『資本論』の社会的分業

  
Ⅰ. 第1編 商品と貨幣 第1章 商品 第2節 商品に表わされた労働の二重性
  1
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 各種の使用価値または商品体の総体の中に、同じく属、種、科、亜種、変種等々というように、種々様々のちがった有用労働の総体が現われている。―
社会的分業である。この分業は商品生産の存立条件である。商品生産は逆に社会的分業の存立条件ではないのであるが。古代インドの共同体では、労働は、社会的に分割されているが、生産物が商品となることはない。あるいはもっと近い例をあげると、あらゆる工場で労働は系統的に分割されている。お互いに商品として相対するのは、独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物だけである。
  2.
 したがって、こういうことが明らかとなる。すなわち、
すべての商品の使用価値の中には、一定の目的にそった生産的な活動または有用労働が含まれている。もし使用価値の中に、質的にちがった有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対することはできない。その生産物が一般に商品の形態をとる社会においては、すなわち、商品生産者の社会においては、独立生産者の私業として相互に独立して営まれる有用労働のこのような質的な相違は、多岐に分かれた労働の体制に、すなわち社会的分業に発展する。
 
 3.
 だが、上着にとっては、それを裁縫職人が着るか、その顧客が着るかは、どうでもいいことなのである。そのいずれのばあいでも、上着は使用価値として作用している。同じように、上着とこれを生産する労働との関係は、それ自身としては、
裁縫が特別の職業となること、社会的分業の独立の分肢となることによって、変化することはない。着物を着るという欲望が人間に強要するかぎり、人間は、ある男が裁縫職人となる以前に、幾千年の永きにわたって裁縫した。しかしながら、上着、亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらゆる要素が現存するようになったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。したがって、使用価値の形成者として、すなわち、有用なる労働としては、労働は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性である。


      
Ⅱ. 第4節 商品の物神的性格とその秘密
 
 4.
 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった
使用対象性から分離された、社会的に等一なる価値対象性を得るのである。労働生産物の有用性と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。
この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち、
社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。
これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。
 toto coelo(全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ
実際の交易の上で、生産物交換の中で現れる形態で、反映するのである。すなわち― したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人にたいしてそうでなければならぬという形態で― 異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。
  5.
 生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるものは、自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか、したがって、生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。このような割合は、ある程度習慣的な固定性をもつまでに成熟すると同時に、労働生産物の性質から生ずるように見える。したがって、例えば1トンの鉄と2オンスの金とは、1ポンドの金と1ポンドの鉄が、その物理学的化学的属性を異にするにかかわらず同じ重さであるように、同じ価値であることになる。事実、労働生産物の価値性格は、価値の大いさとしてのその働きによってはじめて固定する。この価値の大きさは、つねに交換者の意志、予見、行為から独立し変化する。彼ら自身の社会的運動は、彼らにとっては、物の運動の形態をとり、交換者はこの運動を規制するのではなくして、その運動に規制される。相互に独立して営まれるが、
社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が、継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、つねに動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、あたかも家が人の頭上に崩れかかるばあいにおける重力の法則のようなものであるからであるが、このことを、経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされるのである。労働時間によって価値の大いさが規定されるということは、したがって、相対的商品価値の現象的運動のもとにかくされた秘密である。その発見は、労働生産物の価値の大きさが、単なる偶然的な規定であるという外観をのぞくが、少しもその事物的な形態をなくするものではない。


  第3章 貨幣または商品流通 第2節 流通手段
    
a 商品の変態
  6.
 ・・・しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。そして貨幣は、他人のポケットの中にあるのである。これを引き出すためには、商品は、とくに貨幣所有者にたいして使用価値でなければならない。すなわち、この商品にたいして支出された労働は、かくて社会的に有用なる形態で支出されていなければならない。あるいは
社会的分業の一環たることを立証しなければならない。しかしながら、分業は、自然発生的生産有機体をなしているのであって、その繊維は商品所有者の背後で織られたのであり、またつづいて織られているのである。
  
7.
  
分業体制のなかに、その肢体〔Gliederung:手足とからだ〕(membra disjecta:〔新日本出版社訳「引き裂かれたる四肢」ホラティウス『風刺詩』より〕)が八方に分岐していることを示している社会的生産有機体の量的構成は、質的なそれと同じように、自然発生的で偶然的である。したがって、わが商品所有者は、彼らを独立の私的生産者となす同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの関係を、彼ら自身から独立のものとしていること、人々相互の独立性が、全般的な物的依存の体制となって補足されているということを、発見するのである。
  
8.
   分業は、労働生産物を商品に転化する。そしてこのことによって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。この分業は同時に、この化体Transsubstantiation(注)が成就するかどうかを、偶然的のものにする。
    〔
編集部注Transsubstantiation:カトリックの教義。全実体変化(ミサ中の聖変化の際、
           パンとぶどう酒をキリストの体と血に変化させること)〕


  
 第4章 第3節 労働力の買いと売り
  
9.
 
