文献資料 『資本論』第2版第1巻
向坂逸郎訳 岩波書店1969年発行
資本論用語事典2021
価値表現と価値方程式
■抄録
諸商品の価値関係―価値表現と価値方程式
―価値形態または交換価値― 連立方程式を読み解く
■基本用語
価値関係 Wertverhältnis 価値表現 Wertausdruck 価値形態/価値形式 Wertform
価値方程式 Wertgleichung 方程式の基礎 die Grundlage der Gleichung
等価形態 →量的比例と方程式2021.01.10
方程式の分析を通じて価値を導き出す-
表現方式 Ausdrucksweise と数式の仕方(方式)
表現する:ausdrücken, 換算する,
cf. ユーロに換算するといくらになりますか
Wie viel macht das in Euro ausgedrückt ?
(Im Wertverhältnis der Ware A zur Ware B,)
Wertverhältnis der Waren
諸商品の価値関係 Wertverhältnis der Waren
価値表現 Wertausdruck と 価値方程式 Wertgleichung
―価値形態または交換過程― Die Wertform oder der Tauschwert
資本論ワールド 編集部
目次
1. A. 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
1. B. 総体的または拡大せる価値形態
2. C. 一般的価値形態
3. D. 貨幣形態
4. 第3章 貨幣または商品流通
『資本論』第2版後書き
「第1章第1節で、一切の交換価値が表現される方程式の分析を通じて価値を導き出すことは、科学的にずっと厳密にやっておいた。 同じく、第1版で示唆を与えただけにとどまっていた価値実体と社会的に必要なる労働時間による価値の大いさの規定との間の関連は、はっきり強調しておいた。・・・・」
........... ...........
■▯諸商品の価値関係 Wertverhältnis―
価値表現 Wertausdruck / 価値方程式 Wertgleichung
第1節 商品の2要素 使用価値と価値 (価値実体、価値の大いさ)
〔交換価値は内在物の表現方式〕
1-6 一定の商品、1クォーターの小麦は、 例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は
、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z
量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換 価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一
物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の 表現方式 〔Ausdrucksweise:表現の仕方〕、すなわち、その「現象形態〔 "Erscheinungsform"〔現象の形式〕」でありうるにすぎない。
1-7 さらにわれわれは二つの商品、 例えば小麦と鉄をとろう。その交換価値がどうであれ、 この関係〔Austauschverhältnis:交換関係〕はつねに一つの 方程式〔Gleichung〕 に表わすことができる。
そこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。
こ の方程式は何を物語るか?
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである 〔共通なもの-数学:方程式の“未知数概念”〕。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身 としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こ
うして、この第三のものに整約しうるのでなければならない〔数学的に“連立方程式を解いてゆくことになる”〕。
(3-1 商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の生まれたままの自然形態である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの、すなわち使用対象であると同時に価値保有者であるからである。したがって、これらのものは、二重形態、すなわち自然形態と価値形態をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。)
〔商品の価値関係と価値表現〕
3-3 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品Warenは、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態/価値形式をもっているということである。―すなわち、貨幣形態/形式である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態/形式に発展していったかを追求する〔連立方程式を解く〕ということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。
3-4 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
〔 価値表現と価値形態 〕
1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態
3-8 ここでは、2種の異なった商品 AとB、われわれの例でいえば、亜麻布と上衣とは、明白に二つのちがった役割を演じている。亜麻布はその価値を上衣で表現している。上衣はこの価値表現の材料の役をつとめている。第一の商品は能動的の役割を演じ、第二の商品は受動的のそれを演じている。第一の商品の価値は、相対的価値として表わされている。いいかえると、第一の商品は相対的価値形態にあるのである。第二の商品は等価として機能している。すなわち等価形態にあるのである。
3-9 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布20エレ
= 亜麻布20エレというのは、なんら価値表現とはならない。方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20エレの亜麻布は、20エレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品が、自分にたいして等価形態にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みすから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。
〔亜麻布20エレ=上衣1着ー 価値表現 〕
3-10 むろん、亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上衣に値するという表現は、上衣1着=亜麻布20エレ または1着の上着は20エレの亜麻布に値するという逆関係をも今んではいる。しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。
3-11 それで、ある商品が相対的価値形態にあるか、これに相対立する等価形態にあるかということは、もっぱら価値表現におけるその時々の位置にかかっているのである。ということは、ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっているということである。
3-12
2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実
〔一商品の価値表現と二つの商品の価値関係〕
1. どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にふくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである(17)。
2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または =20着 または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位derselben
Einheit,の表現であり、同一性質の物Dinge von derselben Naturであるということを含んでいる。亜麻布=上衣ということは、方程式の基礎である。Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung。〔Grundlage :方程式の原理〕
0エレ=上衣1着.
