は、こうしてつぎのような形態変化をなして遂行される。
   
商品―貨幣―商品
    
W - G - W


8. W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。

9. W―Gすなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように〔『経済学批判』岩波文庫版、110ページ〕、商品の salto mortale (生命がけの飛躍)である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。社会的分業は、彼の労働を一方的に偏せしめると同時に、彼の欲望を多方面にする。まさにこのゆえに、彼の生産物が彼にとって用をなすのは、交換価値としてだけであることになる。しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。そして貨幣は、他人のポケットの中にあるのである。これを引き出すためには、商品は、とくに貨幣所有者にたいして使用価値でなければならない。すなわち、この商品にたいして支出された労働は、かくて社会的に有用なる形態で支出されていなければならない。あるいは社会的分業の一環たることを立証しなければならない。しかしながら、分業は、自然発生的生産有機体をなしているのであって、その繊維は商品生産者の背後で織られたのであり、またつづいて織られているのである。商品は、ある新しい労働様式の生産物であって、これは新しく現われた欲望をまず充足させるためになされたものであるかもしれないし、あるいは自分の力で、欲望をまず呼び起こそうとするものであるかもしれない。昨日なお同一商品生産者の多くの機能の中の一機能であっても、ある特別の労働操作が、今日はおそらくこの関連から脱して、独立化し、まさにこのゆえに、その部分生産物を、独立の商品として市場におくる。事情は、この分離過程にとって熟しているかもしれず、熟していないかもしれない。生産物は今日は社会の欲望を充足させる。おそらく明日は、これは、全くまたは部分的に、他の類似の生産物種によって、その地位から追われるかもしれない。わが亜麻布織職のそれのように、労働は社会的分業の特許つきの一環であっても、彼のこの20エレの亜麻布の使用価値は、これでは確保されはしない。もし亜麻布にたいする社会的の欲望が、そしてこれは他の一切のものと同じく、限界をもっているのであるが、すでに競争者である亜麻布織職によって充たされているならば、わが友人の生産物は過剰となり、無用となり、したがってまた、有用性のないものとなる。もらい物のあらさがしをするな、という諺もあるが、彼は贈り物するために市場に出てきたのではない。しかし、がりに彼の生産物の使用価値が立証され、したがって貨幣がこの商品によって引き寄せられると仮定しよう。だが、さてどれだけの貨幣が?という問題がある。答えは、もちろんすでに商品の価格、その価値の大いさの指数によって先廻りして与えられている。われわれは、商品所有者が、純粋に主観的な、いって見れば、計算の誤りをする、というようなことを無視しよう。これは、市揚でただちに客観的に訂正される。彼は、その生産物にたいして、社会的に必要な労働時間の平均だけを支出したであろう。したがって、商品の価格は、その中に対象化されている社会的労働の定量の貨幣名であるにすぎない。しかし、わが亜麻布織職の許しなく、または彼の知らないうちに、亜麻布織職の古くから行なわれている生産諸条件が、はげしく動いていたかもしれない。昨日疑いもなく1エレの亜麻布の生産にたいして、社会的に必要な労働時間であったものが、今日では、そうでなくなっているかもしれない。このことを、貨幣所有者が熱心に、わが友人のいろいろな競争者の値段づけから、明らかにしてくるのである。彼にとって不幸なことには、世の中には多くの織職がいる。最後に、市場にあるすべての亜麻布が、社会的に必要な労働時間のみを含んでいると仮定しよう。それにもかかわらず、これら各布片の総額は、不用に支出された労働時間を含んでいることもありうる。市場の胃の俯が、亜麻布の総量を、1エレ当り2シリングの正常価格で吸収しえないとすれば、このことは、亜麻布機織の形態で、社会的総労働時間の過大なる部分が、支出されたことを証明する。結果は、各個々の亜麻布織職が、彼の個人的生産物にたいして、社会的に必要なる労働時間より多くのものを投じたのと同様である。このばあい、ともに捕われともに絞首にされるとでも言うべきである。市場にあるすべての亜麻布は、ただ一つの取引品目として作用し、各布片は、ただその可除部分であるにすぎない。そして実際において、個々別々の布各エレの価値もまた、同一種の人間労働の同一なる社会的に一定した分量を、体化しているものであるにすぎない。


