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>>商品の変態 02 


10. 商品は貨幣を愛する。が、「まことの恋がおだやかに実を結んだためしはない」〔シェイクスピア『夏の夜の夢』第1幕、第1場、岩波文庫版、38ページ〕ことを、われわれは知っている。


11. 分業体制の中に、その肢体Gliederung(membra disjecta:
〔新日本出版社訳「引き裂かれたる四肢」ホラティウス『風刺詩』より〕)が八方に分岐していることを示している社会的生産有機体の量的構成は、質的なそれと同じように、自然発生的で偶然的である。したがって、わが商品所有者は、彼らを独立の私的生産者となす同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの関係を、彼ら自身から独立のものとしていること、人々相互の独立性が、全般的な物的依存の体制となって補足されているということを、発見するのである。


12. 分業は、労働生産物を商品に転化する。そしてこのことによって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。この分業は同時に、この
化体Transsubstantiationが成就するかどうかを、偶然的のものにする。だが、ここでは現象が純粋に考察さるべきである。したがって、その正常な進行が前提さるべきである。そこで、ことは、ともかくも滑かに進行し、したがって、商品は売れ残るようなことがないとすれば、その形態変化がつねに行なわれているということになる。むろん、この形態変化が正常に行なわれないことになれば、実体―価値の大いさ―が失われたり、または付け加えられたりするかもしれない。
  〔
編集部注Transsubstantiation:カトリック。全実体変化(ミサ中の聖変化の際、パンとぶどう酒をキリストの体と血に変化させること)〕


13. 一方の商品所有者には、金がその商品にかわり、他方の商品所有者には商品が金にかわる。目立つ現象は商品と金との、20エレの亜麻布と2ポンド・スターリングとの持ち手変更、または場所変更、すなわちその交換である。だが、商品は何と交換されるか? 自分自身の一般的価値態容と。そして金は何と交換されるか? その使用価値の特別な態容と。なぜ金は亜麻布にたいして貨幣として相対するか? 亜麻布の2ポンド・スターリングという価格、またはその貨幣名が、亜麻布をすでに貨幣としての金に関係せしめているからである。本来の商品形態を脱することは、商品の売渡しによって、すなわち、その使用価値が、その価格の中において観念としてのみ存している金を、現実に引きつける瞬間に、行なわれるのである。価格の実現、または商品の観念的に存するにすぎない価値形態の実現は、したがって、同時に逆に観念的にのみ存する貨幣の使用価値の実現である。すなわち、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が、商品所有者の極からは売りであり、貨幣所有者の反対の極からは、買いであるという二面の過程である。言葉を換えていうと、売りは買いである。W―Gは同時にG―Wである。


14. われわれは、これまで人間の経済関係を、ただ商品所有者の関係としてだけ見てきた。これは、商品所有者たちが、もっぱら自已の労働生産物を手離して、他人の労働生産物を取得する関係である。したがって、一方の商品所有者にたいして、他方の商品所有者は、ただ貨幣所有者としてのみ、相対することができる。それができるのは、彼の労働生産物がほんらい貨幣形態をとっており、したがって貨幣材料であり、金等々であるからであるか、あるいは彼自身の商品がすでに脱皮して、その最初の使用形態を脱ぎ去ったからであるかである。貨幣として機能するためには、金はもちろんいずれかの点で、商品市場にはいり込まねばならない。この点は、その生産源にある。ここで金は直接の労働生産物として、同一価値の他の労働生産物と交換される。しかしながら、この瞬間から、たえず、金は実現された商品価格を表わしている。商品と金のその生産源における交換を別とすれば、金はすべての商品所有者の手中で、彼の売渡した商品の脱皮した姿となっている。すなわち、売りの生産物、またはW―Gなる最初の商品変態の生産物である。金が観念的の貨幣、または価値尺度となったのは、すべての商品がその価値を金で測り、かくてこれをその使用態容の観念化された反対物、すなわち、その価値態容となしたからである。金が実在的な貨幣となるのは、諸商品がその全面的な売渡しによって、金を諸商品の現実に脱皮した、または転化した使用態容となし、したがって、諸商品の現実の価値態容となすからである。その価値態容においては、商品は、その自然発生的にもっている使用価値、そしてその成立を負っている特別な有用労働の、あらゆる痕跡をはらい落としている。こうして、無差別な人間労働の一様な社会的な体化物〔gesellschaftliche Materiatur〕に蛹化(ようか)していく
verpuppen〔ようか:幼虫がサナギに変態すること〕のである。したがって、人は貨幣にたいしては、貨幣に転化された商品がどんな種類のものかということを、少しも顧みない。どんな商品もその貨幣形態においては、他のそれと寸分たがわぬ顔つきをしている。だから、もちろん糞尿は貨幣ではないが、貨幣は糞尿であることもある。わが亜麻布織職が、その商品を売り渡した二個の金貨は、1クォーターの小麦の転化した姿であると想定しよう。亜麻布の売り、W―Gは、同時にその買いG―Wである。しかしながら、亜麻布の売りとしては、この過程は一つの運動を始めている。この運動は、その反対物、すなわち聖書の買いで終わる。亜麻布の買いとしては、この過程は、一つの運動を終えている。それは、この過程の反対物、すなわち、小麦の売りをもって始まったのである。W―G(亜麻布-貨幣)というW―G―W(亜麻布-貨幣-聖書)の第一段階は、同時にG-W(貨幣-亜麻布)で、他の運動W―G―W(小麦-貨幣-亜麻布)の
最後の段階である。ある商品の最初の変態、その商品形態から貨幣への転化Verwandlungは、つねに同時に、他の商品の第二の相対立した変態、すなわちその貨幣形態から商品への再転化である。