5. 例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。この迂給を通って初めてこういわれるのである。機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。ただおのおのちがった商品の等価表現 Äquivalenzausdruck のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。
〔価値表現〕
10. 商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上衣と交わるようになるやいなや、自身で、申し述べることがわかる。ただ、亜麻布は、その思いを自分だけにずる言葉、すなわち商品の言葉でもらすだけである。人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することをいうために、亜麻布は、上衣が、亜麻布に等しいとされ、したがって価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っているという風に言うのである。亜麻布の森厳なる価値対象性が、そのゴワゴワした布の肉体とちがっているというために、亜麻布は、価値が上衣に見え、したがって、亜麻布自身が価値物としては、卵が他の卵に等しいと同じように、上衣に等しいという風に言うのである。ついでに述べておくと、商品の言葉も、ヘブライ語でほかに、なお多くの多少正確さのちがったいろいろの方言をもっている。ドイツ語の„Wertsein“〔価値あり〕という言葉は、例えば、ローマン語の動詞
valere, valer, valoir 〔上から順次にイタリア語・スペイン語・フランス語。……訳者〕 ほどにはっきりと、商品Bを商品Aと等置することが、商品A自身の価値表現であるということを表現しない。パリは確かにミサに値する!(Paris vant bien une messe !)〔アンリ4世はパリを支配下において王位につくために、新教から旧教に改宗した。そのとき右の言葉を発したといわれている。……訳者〕。
〔 価値関係ー価値形態ー価値表現 〕
11. したがって、価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品Aの価値の価値形態となる。あるいは商品Bの肉体は、商品Aの価値かがみとなる(18)。商品Aが商品Bを価値体として、すなわち、人間労働の体化物として、これに関係することにより、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。
3 等価形態 ー商品物神性の基礎形式ー
(1. われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態〔価値の形式〕、すなわち、等価の形態〔等価の形式〕を押しつけるということである。亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。 一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。)
2. もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合も、与えられているというわけではない。この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。
上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それとも逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。
その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物の一定量として現われるだけである。
3. 例えば、40エレの亜麻布は、一体何に「値する」のか?二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。したがって、二着の上衣は、40エレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上衣の価値の大いさを表現することはできないのである。
等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち、一使用価値の単に一定量の形態をもっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者の多くとともに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。一商品の等価形態は、むしろなんらの量的価値規定をも含んでいないのである。
6. このことを明らかにするために、商品体としての、すなわち、使用価値としての商品体に用いられるをつねとする度量衡の例を見よう。一つの砂糖塊は、物体であるから、重い。したがって重量をもっている。しかしながら、人は、砂糖塊をなでてさすっても、その重量を見つけることはできない。そこでわれわれは、あらかじめ重量の定められている種々なる鉄片を取り出すのである。
鉄の物体形態も、砂糖塊のそれも、それだけを見れば、ともに、重さの現象形態ではない。だが、砂糖塊を重さとして表現するためには、われわれは、これを鉄との重量関係におく。この関係においては、鉄は、重さ以外の何ものをも示さない一物体となっている。
従って、鉄量は砂糖の重量尺度として用いられ、砂糖体にたいして単なる重量態容、すなわち、重さの現象形態を代表する。鉄がこの役割を演ずるのは、ただこの関係の内部においてのみであって、この関係の内部で、砂糖は、あるいは重量を測ろうという他のどんな物体でも、鉄と相対するのである。両物が重さをもっていなければ、これらの物は、この関係にはいりえないであろうし、したがって、一物は他物の重量の表現として役立つことはできないであろう。われわれは、両者を秤皿(はかりざら)に投ずるならば、実際にこれらの二物が重さとして同一なるものであり、したがって、一定の割合において同一重量のものでもあるということを知るのである。鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊にたいして、ただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては、上衣体は、亜麻布にたいして、ただ価値を代表するだけである。
7. だが、ここで比喩は終わるのである。鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、すなわち、それらの重さを代表したのであるが、――他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、すなわち、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なものを、代表しているのである。