10. 商品は貨幣を愛する。が、「まことの恋がおだやかに実を結んだためしはない」〔シェイクスピア『夏の夜の夢』第1幕、第1場、邦訳、土井光知訳、岩波文庫版、38ページ〕ことを、われわれは知っている。

11. 分業体制の中に、その肢体(membra disjecta)が八方に分岐していることを示している社会的生産有機体の量的構成は、 質的なそれと同じように、自然発生的で偶然的である。したがって、わが商品所有者は、彼らを独立の私的生産者となす同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの関係を、彼ら自身から独立のものとしていること、人々相互の独立性が、全般的な物的依存の体制となって補足されているということを、発見するのである。

12. 分業は、労働生産物を商品に転化する。そしてこのことによって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。この分業は同時に、この化体が成就するかどうかを、偶然的のものにする。だが、ここでは現象が純粋に考察さるべきである。したがって、その正常な進行が前提さるべきである。そこで、ことは、ともかく滑かに進行し、したがって、商品は売れ残るようなことがないとすれば、その形態変化がつねに行なわれているということになる。むろん、この形態変化が正常に行なわれないことになれば、実体―価値の大いさ―が失われたりするかもしれない。

13. 一方の商品所有者には、金がその商品にかわり、他方の商品所有者には商品が金にかわる。目立つ現象は商品と金との、20エレの亜麻布と2ポンド・スターリングとの持ち于変更、または場所変更、すなわちその交換である。だが、商品は何と交換されるか? 自分自身の一般的価値態容と。そして金は何と交換されるか? その使用価値の特別な態容と。なぜ金は亜麻布にたいして貨幣として相対するか? 亜麻布の2ポンド・スターリングという価格、またはその貨幣名が、亜麻布をすでに貨幣としての金に関係せしめているからである。本来の商品形態を脱することは、商品の売渡しによって、すなわち、その使用価値が、その価格の中において観念としてのみ存している金を、現実に引きつける瞬間に、行なわれるのである。価格の実現、または商品の観念的に存するにすぎない価値形態の実現は、したがって、同時に逆に観念的にのみ存する貨幣の使用価値の実現である。すなわち、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が、商品所有者の極からは売りであり、貨幣所有者の反対の極からは、買いであるという二面の過程である。言葉を換えていうと、売りは買いである。W-G は同時に G-W である(66)。

 (66) 「あらゆる売りは買いである」(ドクトル・ケネー『商業と手工業者の労働にかんする対話』、『重農学派』第1部、パリ、1846年、170ページ)。あるいはケネーが彼の『一農業国における経済政策の一般原理』で言っているように「売ることは買うことである」。

14. われわれは、これまで人間の経済関係を、ただ商品所有者の関係としてだけ見てきた。これは、商品所有者たちが、もっぱら自己の労働生産物を手離して、他人の労働生産物を取得する関係である。したがって、一方の商品所有者にたいして、他方の商品所有者は、ただ貨幣所有者としてのみ、相対することができる。それができるのは、彼の労働生産物がほんらい貨幣形態をとっており、したがって貨幣材料であり、金等々であるからであるか、あるいは彼自身の商品がすでに脱皮して、その最初の使用形態を脱ぎ去ったからであるかである。貨幣として機能するためには、金はもちろんいずれかの点で、商品市場にはいり込まねばならない。この点は、その生産源にある。ここで金は直接の労働生産物として、同一価値の他の労働生産物と交換される。しかしながら、この瞬間から、たえず、金は実現された商品価格を表わしている(67)。商品と金のその生産源における交換を別とすれば、金はすべての商品所有者の手中で、彼の売渡した商品の脱皮した姿となっている。すなわち、売りの生産物、または W-G なる最初の商品変態の生産物である(68)。金が観念的の貨幣、または価値尺度となったのは、すべての商品がその価値を金で測り、かくてこれをその使用態容の観念化された反対物、すなわち、その価値態容となしたからである。金が実在的な貨幣となるのは、諸商品がその全面的な売渡しによって、金を諸商品の現実に脱皮した、または転化した使用態容となし、したがって、諸商品の現実の価値態容となすからである。その価値態容においては、商品は、その自然発生的にもっている使用価値、そしてその成立を負っている特別な有用労働の、あらゆる痕跡をはらい落としている。こうして、無差別な人間労働の一様な社会的な体化物に蛹化していくのである。したがって、人は貨幣にたいしては、貨幣に転化された商品がどんな種類のものかということを、少しも顧みない。どんな商品もその貨幣形態においては、他のそれと寸分たがわぬ顔つきをしている。だから、もちろん糞尿は貨幣ではないが、貨幣は糞尿であることもある。わが亜麻布織職が、その商品を売り渡した2個の金貨は、1クウォーターの小麦の転化した姿であると想定しよう。亜麻布の売り、W-G は、同時にその買い G-W である。しかしながら、亜麻布の売りとしては、この過程は一つの運動を始めている。この運動は、その反対物、すなわち聖書の買いで終わる。亜麻布の買いとしては、この過程は、一つの運動を終えている。それは、この過程の反対物、すなわち、小麦の売りをもって始まったのである。W―G(亜麻布-貨幣)という W-G-W (亜麻布-貨幣-聖書)の第一段階は、同時にG-W(貨幣-亜麻布)で、他の運動W-G-W(小麦―貨幣-亜麻布)の最後の段階である。ある商品の最初の変態、その商品形態から貨幣への転化は、つねに同時に、他の商品の第二の相対立した変態、すなわちその貨幣形態から商品への再転化である(69)。

