『資本論』
第3章貨幣または商品流通
第1節 価値の尺度
(第3章_第1節-第1段落=3s_1-1)
1. 私は説明を簡略にするために、この著作では何処でも、金が貨幣商品であると前提する。
2. 金の第一の機能は、商品世界にたいして、その価値表現の材料を供し、または商品価値を同分母をもつ大いさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大いさとして、表示することにある。こうして、金は価値の一般的尺度として機能し、この機能によってはじめて金という特殊的な等価商品が、まず貨幣となる。
3. 諸商品は貨幣によって通約しうべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である(50)。
(50) なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないか、したがって、例えば一紙幣がX労働時間を表わすというようにならぬのかという問題は、きわめて簡単に、なぜ商品生産の基礎の上においては、労働生産物が商品として表示されねばならぬか、という問題に帰着するのである。なぜかというに、商品の表示は、この商品が商品と貨幣商品に二重化するということを含んでいるからである。あるいはなぜ私的労働は直接に社会的労働として、すなわち、その反対物として、取り扱われることができないかの問題に帰着する。私は商品生産を基礎とする「労働貨幣」ということが浅薄な空想であるわけを、他の個所で詳しく論じておいた(カール・マルクス『批判』61ページ以下〔邦訳、岩波文庫版103ページ以下。新潮社版106ページ〕
4. ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。
5. 商品の価格または貨幣形態は、その価値形態一般と同じく、手でつかみうるような、その実在的の物体形態とちがった、したがって理念的または観念化された形態にすぎない。鉄、亜麻布、小麦等々の価値は、見ることはできないが、これらの物そのものの中に存在している。それはこれらの物の金との等一性によって、すなわち、金にたいするいわばその頭脳の中に棲んでいる連結によって、表示される。したがって、商品番人は商品の代弁をしてやるか、商品に紙片をはりつけてやるかして、その価格を外界に知らせねばならない。金における商品価値の表現は、観念的なものであるから、この表現を実際に行なうためには、また観念的の、または理念としての金が用いられればいいのである。どんな商品番人も、自分が商品の価値に価格の形態を、または観念となった金形態を与えても、まだ決して彼の商品を金に化しているのではないということ、そして金で幾百万の商品価値を評価するためには、一片の現実の金をも必要としないということを、知っている。したがって貨幣は、その価値尺度の機能においては、―ただ観念となった貨幣、または理念的の貨幣としてのみ用いられる。この事情は、きわめて馬鹿げた理論を考え出させるにいたった。観念となった貨幣のみが価値尺度の機能に用いられるとしても、価格は全く実在的な貨幣材料に依存しているのである。価値、すなわち、例えば1トンの鉄の中に含まれている人間労働の一定量は、同一量の労働を含んでいる一定の観念化された貨幣商品の量の中に表現される。したがって、金、銀または銅が、価値尺度として用いられるにしたがって、それぞれ1トンの鉄の価値は、全くちがった価格表現を受ける。いいかえれば、全くちがった量の金、銀または銅で表わされる。
6. したがって、例えば金および銀なる二つのちがった商品が、同時に価値尺度として用いられるとすれば、すべての商品は二つのちがった価格表現をもつことになる。金価格と銀価格であって、銀の金にたいする価値比率が不変であつて、例えば1対15であるかぎり、これは悠々と並んで行なわれる。だが、この価値比率が少しでも変化すると、商品の金価格と銀価格の比率は撹乱される。このようにして価値尺度の二重化が、その機能に矛盾することは、事実の上で立証される。