8. 一商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値たることを、何かその物体と物体の属性とから全く区別されたものとして、例えば、上衣に等しいものとして、表現しているのであるが、この表現自身が、一つの社会関係を内にかくしていることを示唆している。等価形態では逆になる。等価形態であるゆえんは、まさに、一商品体、例えば上衣が、あるがままのものとして価値を表現し、したがって、自然のままのものとして、価値形態をもっているということの中にあるのである。このことは、もちろんただ亜麻布商品が、等価としての上衣商品にたいして関係させられた価値関係の内部においてだけ、妥当することなのである。 しかし、一物の属性は、他物にたいするその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣もその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然にもっているかのように、それはちょうど、重いとか温いとかいう属性と同じもののように見える。
このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、はじめてブルジョア的に粗雑(そざつ)な彼の眼を驚かすようになる。そうなると彼は、金や銀の神秘的な性格を明らかにしようとして、これらのものを光り輝くことのもっと少ない商品にすりかえて、いつもたのしげに、すべて下賤な商品で、その時々に商品等価の役割を演じたものの目録を、述べ立てるのである。彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というようなもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くようにあたえられていることを、想像してもみないのである。
9. 等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をもつくる〔ドイツには「着物は人をつくる」という諺がある。訳者〕ということにあるのでなく、次のような一つの物体をつくるところにあるのである。
10. 裁縫の形態でも、機織の形態でも、人間労働力は支出されるのである。したがって、両者は、人間労働の一般的な属性をもっている。そしてこのために一定のばあいには、例えば、価値生産においては、ただこの観点からだけ考察すればいいのである。すべてこれらのことは、神秘的なことではない。しかし、商品の価値表現においては、事柄は歪(ゆが)められる。
例えば、機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてのその一般的な属性おいて、亜麻布価値を形成するということを表現するために、機織にたいして、裁縫が、すなわち亜麻布等価物を作りだす具体的労働が、抽象的に人間的な労働の摑(つか)みうべき実現形態として、対置されるのである。
14. 〔アリストテレスと価値概念〕
商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。
「しとね〔寝台〕5個=家1軒」〔ギリシャ語省略〕
ということは
「しとね〔寝台〕5個=貨幣一定額」〔ギリシャ語省略〕
ということと「少しも区別はない」と。
15. 彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家がしとねに質的に等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような本質の等一性 Gleichheitなくしては、通約しうる大いさとして相互に関係しえないであろうということとを、条件にしているというのである。彼はこう述べている。「交換は等一性Gleichheitなくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」〔ギリシャ語省略〕と。しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。
「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」〔ギリシャ語省略〕。この等置は、物の真の性質に無関係なものでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。
16. アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如(けつじょ)についてすら、述べているわけである。等一なるものは何か?すなわち、しとね〔寝台〕の価値表現において、家がしとね〔寝台〕に対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。
なぜか?家はしとね〔寝台〕にたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとね〔寝台〕と家という二つの物で現実に同一なるものをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが――人間労働なのである。
17. しかしながら、商品価値の形態〔形式〕においては、すべての労働が等一なる人間労働として、したがって等一的に作用しているものとして表現されているということを、アリストテレスは、価値形態自身から読み取ることができなかった。というのは、ギリシア社会は奴隷労働にもとづいており、したがって、人間とその労働力の不等を自然的基礎としていたのであるからである。価値表現の秘密、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。しかしながら、このことは、商品形態〔Warenform:商品の形式〕が労働生産物の一般的形態〔die allgemeine Form:普遍的な形式〕 であり、しがってまた商品所有者としての人間相互の関係が、支配的な社会的関係であるような社会になって、はじめて可能である。
アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係 Gleichheitsverhältnis を発見しているということに輝いている。 ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げとなって、一体「真実には」この等一関係は、どこにあるかを見いだせなかったのである。
4 単純な価値形態の総体
2. われわれの分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるもので、逆に価値や価値の大いさが、交換価値としてのその表現様式から出てへるものではない。だが、このことは、重商学派とフェリエやガニール(22)等のような、その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるとともに、またその対立者であるバスティアとその一派のような、近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。重商学派は重点を、価値表現の質的側面に、したがって、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている。―これに反して、近代自由貿易外交員たちは、その商品を、どんなにしても売り払わなければならないので、重点を相対的価値形態の量的側面においている。したがって、彼らにとっては商品の価値も価値の大いさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。スコットランド人のマクラウドは、ロンバート・ストリートのもうろうたる観念を、できるだけ博学にめかし立てることを仕事にしているが、迷信的な重商学派と啓蒙された自由貿易外交員との間をうまくまとめている。