(67) 「ある商品の価格は、ただ他の商品の価格をもってのみ、支払うことができる」(メルシェ・ドゥ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』、『重農学派』テール版、第2部、554ページ)。
(68) 「この貨幣を得るためには、人は売っているはずである」(同上、543ページ)。
(69) 先に述べたように、例外をなすのは、金または銀生産者であって、彼はその生産物を、あらかじめ売っておかないで交換する。

15. G-W 商品の第二、または終局変態、すなわち、買い。―貨幣は、すべての他の商品の脱皮した姿、またはその一般的な売渡しの産物であるから、それは、絶対的に売渡しうる商品である。貨幣は、すべての価格を逆読みにする。そしてこのようにして、貨幣は、彼自身が商品となるための献身的な材料であるすべての商品体に、反映されている。同時に、諸商品が彼にウィンクする愛のまなざし、つまり価格は、彼の転化能力の限界、すなわち彼自身の量を示している。商品は、貨幣となることによって消滅するのであるから、人が貨幣について見るところは、貨幣がその所有者の手中にどうして達したか、または何が貨幣に転化したかということではない。どんな生まれであろうと、お金はくさくないものだ(„non olet“)。貨幣は、一方で売られた商品を代表するとすれば、他方で買いうべき商品を代表する(70)。

  (70) 「貨幣は、われわれの手中で、われわれが買いたいと思う物を示すのであるが、またわれわれがこの貨幣のために売った物をも示している」(メルシェ・ドゥ・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的秩序』586ページ)。

16. G-W 買いは同時に売り W-G である。したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の商品の最初の変態である。われわれの亜麻布織職にとっては、彼の商品の生涯は、聖書をもって閉じられる。この聖書に、彼は、その2ポンド・スターリングを再転化させたのである。しかしながら、聖書販売者は、亜麻布織職から得た2ポンド・スターリングを、ウィスキーに転化する。G-WというW-G-W(亜麻布-貨幣―聖書)の終局段階は、同時にW-GなるW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー)の第一段階である。商品生産者は、一方的な生産物を供給するにすぎないのであるから、彼はこれを比較的大量に頻繁に売る。他方、彼は、その多方面な欲望のために、実現した価格を、または売上げて得た貨幣量を、つねに多数の買いに分散させなければならない事情にある。したがって、一つの売りは、各種の商品の多くの買いに流れこむ。ある商品の終局変態は、このようにして、他の商品の最初の変態の総和をなしている。

