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『資本論』生誕150周年 『経済学批判』から『資本論』へ


   
古典派経済学の根本欠陥の一つについて


     
― 『資本論』第1章第1節(注31)、(注32) ―


(注31、32)は、『経済学批判』A商品分析の歴史ー古典派経済学の「価値」をめぐる長い伝統に対するマルクスの歴史的総括となっています。 『経済学批判』A商品分析の歴史を参照してください。


 『資本論』
第1章第4節商品の物神的性格とその秘密 (岩波文庫p.143)


 さて経済学は不完全ではあるが
(注31)価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるがそれはまだ一度も、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量(ひょうろう)が労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?いう疑問をすら提起しなかった(注32)。生産過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということがその額に書き記されている諸法式は、人間のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている。


  
(注31)
 リカードの価値の大いさの分析-そしてこれは最良のものである―に不充分なところがあることについては、本書の第3および第4巻で述べる。しかしながら、価値そのものについて言えば、古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をもって、
価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。
しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。
リカードは、例えば、デステュット・ド・トラシがこう述べるとき、これと同見解であると言言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働は、われわれの本源的な財宝である。われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。……その上に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないことも確かである。そしてもしこれらの物が、一つの価値をもち、あるいは二つの相異なる価値をすらもっているとすれば、これらの物は、これをただ自分が作られてくる労働のそれ」(価値)「から得るほかにありえない」(リカード『経済学原理』第3版、ロンドン、1821年、334ページ〔小泉信三訳『経済学及び課税の原理』岩波文庫版、下、19ページ〕。

 われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」と言っているが、他方では、それらの物が、
その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されている、と。しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体〔第20章「価値と富、両者を区別する特性」〕にわたって、苦心してJ・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働について一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。


  
(注32)
 
古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない。それはもっと深いところにある。

 
労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、この生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱した、そしてもっとも矛盾した観念を見ることになるのである。

 このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニイ等々)が、ここに発生した。―これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばもっとも粗けずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、たえず繰返して反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理屈づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである。


  ・・・以上、(注31)、(注32)終わり・・・・