3. 商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態または価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。それゆえに、商品の中に包みこまれている使用価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち、二つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現されるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をもって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、この商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。
6. なんらかの一商品Bにおける表現は、商品Aの価値を、ただそれ自身の使用価値から区別するのみであって、したがって、この商品を、ただそれ自身とちがった個々の商品種の何かにたいする交換関係に置くのみであって、他の一切の商品との質的等一性qualitative Gleichheit と量的比率とを示すものではないのである。ある商品の単純なる相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態〔 Äquivalentform 当量形式, chemisches Äquivalent 化学当量。〕が対応している。だから、上衣は亜麻布の相対的価値表現においては、この個々の商品種たる亜麻布と関連して、等価形態、または直接的交換可能性の形態を有するのみである*。
〔*編集部注:「元素と周期律・表」を参照〕
7. だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類のものか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでもよいのである。したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとも他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する(22a)。それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである*。
〔*編集部注:したがって、価値表現の形式である x量商品A=y量商品B は、「価値等式」が誤りで、「価値方程式」と理解しなければならない。→「価値方程式の源流」参照〕
B 総体的または拡大せる価値形態
2 特別な等価形態
上衣、茶、小麦、鉄等々というような商品は、それぞれ亜麻布の価値表現においては、等価として、したがってまた価値体として働いている。これらの商品のおのおのの特定なる自然形態は、いまでは多くの他の商品とならんで、一つの特別な等価形態である。同じように、各種の商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の労働種は、いまではそれと同じ数だけ、無差別の人間労働を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている。
3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
1. 第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にもってはいるか、なんら統一的の現象形態をもたない。
2. だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば
亜麻布20エレ=上衣1着
亜麻布20エレ=茶10ポンド 等々
3. これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしても同じ方程式である、
上衣1着=亜麻布20エレ
茶10ポンド=亜麻布20エレ 等々
C 一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
2. 第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。
第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。
4. 先の二つの形態は、商品の価値を唯一の異種の商品をもってするばあいと、この商品と異なる多くの商品の序列をもってするばあいとの違いはあるが、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合ともに、価値形態を与えられるのは、個々の商品のいわば私事である。そして個々の商品は他の商品の協力なしに、このことをなすのである。他の諸商品は、先の一商品にたいして等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである。これに反して一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのは、ただ、同時に他のすべての商品がその価値を同一等価で表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品種は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないということである。
2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
1. 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応ずる。しかしながら、そしてこのことはよく銘記されなければならぬのであるが、等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるにすぎない。
2. ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的な等価にする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価の形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種が一般的等価形態を得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの統一的一般的な価値形態の材料にするからである。
3. しかしながら、価値形態一般が発展すると同じ程度で、その二つの極たる相対的価値形態と等価形態の間の対立もまた発展する。
4. すでに第一の形態―亜麻布20エレ=上衣1着―がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じように、あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。