7. 価格のさだまった商品は、すべてA商品a量=金x量、B商品b量=金z量、C商品c量=金y量 等々の形態で表示される。このばあい、a、b、cは商品種A、B、Cの一定量を、x、z、yは金の一定量を表わすのである。したがって、商品価値は各種の大いさの観念化された金量に転化される。だから、商品体の種類は雑多であるが、同一名目の大いさ、すなわち、金の大いさに表わされる。それらの商品価値は、このような各種の金量として、相互に比較され、測定される。そして技術的に、これらの価値を、尺度単位としての一つの固定した量目の金にたいして、関係させようとする必然性が展開してくる。この尺度単位自身は、さらに各可除部分に分割されて、尺度標準に発展する。金や銀や銅は、貨幣となる以前に、すでにその金属重量で、このような尺度標準をもっている。こうして、例えば1ポンドが尺度単位として用いられ、一方には、さらに小分されてオンス等になり、他方では加算されてツェッントネル等になるのである。したがって、すべての金属流通においては、既存の重量尺度標準の名称が、貨幣尺度標準、すなわち、価格の尺度標準の最初の名称ともなっている。
8. 価値の尺度として、また価格の尺度標準として、貨幣は二つの全くちがった機能を行なう。貨幣は、人間労働の社会的化身として、価値の尺度である。確定した金属重量としては、価格の尺度標準である。貨幣は、価値尺度としては、雑多にちがっている商品の価値を価格に、すなわち、観念化された金量に転化するために用いられる。価格の尺度標準としては、貨幣はこの金量を測るのである。価値の尺度において、商品は価値として測られ、これに反して、価格の尺度標準は、金量を一定の金量で測るのであって、ある金量の価値を他のそれの重量で測るのではない。価格の尺度標準にとっては、一定の金の重量が尺度単位として固定されなければならない。ここでは、他のすべての同名目の大いさの尺度を定める場合のように、尺度比率の固定ということが必ずなされなければならぬものになる。したがって、価格の尺度標準は、同一量の金が、尺度単位として変わることなく用いられるほど、その機能をよりよく充たす。価値の尺度として金が用いられうるのは、ひとえに金そのものが、労働生産物であり、したがって、可能性の上から、可変的な価値であるからである。
9. まず第一に明らかなことは、金の価値変動は、価格の尺度標準としてのその機能を、決して妨げるものではないということである。金価値がどんなに変化しても、種々の金量は、つねにお互いに同じ価値比率を保っている。金価値が1000%だけ低下しても、依然として、12オンスの金は1オンスの金より、12倍だけ多くの価値をもっているであろう。そして価格においては、各種の金量相互間の比率のみが問題なのである。他方において1オンスの金は、その価値の低落または騰貴とともに、その重量を変ずるものではないのであるから、同じようにその可除部分のそれも変化しない。このようにまた金は、価格の固定した尺度標準としては、この価値がどんなに変化しようと、つねに同一の役割を果たしている。
10. 金の価値変化は、また価値尺度としてのその機能を妨げるものではない。 それはすべての商品に同時に影響し、したがってcaeteris paribus
(他の事情にして同一であるならば)、それら商品相互の間の相対的価値は不変のままである。もちろんこれらの価値は、いまやすべて以前よりはより高い、またはより低い金価格で表現されるのではあるが。
11. ある商品の価値を何か他のある商品の使用価値で表示するばあいのように、諸商品を金で評価するばあいでも、与えられたる時において、一定の金量の生産は、ある与えられた量の労働を必要とするということが前提されているだけである。商品価格一般の運動にかんして、以前に展開された単純な相対的価値表現の諸法則はあてはまる。
12. 商品の価格は、貨幣価値が変化しないときは、ただ商品価値が昂騰するばあいにのみ、商品価値が変化しないときは、ただ貨幣価値が低落するばあいにのみ、一般的に騰貴しうる。逆に、同品の価格は、貨幣価値が変化しないときは、ただ商品価値の低落するばあいにのみ、商品価値が変化しないときは ただ貨幣価値が昂騰するばあいにのみ、一般的に低下しうる。したがって、決して貨幣価値の昂騰が、かならずこれに比例する商品価格の低落をもたらし、貨幣価値の低落が、かならず商品価格の、これに比例する昂騰をもたらすということにならない。このことはただ価値の変化しない商品にたいしてだけ当てはまる。このような商品、例えばその価値が貨幣価値と等しい割合で同時に昂騰する諸商品は、同一価格を保つ。その価値が貨幣価値より徐々にまたは急激に昂騰するならば、それらの価格の低落または昂騰は、それらの価値運動と貨幣のそれとの間の差異によって規定される。等々。
13. さてわれわれは価格形態の考察に帰ろう。