17. いまある商品の、例えば亜麻布の総変態を考察するとすれば、われわれは、まず第一に、それが二つの相対立した、そして相互に補足する運動W-G-WおよびG-Wからなることを見るのである。商品のこの二つの相対立した変転は、商品所有者の二つの相対立した社会的過程として行なわれ、その二つの相対立した経済的役柄に反映される。彼は、売りの担い手としては売り手であり、買いの担い手としては買い手である。しかし、商品のあらゆる変転の中に、その両形態、すなわち商品形態と貨幣形態が、同時に、しかしただ相対立した極に存するように、同一商品所有者が売り手である場合には、他の買い手が、買い手であるときは他の売り手が、彼に相対している。同一商品が、二つの逆の変転をひきつづいて経過して、商品から貨幣が、また貨幣から商品が生ずるように、同じ商品所有者は、売り手と買い手の役割を交代して演ずる。したがって、売り手や買い手になることは、決して固定した役柄なのではなくて、商品流通の内部で、絶えず人を交代させる役柄である。

18. 一商品の総変態には、その最も単純な形態において、四つの極と三人の登揚人物が想定される。最初に、商品に、たいして貨幣が、その価値態容として相対する。それは彼方に、他人の懐の中に、物的に硬い実在性をもっている。こうして、商品所有者に、貨幣所有者が相対する。商品がいま貨幣に転化されるやいなや、貨幣は商品の消過的な等価形態となる。貨幣のがわからいうと、その使用価値または内容は、他のいろいろの商品体の中にある。第一の商品変転の終局点として、貨幣は、同時に第二のそれの出発点である。このようにして、第一幕の売り手は第二幕の買い手となる。第二幕ではこの買い手に、第三の商品所有者が、売り手として相対する(71)。

  (71)「これによれば、4つの終局点と3人の契約当事者がある。このうち一人は2度関与する」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』908ページ)。

19. 商品変態の二つの逆の運動段階が、一つの循環をつくり上げている。すなわち、商品形態-商品形態の脱却-商品形態への帰還である。もちろん、商品自身は、ここでは対立的な性質を示している。出発点では商品は、その所有者にとって非使用価値であり、終局点では使用価値である。このようにして、貨幣は、まず商品の転化した堅い価値結晶として現われ、後にはその単なる等価形態として消え去る。

20. 一商品の循環をなす二つの変態は、同時に、二つの他の商品の逆の部分変態をなす。この同じ一つの商品(亜麻布)は、それ自身の変態の序列を開始し、他の一商品(小麦)の総変態を閉ざす。第一の変転、売りの間に、この商品は、身一つでこの二つの役割を演ずる。これに反して、それ自身死という万物の運命をたどるはかない金の蛹として、商品は、同時に第三の商品の第一の変態を終結させることになる。各商品の変態序列が描く循環は、こうして他の商品の循環と入りまじっていて解けない。総過程は商品流通として表われる。

21. 商品流通は、形式だけでなく、本質的にも、直接的な生産物交換とはちがっている。その進行過程を、ちょっと見てみればわかる。亜麻布織職は、無条件に亜麻布を聖書と、自分の商品を他人のそれと交換した。しかし、この現象は、彼にとって真実であるだけである。冷いものより熱いものを選んだ聖書販売人は、亜麻布を聖書に代えようとは考えてもみなかった。ちょうど亜麻布織職は、小麦がその亜麻布と交換されたというようなことを、少しも知らないように。等々。Bの商品は、Aの商品に代わる。しかし、AとBとは、お互いにその商品を交換することはない。実際上AとBとが、お互いの間で交互に買い合うということも起こりうる。しかし、このような特別の結びつきは、決して商品流通の一般的関係から必ず生ずるわけではない。むしろ一方において、ここに示されているのは、商品交換が、直接的な生産物交換のもつ個人的地方的の限界を、どうして突き破り、人間労働の物質代謝を発展させるかということである。他方において、行動する各個人の手ではどうにもしがたい社会的な自然関連の大きな範囲が、発展してくる。織職が亜麻布を売りうるのは、ひとえに農民が小麦を売ったからであり、短慮者が聖書を売りうるのは、ひとえに織職が亜麻布を売ったからであり、火酒製造者が熱い水を売りうるのは、ひとえに他の者が永遠の生命の水を、すでに売ったからである、等々。

22. 流通過程は、それゆえに、直接の生産物交換のように、使用価値の場所変更、または持ち手変更で、消滅することはない。貨幣は消失することはない、というのは、それは結局ある商品の変態序列から、脱げて出てくるものであるからである。貨幣は、つねに商品が席をあけた流通個所に沈澱する。例えば、亜麻布の総変態、亜麻布―貨幣―聖書において、はじめに亜麻布が流通から脱落し、貨幣がその個所に進み、次に聖書が流通から脱し、貨幣がそのあとに進む。商品が商品によっておき代えられると、同時に、貨幣商品は第三の手にとどまる(72)。流通は絶えず貨幣を発汗している。