5. 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をもっているにすぎないのである。このばあいにおいては、もはや価値方程式―亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =小麦1クォーター等々―の両項を移し換えると、その総性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。
6. 最後の形態である第三形態は、ついに商品世界にたいして一般的社会的な相対的価値形態を与える、それは、唯一の例外を除いて、この世界に属するすべての商品が一般的等価形態から排除されるからであり、またそのかぎりにおいてである。ある商品、すなわち亜麻布は、したがって、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、あるいは直接的に社会的な形態にある。というのは、他の一切の商品がこの形態をとっていないからであり、また、そのかぎりにおいてである(24)。
7. 逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除される。亜麻布が、すなわち、一般的等価形態にあるなんらかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態にもなるとすれば、その商品は、自分自身にたいして等価としてつかえるということにならなければなるまい。そうすると、われわれは、亜麻布20エレ=亜麻布20エレという式を得ることになる。これは内容のない繰り返しであって、そこには価値も価値の大いさも表現されてはいない。一般的等価の相対的価値を表現するためには、われわれはむしろ第三形態を引っくり返さなければならない。一般的等価は、他の商品と共同の相対的価値形態をもってはいないのであって、その価値は、すべての他の商品体の無限の序列の中に相対的に表現されるのである。このようにして、いまでは拡大せる相対的の価値形態または第二形態は、等価商品の特殊的な相対的価値形態として現われる。
D 貨幣形態
2. 金が他の商品にたいして貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、それらにたいして商品
として相対したからである。すべての他の商品と同じように、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうと、それは貨幣商品となる。そして金がすでに貨幣商品となった瞬闇に、やっと第4形態が第3形態と区別される。いい換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される。
3. すでに貨幣商品として機能する商品、例えば金における、一商品、例えば金における、一商品、例えば亜麻布の、単純な相対的価値表現は価格形態である。亜麻布の「価格形態」はしたがって、
亜麻布20エレ=金2オンス
または、もし2オンスの金の鋳貨名が、2ポンド・スターリングであるならば、
亜麻布20エレ=2ポンド・スターリング
である。
4. 貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第3形態の理解に限られている。第3形態は、関係を逆にして第2形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成的要素〔konstituierendes
Element:構成する成素〕は第1形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量である。したがって、単純なる商品形態〔すなわち、A商品x量=B商品y量〕は貨幣形態の萌芽〔Keim:胚、胚芽〕である。
第3章 貨幣または商品流通
第1節 価値の尺度
(1. 私は説明を簡略にするために、この著作では何処でも、金が貨幣商品であると前提する。
金の第一の機能は、商品世界にたいして、その価値表現の材料を供し、または商品価値を同分母をもつ大いさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大いさとして、表示することにある。こうして、金は価値の一般的尺度として機能し、この機能によってはじめて金という特殊的な等価商品が、まず貨幣となる。
諸商品は貨幣によって通約しうべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である(50)。)
2. ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。
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『資本論』第1篇商品と貨幣
第1章 商 品
第1節 商品の2要素 使用価値と価値
(価値実体、価値の大いさ)
第2節 商品に表わされた労働の二重性
第3節 価値形態または交換価値
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
1 価値表現の両極、すなわち相対的価値形態と等価形態
2 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実
b 相対的価値形態の量的規定性
3 等価形態 ー商品物神性の基礎形式ー
4 単純な価値形態の総体
B 総体的または拡大された価値形態
1 拡大された相対的価値形態
2 特別な等価形態
3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
C 一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格
2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態 ............
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********第1章 価値表現 終わり******
以下メモ帳
2▯ *方程式の基礎
2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または =20着 または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位derselben Einheit,の表現であり、同一性質の物Dinge von derselben Naturであるということを含んでいる。亜麻布=上衣ということは、方程式の基礎である。Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.
*価値抽象
*価値関係
*価値性格
4. 価値としては、商品は人間労働の単なる凝結物であると、われわれがいうとすれば、われわれの分析は、これらの商品を価値抽象 Wertabstraktion
に整約するのではあるが、これらの商品に、その自然形態とちがった価値形態を与えるものではない。一商品の他のそれにたいする価値関係においては、ことはちがってくる。その価値性格は、この場合には、それ自身の他の商品にたいする関係によって現われてくる。