15. G―W 商品の第二、または終局変態、すなわち、買い。―貨幣は、すべての他の商品の脱皮した姿、またはその一般的な売渡しの産物であるから、それは、絶対的に売渡しうる商品である。貨幣は、すべての価格を逆読みにする。そしてこのようにして、貨幣は、彼自身が商品となるための献身的な材料であるすべての商品体に、反映されている。同時に、諸商品が彼にウィンクする愛のまなざし、つまり価格は、彼の転化能力の限界、すなわち彼自身の量を示している。商品は、貨幣となることによって消滅するのであるから、人が貨幣について見るところは、貨幣がその所有者の手中にどうして達したか、または何が貨幣に転化したかということではない。どんな生まれであろうと、お金はくさくないものだ(„non olet“)。貨幣は、一方で売られた商品を代表するとすれば、他方で買いうべき商品を代表する。

 
16. G―W 買いは同時に売りW―Gである。したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の商品の最初の変態である。われわれの亜麻布織職にとっては、彼の商品の生涯は、聖書をもって閉じられる。この聖書に、彼は、その2ポンド・スターリングを再転化させたのである。しかしながら、聖書販売者は、亜麻布織職から得た2ポンド・スターリングを、ウィスキーに転化する。G―WというW―G―W(亜麻布-貨幣-聖書)の終局段階は、同時にW―G―W(聖書-貨幣-ウィスキー)の第一段階である。商品生産者は、一方的な生産物を供給するにすぎないのであるから、彼はこれを比較的大量に頻繁に売る。他方、彼は、その多方面な欲望のために、実現した価格を、または売上げて得た貨幣量を、つねに多数の買いに分散させなければならない事情にある。したがって、一つの売りは、各種の商品の多くの買いに流れこむ。ある商品の終局変態は、このようにして、他の商品の最初の変態の総和をなしている。


17. いまある商品の、例えば亜麻布の総変態を考察するとすれば、われわれは、まず第一に、それが二つの相対立した、そして相互に補足する運動W―GおよびG―Wからなることを見るのである。商品のこの二つの相対立した変転は、商品所有者の二つの相対立した社会的過程として行なわれ、その二つの相対立した経済的役柄ökonomische Charakterに反映される。彼は、売りの担い手〔Agent:代理人、仲介人〕としては売り手であり、買いの担い手としては買い手である〔Als Agent des Verkaufs wird er Verkäufer, als Agent des Kaufs Käufer.〕。しかし、商品のあらゆる変転の中に。その両形態、すなわち商品形態と貨幣形態が、同時に、しかしただ相対立した極に存するように、同一商品所有者が売り手である場合には、他の買い手が、買い手であるときは他の売り手が、彼に相対している。同一商品が、二つの逆の変転をひきつづいて経過して、商品から貨幣が、また貨幣から商品が生ずるように、同じ商品所有者は、売り手と買い手の役割を交代して演ずる。したがって、売り手や買い手になることは、決して固定した役柄なのではなくて、商品流通の内部で、絶えず人を交代させる役柄である。


18. 一商品の総変態には、その最も単純な形態において、四つの極と三人の登場人物が想定される。最初に、商品にたいして貨幣が、その価値態容として相対する。それは彼方に、他人の懐の中に、物的に硬い実在性をもっている。こうして、商品所有者に、貨幣所有者が相対する。商品がいま貨幣に転化されるやいなや、貨幣は商品の消過的な等価形態となる。貨幣のがわからいうと、その使用価値または内容は、他のいろいろの商品体の中にある。第一の商品変転の終局点として、貨幣は、同時に第二のそれの出発点である。このようにして、第一幕の売り手は第二幕の買い手となる。第二幕ではこの買い手に、第三の商品所有者が、売り手として相対する(注71)。
  (71) 「これによれば、四つの終局点と三人の契約当事者がある。このうち一人は二度関与する」(ル・トローヌ『社会的利益について』908ページ)。


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