  (72) 第二版への注。この現象は、このように明瞭なるにもかかわらず、しかも経済学者によって、とくに俗流自由貿易論者によって、多くは看過されている。

23. あらゆる売りが買いであり、またその逆であるのであるから、商品流通は、売りと買いの必然的な均衡を含んでいるものであるというドグマほど、とんまな考えはあるまい。もしこのことが、現実に行なわれた売りの数は買いの同じ数に等しいと、いおうとするのだとすれば、これはなんの内容もない空しい言葉である。だが、問題は、売り手が自分自身の買い手を市場につれてくるということを、証明することにある。売買は、二人の対極的に対立している人、すなわち、商品所有者と貨幣所有者の間の相互関係としては、同一の行動である。それは同一人の行為としては、二つの対極的に対立した行動をなしている。したがって、売りと買いの一致は次のことを含んでいる、商品は、もし流通の錬金術的レトルトの中に投ぜられて、貨幣として出てこないとすれば、すなわち、商品所有者によって売られず、したがって貨幣所有者によって買われないとすれば。無用となるということである。さらに、先の一致は次のことを含んでいる、すなわち、この過程は、もしそれが成功すれば、商品の一つの静止点を、すなわち、長くあるいは短くつづきうる商品の生涯のくぎりをなしているのである。商品の第一の変態は、同時に売りと買いであるから、この部分過程は同時に独立の過程である。買い手は商品を、売り手は貨幣、すなわち、遅かれ早かれ再び市場に現われる流通能力ある形態を保持する一商品を、もっている。何びとも、他人が買うことなくしては、売ることはできない。しかし何びとも、彼自身が売ったから、直接に買わなければならぬということはない。流通は、生産物交換の時間的、場所的および個人的な限界をうち破るのであるが、それはこうしてである、すなわち、流通そのものが、自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換してくるという生産物交換に存する直接の一致を、売りと買いの対立に分裂させることによってである。独立的に相互に相対する過程が、内的統一をなすということは、同じくその内的統一が、外的の対立をなして運動するということを意味する。相互に補足し合うのであるから、内的には非独立的である者が、外的に独立している。この独立が一定の点まで進展すると、統一は強力的に一つの ―
恐慌によって貫かれる。商品に内在している対立、使用価値と価値、同時に直接的に社会的なる労働を表わさなければならない私的労働、同時にただ抽象的に一般的な労働となされる特別な具体的労働、
物の人格化と人の物化 〔 Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen 〕。― というようなこの内在的矛盾は、商品変態の対立の中に、その発展した運動形態を保持している。したがって、これらの形態は、恐慌の可能性を、だがまたその可能性のみを、含んでいる。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からは、まだ少しも存在していない諸関係の全範囲を、必要とするのである(73)。

  (73) 『批判』74-76ページ〔邦訳、岩波文庫版、121一122ぺ-ジ。新潮社版『選集』第七巻、117ページ〕におけるジェイムズ・ミルにかんする、私の叙述を参照されよ。経済学的弁護論の方法の特徴的な点は二つある。第一に、商品流通と直接の生産物交換とを、それらの区別から単純に抽象することによって、  同一視するということである。第二に、資本主義的生産過程の矛盾をば、その生産代理者の諸関係を、商品流通から生ずる単純な諸関係に解消することによって、否定し去ろうという試みである。しかしながら、商品生産と商品流通とは、その範囲と深さとを異にしてではあるが、きわめて多種類の生産様式に属する現象である。したがって、これらに共通な抽象的な商品流通の範疇を識っただけでは、これらの生産様式のもつ differentia specifica (種差)について、すこしも知ることにならない。したがってまた、これを判断することはできない。経済学以外のいかなる科学においても、初歩的な陳腐なことを、このようにもったいぶって語ることは、行なわれていない。例えばJ・B・セイは、彼が商品は生産物であるということを知っているから、恐慌について権威ぶることができると思い上がっている。

24. 商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段の機能を得る。

 ・・・・以上、a 商品の変態 終わり・・・・