*商品の等価表現 Äquivalenzausdruck
*価値形成労働の特殊性格
5. 例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。さて上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、機織に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである。この迂給を通って初めてこういわれるのである。機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいしてなんらの識別徴表をもっていない、すなわち、抽象的に人間的な労働であるというのである。ただおのおのちがった商品の等価表現 Äquivalenzausdruck のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち、人間労働一般に整約して、価値形成労働の特殊性格を現出させる。
*価値対象性"Gegenständlichkeit"
*人間労働の凝結物
6. だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、 すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは凝結した状態でin
geronnenem Zustand,、すなわち、対象的な形態でin gegenständlicher Form価値となる。人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「対象性"Gegenständlichkeit"」として表現されなければならぬ。課題はすでに解決されている。
*亜麻布の価値関係
7. 亜麻布の価値関係において、上衣はこれと質的に等しいものqualitativ Gleichesとして、すなわち、同一性質の物とみなされる。というのは、上衣は価値であるからである。したがって、上衣はここでは価値の現われるerscheint物として、またはその掴みうる自然形態で、価値を表示している物となされている。ところが上衣、すなわち、上衣商品の肉体Körper der Rockwareは、たしかに単なる使用価値ではあるが、しかし、ある上衣をとって見ると、任意の一片の亜財布と同じように、価値を表現するものではない。このことは、ただ次のことを立証するだけである。すなわち、上衣が亜麻布にたいする価値関係の内部においては、その外部におけるより多くを意味すること、あたかも多くの人間が笹縁(ささべり)をつけた上衣の内部においては、その外部におけるより多くを意味するようなものであるというのである。
*上衣が亜麻布の等価をなす価値関係
*上衣との同一性 Gleichheit
9. 上衣が亜麻布の等価をなす価値関係においては、このように、上衣形態は、価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は、したがって、上衣なる商品の肉体で表現される。一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては、亜麻布は上衣とは感覚的にちがった物である。価値としては、それは「上衣に等しいもの」であって、したがって、上衣に見えるのである。このようにして、亜麻布は、その自然形態とはちがった価値形態を得る。その価値たることが、上衣との同一性
Gleichheit に現われること、ちょうどキリスト者の羊的性質が、その神の仔羊との同一性に現われるようなものである。
*商品Aの価値かがみ
*人間労働の体化物
*価値表現の材料
11. したがって、価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品Aの価値の価値形態となる。あるいは商品Bの肉体は、商品Aの価値かがみとなる(18)。商品Aが商品Bを価値体として、すなわち、人間労働の体化物として、これに関係することにより、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである。
3▯価値方程式 Wertgleichung
3 等価形態
(1. われわれはこういうことを知った、すなわち、商品A(亜麻布)が、その価値を異種の商品B(上衣)という使用価値に表現することによって、Aなる商品は、Bなる商品自身にたいして独特な価値形態〔価値の形式〕、すなわち、等価の形態〔等価の形式〕を押しつけるということである。亜麻布商品は、それ自身の価値たることをば、次のことによって現わしてくる、すなわち、自分にたいして上衣が、その肉体形態とことなった価値形態をとることなくして、等しいものとして置かれるということである。このようにして、亜麻布は自分自身価値であることを、実際には上衣が直接に自分と交換しうるものであるということをつうじて、表現するのである。 一商品の等価形態は、それゆえに、この商品の他の商品にたいする直接的な交換可能性の形態である。)
3-2. もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品種にたいして、等価として用いられるとしても、したがって、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、決して上衣と亜麻布とが交換されうる割合も、与えられているというわけではない。この割合は、亜麻布の価値の大いさが与えられているから、上衣の価値の大いさにかかっている。
上衣が等価として表現され、亜麻布が相対的価値として表現されるか、それとも逆に亜麻布が等価として表現され、上衣が相対的価値として表現されるか、そのいずれにしても、上衣の価値の大いさが、その生産に必要な労働時間によって、したがって、その価値形態からは独立して決定されているということには、変わりはない。しかし、上衣なる商品種が、価値表現において等価の地位をとることになると、その価値の大いさは、価値の大いさとしての表現をもたなくなる。
その価値の大いさは、価値方程式において、むしろただ一物の一定量として現われるだけである。
3-3. 例えば、40エレの亜麻布は、一体何に「値する」のか?二着の上衣に。というのは、上衣なる商品種は、ここでは等価の役割を演じているのであり、上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値体とされているのであるから、一定の価値量としての亜麻布を表現するには、一定量の上衣ということで充分である。したがって、二着の上衣は、40エレの亜麻布の価値の大いさを表現することはできるが、決して自分自身の価値の大いさを、すなわち、上衣の価値の大いさを表現することはできないのである。
等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち、一使用価値の単に一定量の形態をもっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者の多くとともに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。一商品の等価形態は、むしろなんらの量的価値規定をも含んでいないのである。
