>>a 商品の変態 03

19. 商品変態の二つの逆の運動段階が、一つの循環をつくり上げている。すなわち、商品形態―商品形態の脱却―商品形態への帰還である。もちろん、商品自身は、ここでは対立的な性質を示している。出発点では商品は、その所有者にとって非使用価値であり、終局点では使用価値である。このようにして、貨幣は、まず商品の転化した堅い価値結晶として現われ、後にはその単なる等価形態として消え去る。


20. 一商品の循環をなす二つの変態は、同時に、二つの他の商品の逆の部分変態をなす。この同じ一つの商品(亜麻布)は、それ自身の変態の序列を開始し、他の一商品(小麦)の総変態を閉ざす。第一の変転、売りの間に、この商品は、身一つでこの二つの役割を演ずる。これに反して、それ自身死という万物の運命をたどるはかない金のサナギとして、商品は、同時に第三の商品の第一の変態を終結させることになる。各商品の変態序列が描く循環は、こうして他の商品の循環と入りまじっていて解けない。総過程は商品流通として表われる。


21. 商品流通は.形式〔formell:外形的な、うわべだけの〕だけでなく、本質的にも、直接的な生産物交換とはちがっている。その進行過程を、ちょっと見てみればわかる。亜麻布織職は、無条件に亜麻布を聖書と、自分の商品を他人のそれと交換した。しかし、この現象は、彼にとって真実であるだけである。冷いものより熱いものを選んだ聖書販売人は、亜麻布を聖書に代えようとは考えてもみなかった。ちょうど亜麻布織職は、小麦がその亜麻布と交換されたというようなことを、少しも知らないように。等々。Bの商品は、Aの商品に代わる。しかし、AとBとは、お互いにその商品を交換することはない。実際上AとBとが、お互いの間で交互に買い合うということも起こりうる。しかし、このような特別の結びつきは、決して商品流通の一般的関係から必ず生ずるわけではない。むしろ一方において、ここに示されているのは、商品交換が、直接的な生産物交換のもつ個人的地方的の限界を、どうして突き破り、人間労働の物質代謝を発展させるかということである。他方において、行動する各個人の手ではどうにもしがたい社会的な自然関連の大きな範囲が、発展してくる。織職が亜麻布を売りうるのは、ひとえに農民が小麦を売ったからであり、短慮者が聖書を売りうるのは、ひとえに織職が亜麻布を売ったからであり、火酒製造者が熱い水を売りうるのは、ひとえに他の者が永遠の生命の水を、すでに売ったからである、等々。


22. 流通過程は、それゆえに、直接の生産物交換のように、使用価値の場所変更、または持ち手変更で、消滅することはない。貨幣は消失することはない、というのは、それは結局ある商品の変態序列から、脱けて出てくるものであるからである。貨幣は、つねに商品が席をあけた流通個所に沈澱する。例えば、亜麻布の総変態、亜麻布―貨幣―聖書において、はじめに亜麻布が流通から脱落し、貨幣がその個所に進み、次に聖書が流通から脱し、貨幣がそのあとに進む。商品が商品によっておき代えられると、同時に、貨幣商品は第三の手にとどまる(注72)。流通は絶えず貨幣を発汗している。
  (注72) 第二版への注。この現象は、このように明瞭なるにもかかわらず、しかも経済学者によって、とくに俗流自由貿易論者によって、多くは看過されている。


23. あらゆる売りが買いであり、またその逆であるのであるから、商品流通は、売りと買いの必然的な均衡を含んでいるものであるというドグマほど、とんまな考えはあるまい。もしこのことが、現実に行なわれた売りの数は買いの同じ数に等しいと、いおうとするのだとすれば、これはなんの内容もない空しい言葉である。だが、問題は、売り手が自分自身の買い手を市場につれてくるということを、証明することにある。売買は、二人の対極的に対立している人、すなわち、商品所有者と貨幣所有者の間の相互関係としては、同一の行動である。それは同一人の行為としては、二つの対極的に対立した行動をなしている。したがって、売りと買いの一致は次のことを含んでいる、商品は、もし流通の錬金術的レトルトの中に投ぜられて、貨幣として出てこないとすれば、すなわち、商品所有者によって売られず、
したがって貨幣所有者によって買われないとすれば、無用となるということである。さらに、先の一致は次のことを含んでいる、すなわち、この過程は、もしそれが成功すれば、商品の一つの静止点を、すなわち、長くあるいは短くつづきうる商品の生涯のくぎりをなしているのである。商品の第一の変態は、同時に売りと買いであるから、この部分過程は同時に独立の過程である。買い手は商品を、売り手は貨幣、すなわち、遅かれ早かれ再び市場に現われる流通能力ある形態を保持する一商品を、もっている。何びとも、他人が買うことなくしては、売ることはできない。しかし何びとも、彼自身が売ったから、直接に買わなければならぬということはない。流通は、生産物交換の時間的、場所的および個人的な限界をうち破るのであるが、それはこうしてである、すなわち、流通そのものが、自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換してくるという生産物交換に存する直接の一致を、売りと買いの対立に分裂させることによってである。独立的に相互に相対する過程が、内的統一をなすということは、同じくその内的統一が、外的の対立をなして運動するということを意味する。相互に補足し合うのであるから、内的には非独立的である者が、外的に独立している。この独立が一定の点まで進展すると、統一は強力的に一つの―恐慌によって貫かれる。商品に内在している対立、使用価値と価値、同時に直接的に社会的なる労働を表さなければならない私的労働、同時にただ抽象的に一般的な労働となされる特別な具体的労働、物の人格化と人の物化。―というようなこの内在的矛盾は、商品変態の対立の中に、その発展した運動形態を保持している〔W―G―Wという形態変化による運動形態〕。したがって、これらの形態は、恐慌の可能性を、だがまたその可能性のみを、含んでいる。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からは、まだ少しも存在していない諸関係の全範囲を、必要とするのである(注73)。

  (73) 『批判』74―76ページ〔邦訳、岩波文庫版、121―122ページ。新潮社版『選集』第7巻、117ページ〕におけるジェイムズ・ミルにかんする、私の叙述を参照されよ。〔編集部注1参照・・新しいウィンドウで開く(W)〕
経済学的弁護論の方法の特徴的な点は二つある。第一に、商品流通と直接の生産物交換とを、それらの区別から単純に抽象することによって、同一視するということである。第二に、資本主義的生産過程の矛盾をば、その生産代理者の諸関係を、商品流通から生ずる単純な諸関係に解消することによって、否定し去ろうという試みである。しかしながら、商品生産と商品流通とは、その範囲と深さとを異にしてではあるが、きわめて多種類の生産様式に属する現象である。したがって、これらに共通な抽象的な商品流通の範疇(はんちゅう)を識っただけでは、これらの生産様式のもつdifferentia specifica(種差:〔編集部注2参照〕)について、すこしも知ることにならない。したがってまた、これを判断することはできない。経済学以外のいかなる科学においても、初歩的な陳腐なことを、このようにもったいぶって語ることは、行なわれていない。例えばJ・B・セイは、彼が商品は生産物であるということを知っているから、恐慌について権威ぶることができると思い上がっている。


24. 商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段の機能を得る。


  〔編集部注1〕『経済学批判』第1章商品、第2節流通手段 a 商品の変態、第12~14段落
 
  〔編集部注2〕【種差】大辞林 第三版の解説:<論理学>
  <論理学> 同一類に属するある種を他のすべての種から区別する特定の徴表。例えば、「動物」という  類において、「人間」を他のすべての動物から区別している「理性」など。

 
・・・以上、a 商品の変態 終わり・・・

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