14. 金属重量の貨幣名は、次第にその最初の重量名から分離する。いろいろの理由からであるが、そのうちで歴史的に決定的なのは、(1)発展の程度の低い諸民族では他民族の貨幣がはいってくる。例えば、古代ローマにおいて、銀貨と金貨が、最初は外国商品として流通したようなものである。この外国貨幣の名称は、国内の重量名とは異っている。(2)富の発展とともに、より低い貴金属は、より高いそれによって価値尺度の機能から追われる。銅は銀によって、銀は金によって。いかにも、この順序はすべての詩的年代記とは矛盾しているが。そこで、ポンドは、例えば実際の銀1封度にたいする貨幣名であった。金が銀を価値尺度として駆逐すると、同一名称が、恐らくは1/15ポンド等々というように、金と銀との価値比率にしたがって、金に付着する。貨幣名としてのポンドと、金の通常の重量名としてのそれは、いまや分離される(注57)。(3)幾世紀にもわたって継続された諸侯の貨幣貶質(へんしつ)。このために鋳貨の最初の重量から、事実上ただ名称だけがのこった。
(57) 第2版への注。このようにして、イングランドのポンドの示すものは、その最初の重量の1/3より少ない。スコットランドのポンドは、合体前にはわずかに1/36、フランスのリーヴルは1/74、スペインのマラベーディは1/1000より少ない。ポルトガルのレーは、もっとはるかに小さな割合である。
15 このような歴史的過程によって、金属重量の貨幣名が、その通常の重量名より分離してしまうことは、民族的慣習になってくる。貨幣尺度標準は、一方で純粋に伝承的のものであり、他方では一般的に通用することを必要とするのであるから、ついには法的に規制される。貴金属の一定の重量部分、例えば1オンスの金は、公的に可除部分に分割され、法的な名称を受ける。ポンド、ターレル等というようなものである。このような可除部分は、こうして貨幣の本来の尺度単位として行なわれるのであるが、さらに他の可除部分に小分割されて、法的名称を得る。シリング、ペニー等々のように。依然として一定の金属重量が、金属貨幣の尺度標準である。変わったのは、分割と命名である。
16. 価格、または商品の価値が観念的に転化している金定量は、このようにしていまや貨幣名、または法的に通用する金尺度標準の計算名で表現される。したがって、1クォーターの小麦は、1オンスの金に等しいというかわりに、イギリスでは、それは3ポンド・スターリング17シリング10ペンス1/2に等しいと言われるであろう。商品は、このようにしてその貨幣名をもって、どれだけの価値があるかということを示すのである。そして、ある物財が価値として、したがって貨幣形態で一定されるということが必要となるごとに、貨幣は計算貨幣として用いられる。
17. 一物財の名称は、その性質にとっては全く外的のものである。私は、かりにある人がヤコブスということを知っても、その人間についてなんら知ることにはならない。これと同様に、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカート等々の貨幣名において、価値関係のあらゆる痕跡は消えている。このような秘教的な標章の秘義にかんする混乱は、貨幣名が商品の価値を、そして同時に、ある金属重量の、すなわち、貨幣尺度標準の可除部分を表現するだけに、ますます大きくなっている。他方において、価値が商品世界の雑多な物体から区別されて、このような分りにくい物財的な、しかしまた単純に社会的な形態に発展するということは、必然的である。
18. 価格は商品に対象化されている労働の貨幣名である。商品と、みずからの名を商品の価格としている貨幣定量とが、等価であるということは、したがって、同じ言葉の反復である。ちょうどそれは一般に1商品の相対的価値表現が、つねに2商品の等価たることの表現であるというのと同様である。しかしながら、価格が商品の価値の大いさの指数として、その貨幣との交換比率の指数であるとしても、逆に、商品の貨幣との交換比率の指数は、必然的にその価値の大いさの指数であるという結論にはならない。同一大いさの社会的に必要な労働は、1クォーターの小麦や2ポンド・スターリング(約1/2オンス金)に表示されるとしよう。そこで2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値の大いさの貨幣表現であり、すなわちその価格である。事情がこの価格を、3ポンド・スターリングに引き上げることを許し、またはこれをIポンド・スターリングに引き下げざるを得ざらしめるとすれば、1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングは、小麦の価値の大いさの表現としては、小にすぎまたは大にすぎる。