〔4 単純な価値形態の総体 〕
(7. だが、個々の価値形態はおのずから、より完全な形態に移行する。この単純な形態によっては、一商品Aの価値は、ただ一つの他の種の商品に表現されるのではあるが、この第二の商品が、どんな種類のものか、上衣か、鉄か、小麦その他の何か、というようなことは、全くどうでもよいのである。したがって、この商品がある商品種と価値関係にはいるか、それとも他の商品種と価値関係にはいるかによって、それぞれ同一商品のちがった単純な価値表現が成立する(22a)。それらの可能な価値表現の数は、ただそれぞれちがった商品種の数によって制限されるのみである。したがって、その商品の個別的な価値表現は、そのそれぞれちがった単純な価値表現の、いくらでも延長されうる列に転化されるのである*。
〔*編集部注:したがって、価値表現の形式である x量商品A=y量商品B は、「価値等式」が誤りで、「価値方程式」と理解しなければならない。→「価値方程式の源流」参照〕)
B 総体的または拡大せる価値形態
3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
1. 第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が、他のそれを、それからそれとつないでいく連鎖は、引きつづいてつねに、新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たに現われる商品種によって引き延ばされる。第二に、それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしている。最後に、あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるをえないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態とちがった無限の価値表現の序列である。―拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する。すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態とならんで、一つの特別な等価形態であるのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中のおのおのは他を排除するのである。これと同じように、すべての特別な商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、したがって十全でない現象形態である。人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的広がりの中にもってはいるか、なんら統一的の現象形態をもたない。
C 一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格 Veränderter Charakter der Wertform
諸商品は、その価値をいまでは第一に、唯一の商品で示しているのであるから、単純に表わしていることになる。また第二に、同一商品によって示しているのであるから、統一的に表わしていることになる。それら商品の価慎形態は、単純で共同的であり、したがって一般的である。
第一および第二の形態は、二つとも、一商品の価値を、その商品自身の使用価値、またはその商品体から区別したあるものとして表現するために、生じたものにすぎなかった。
第一の形態は、上衣1着 = 亜麻布20エレ、茶10ポンド = 鉄1/2トン 等々というような価値方程式を作り出した。上衣価値は亜麻布に等しいものとして、茶価値は鉄に等しいものとして、というようなふうに表現される。しかしながら、亜麻布に等しいものと鉄に等しいもの、このような上衣および茶の価値表現は、亜麻布と鉄とがちがっているのと同じようにちがっている。この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである。
第二の形態は、第一のそれより完全に、商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する。なぜかというに、例えば上衣の価値は、ここではその自然形態に、あらゆる可能な形態で、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいもの等として、すなわちただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、相対するからである。他方において、ここには商品のあらゆる共通な価値表現は、ただちにできなくされている。なぜかというに、ここでは一商品ごとに価値表現を行なって、すべての他の商品は、ただ等価の形態で現われるにすぎないからである。ある労働生産物、例えば家畜がもはや例外的にでなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである。
2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
5. 第二の形態では、依然としてまだ各商品種ごとに、その相対的価値を全体として拡大しうるのみである。言葉をかえていえば、各商品種自身は、すべての他の商品がこれにたいして等価形態にあるから、そしてそのかぎりにおいて、拡大せる相対的価値形態をもっているにすぎないのである。このばあいにおいては、もはや価値方程式―亜麻布20エレ=上衣1着 または =茶10ポンド または =小麦1クォーター等々―の両項を移し換えると、その総性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまうほかはないことになる。
第3章 貨幣または商品流通
第1節 価値の尺度
(1. 私は説明を簡略にするために、この著作では何処でも、金が貨幣商品であると前提する。
金の第一の機能は、商品世界にたいして、その価値表現の材料を供し、または商品価値を同分母をもつ大いさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大いさとして、表示することにある。こうして、金は価値の一般的尺度として機能し、この機能によってはじめて金という特殊的な等価商品が、まず貨幣となる。
諸商品は貨幣によって通約しうべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態である(50)。)
2. ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。
4▯こ の方程式は何を物語るか?
第1節 商品の2要素 使用価値と価値 (価値実体、価値の大いさ)
1-7 さらにわれわれは二つの商品、*14 例えば小麦と鉄をとろう*。その交換価値がどうであれ、 この関係〔Austauschverhältnis:交換関係〕はつねに一つの*14 方程式Gleichung に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なん らかの量の鉄に等置される。*14 例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。
こ の方程式は何を物語るか?
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身 としては、前の二つのもののいずれでもない。*15 両者のおのおのは、交換価値である限り、こ うして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。〔拡大されることを予知している〕
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
1 価値表現の両極。すなわち、相対的価値形態と等価形態
3-9 相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、または相互に対立する極位である。すなわち、同一価値表現の両極である。この両極は、つねに価値表現が相互に関係しあうちがった商品の上に、配置されるものである。私は、例えば亜麻布の価値を、亜麻布で表現することはできない。亜麻布20エレ
= 亜麻布20エレというのは、なんら価値表現とはならない。方程式はむしろ逆のことをいっている。すなわち、20エレの亜麻布は、20エレの亜麻布にほかならないということ、亜麻布という使用対象の一定量にほかならないということである。したがって、亜麻布の価値はただ相対的にのみ、すなわち、他の商品においてのみ、表現されうるのである。したがって、亜麻布の相対的価値形態は、何らかの他の商品が、自分にたいして等価形態にあるということを予定している。他方において、等価の役を引き受けているこの他の商品は、みすから同時に相対的価値形態にあるというわけにはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである。
3-10 むろん、亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレの亜麻布は1着の上衣に値するという表現は、上衣1着=亜麻布20エレ または1着の上着は20エレの亜麻布に値するという逆関係をも今んではいる。しかしながら、上衣の価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、亜麻布は上衣のかわりに等価となる。したがって、同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除しあうのである。
2 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実
2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または =20着 または =x着となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合にあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位derselben
Einheit,の表現であり、同一性質の物Dinge von derselben Naturであるということを含んでいる。亜麻布=上衣ということは、方程式の基礎である。Leinwand
= Rock ist die Grundlage der Gleichung.
2 相対的価値形態
b 相対的価値形態の量的規定性
2. 亜麻布20エレ=上衣1着 または亜麻布20エレは上衣1着に値する」という方程式は、1着の上衣のなかにまさに20エレの亜麻布の中におけると同じだけの量の価値実体がかくされているということ、両商品量は、したがって、おなじだけの労働が加えられている、または同一大いさの労働時間がかけられているということを前提とする。しかしながら、20エレの亜麻布または1着の上衣の生産に必要なる労働時間は、機織または裁縫の生産力における一切の変化とともに変化する。そこで、価値の大いさの相対的表現に及ぼすこのような変化の影響が、もっと詳細に研究されなければならぬ。
5. I および Ⅱの項における各種のばあいを比較すると、次のような結果が生ずる。すなわち、相対的価値の同一なる量的変化が、全く相反した原因から発生しうるということである。このようにして、亜麻布20エレ=上衣1着という式から、(1)、亜麻布20エレ=上衣2着という方程式が出てくる。それは亜麻布の価値が2倍となったのか、または、上衣の価値が半ばに低下したのかによるのである。さらに、(2)、亜麻布20エレ=上衣1/2着という方程式も出てくる。それは亜麻布の価値が半分に低下したのか、または上衣の価値が2倍にのぼったからである。
B 総体的または拡大せる価値形態
3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
2. だが、拡大された相対的価値形態は、ただ単純な相対的価値表現、または第一形態の諸方程式の総和から成っているだけである。例えば
亜麻布20エレ=上衣1着
亜麻布20エレ=茶10ポンド 等々
3. これらの諸方程式のおのおのは、だが、両項を逆にしても同じ方程式である、
上衣1着=亜麻布20エレ
茶10ポンド=亜麻布20エレ 等々
C 一般的価値形態
1 価値形態の変化した性格 Veränderter Charakter der Wertform
商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化(ようか)としてのはたらきをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、たんに否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。
労働生産物を、無差別な人間労働のたんなる凝結物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである。
C 一般的価値形態
2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
4. すでに第一の形態―亜麻布20エレ=上衣1着―がこの対立を含んでいる。しかしまだ固定してはいない。同じ方程式が順に読まれるか、逆に読まれるかにしたがって、亜麻布と上衣というような両商品極のおのおのが、同じように、あるときは相対的価値形態に、あるときは等価形態にあるのである。このばあいにおいては、なお両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる。
第3章 貨幣または商品流通
第1節 価値の尺度
2. ある商品の金における価値表現―A商品x量=貨幣商品y量―は、その商品の貨幣形態であり、またはその価格である。こうなると、鉄1トン=金2オンスというような個々の方程式は、鉄価値を社会的に通用するように表示するために、充分なものとなる。方程式は、これ以上、他の諸商品の価値方程式と隊伍を組んで行進する必要がない。というのは、等価商品である金は、すでに貨幣の性質をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態は、いまや再びその本源的な、単純な、または個々的な相対的価値形態の姿をとるにいたっている。他方において、拡大された相対的価値表現、または相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的に相対的な価値形態となっている。しかしながら、この列は、いまやすでに商品価格で社会的に与えられている。物価表を逆に読めばいいのだ。そうすれば、可能な、ありとあらゆる商品における貨幣の価値の大いさが、表示されていることを知るのである。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は自分自身にたいして、自分自身の等価として、関係しなければなるまい。
*****方程式、終わり****2021.02.22