しかし、それらはたしかに小麦の価格である。なぜかというに、第一にそれは小麦の価値形態で、貨幣である。そして第二にその貨幣との交換比率の指数であるからである。労働の生産諸条件が同一であり、労働の生産力に変化がなければ、依然として1クォーターの小麦の再生産には、同一量の社会的労働時間が支出されなければならない。この事態は、小麦生産者の意志にも他の商品所有者の意志にも、よるものではない。したがって、商品の価値の大いさは、一つの必然的な、その形成過程に内在している社会的労働時間にたいする関係を、表現している。価値の大いさが価格に転化するとともに、この必然的な関係は、一商品の、その外部にある貨幣商品との交換比率として現われる。しかし、この比率では、商品の価値の大いさも、商品が与えられた事情のもとで手ばなされる大小も、表現せられうる。価格と価値の大いさとの量的な不一致の可能性、すなわち価値の大いさに対する価格偏差の可能性は、かくて、価格形態そのものの中にある。このことは少しもこの形態の欠陥ではなく、逆にこれを一生産様式によく当てはまる形態にするのである。この生産様式では、規律は、もっぱら無規律性の盲目的に作用する平均法則としてのみ、貫かれうるのである。
19. だが、価格形態は、価値の大いさと価格との、すなわち、価値の大いさとそれ自身の貨幣表現との間の、量的不一致の可能性をもたらすのみならず、一つの質的矛盾をも生ぜしめうるのである。つまり、そのために、貨幣は商品の価値形態であるにほかならないのに、価格が一般に価値表現たることをやめることにもなる。それ自体としてなんら商品でない物、例えば良心、名誉等々も、その所有者は貨幣にたいして売ることができるし、かくてまた、これらのものがその価格によって、商品形態を得ることができる。したがって、ある物は価値をもたないでも、形式的に一つの価格をもつことができる。価格表現はここでは、ちょうど数学におけるある量〔虚数:die
imaginäre Zahl〕のように、想像的のものとなる。他方において、例えば、すこしの人間労働もその中に対象化されていたいために、なんら価値をもたない未耕地の価格のような想像的な価格形態も、現実的な価値関係、またはそれから派生した結びつきを隠していることがある。
20. 相対的な価値形態一般と同じように、価格は一商品、例えばIトンの鉄の価値を、次のようにして表現する、すなわち、一定量の等価、例えば1オンスの金が、直接に鉄と交換されうるということによってである。しかし、決して逆に、鉄の方が直接に金と交換されうるということによって、表現するのではない。したがって、実際に一つの交換価値の作用をなしうるために、商品はその自然的な肉体をぬぎ去らなければならない。すなわち、観念的な金であるにすぎないものから、現実の金に転化されなければならない。もちろん、商品にとってこのような化体は、へーゲルの「概念」にとって、必然から自由への移行や、ざりがににとって、その甲殻の破壊や、あるいは教父ヒエロニムスにとって、おのれの罪を脱ぎ捨てることよりも、少し「骨の折れる」ことかも知れない。例えば、鉄というその実在的な姿のほかに、商品は価格という観念的な価値の姿、または観念化された金の姿をもつことができる。しかし、商品は同時に現実的に鉄であって、また現実的に金であるということはできない。その価格を提示するには、観念化された金をこれに等しいと置けば足りる。その所有者にたいして、一般的等価の役目を果たすためには、商品は、金によって代置されなければならない。鉄の所有者が、例えば、現世快楽的商品の所有者に相対するとすれば、そして貨幣形態であるところの鉄価格を指して、これで貨幣になったと言ったとすれば、この現世快楽者は、天国でペテロが、自分の前に信仰個条を読唱したダンテにたいして答えたように答えるであろう。
「究めつくされたり、これら鋳貨の品位と重さは。 だが、語れ、汝がこれを汝の財布の中にもっているかを」 〔ダンテ『神曲』第3篇、第24歌、83―85。カウツキー版による。……訳者〕。
21. 価格形態は、諸商品の貨幣にたいする売り渡し可能性と、かかる売り渡しの必然性を包含している。他方において金は、すでに交換過程で貨幣商品として歩き廻っているからこそ、観念的価値尺度として機能するのである。したがって、価値の観念的な尺度の中に、硬い貨幣が待ち伏せているのである。
・以上、第3章貨幣または商品流通 第1節価値の尺度 終わり・・・
→ 第2節 流通手段 a 商品の変態