・・・生産物が商品として表されるのを条件づけるものは、社会内における分業がある程度発達して、直接の物々交換において始まったばかりの使用価値と交換価値との分離が、すでに行われた状態にあるということである。しかして、このような発展段階は、歴史的にきわめてちがった経済的な社会形式に共通である。

 
  第12章 分業と工場手工業・マニュファクチャー
     
第1節 工場手工業の二重の起源
  
10.
 
分業に基づく協業は、工場手工業において、その典型的な態容をつくりだす。それが資本主義的生産過程の特徴的形態とした支配的に行われるのは約16世紀の半ばから18世紀の最期の3分の1の一期に至る、本来の工場手工業時代のことである。

   
第2節 部分労働者とその道具
  
11.
 
さらに詳細に見るならば、まず第一に明らかなことは、終生一つの同じ単純作業に従事する労働者は、彼の全身を、この作業の自動的一面的器官に転化するのであり、したがって、一連の諸作業を、つぎつぎに行う手工業者よりも、その作業のために消費する時間が少ない、ということである。労働の生産力が高められる。部分労働が、一人の専属的機能として独立化されてからは、その方法も改良される。工場手工業が、実際に細分労働者の熟練を生産するのは、すでに社会に存在していた工業の自然発生的分化を、作業場の内部で再生産し、それを組織的に極端まですすめることによるのである。労働の生産性は、労働者の技量に依存するのみではなく、彼の道具の完全さにも依存する。切る道具、穴をあける道具、押す道具、打つ道具等のような同種の道具が、種々の異なる労働過程で使用され、また同じ労働過程でも、同じ道具が種々の作業に役立つ・・・労働用具の分化、それによって同種の諸道具が、特殊の各用途のための特殊の固定形態を、受取るのであり、労働用具の特殊化、それによっておのおののかような特殊用具が、特殊の部分労働者の手によってのみ完全な力量で作用するのであるが、・・・。工場手工業時代は、部分労働者の専属的特殊機能に、労働用具を適応させることによって、この用具を単純化し、改良し、多種類にする。これによって同時に、この時代は、単純な諸道具の結合から成り立つ、機械装置の物質的諸条件を創りだす。


 
第3節 工場手工業の二つの基本形態 ― 異種的工場手工業と有機的工場手工業
  
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 たとえば、鋳造工は1時間に2000個の活字を鋳造し、分切工は4000個を分切りし、磨き工は8000個を磨くという、活字製造工場手工業では、磨き工1人にたいして、鋳造工4人と分切工2人とが使用されねばならない。・・・今では一つの有機的な関連の表現としてである。かくして、
工場手工業的分業は、社会的な全体労働者の質的に区別された諸器官を、単純化し、多様化するのみではなく、またこれらの諸器官の量的な大いさにたいする、すなわち、各特殊機能における相対的労働者数、または労働者群の相対的大いさにたいする、一つの数学的に確定された比率をも創りだす。それは社会的労働過程の質的構成とともに、その量的な規則および比例関係を発展させる。
 
     
第4節 工場手工業内の分業と社会内の分業
   
13.
 われわれは最初に工場手工業の起源を、次にその単純要素である部分労働者とその道具とを、最後に工場手工業の全体機構を考察した。ここでは、
工場手工業的分業と、すべての商品生産の一般的基礎をなす社会的分業との関係に、簡単に触れておこう。
 交換は、諸生産部面の区別をつくりだすのではなく、異なる諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の、多かれ少なかれ、たがいに依存しあう部門に、転化させるのである。ここに、元来相異なる、また相互に独立した諸生産部面間の交換によって、
社会的分業が成立する。生理的分業が出発点をなすところにおいて、一つの直接に結ばれた全体の特別の諸器官が、たがいに分離し、分解し、この分解過程には、他の共同体との商品交換が主要衝動を与える。そして、これらの諸器官は、独立化されて、種々の異なる労働の関連が、商品としての生産物の交換によって媒介される点にまでたちいたる。一つのばあいは、前に独立していたものが非独立化されるのであり、他のばあいは、前に独立していなかったものが独立化されるのである。・・・・

 商品生産および商品流通は、資本主義的生産様式の一般的前提であるから、
工場手工業的分業は、すでにある程度まで成熟した、社会内の分業を必要とする。逆に、工場手工業的分業は、反作用的に、かの社会的分業を発展させ、倍化させる。労働用具の分化とともに、これらの用具を生産する産業もますます分化する。・・・しかし、社会内の分業と作業場内の分業とのあいだには、多くの類似と関連とがあるにもかかわらず、両者は、程度のみではなく、本質をもことにする。・・・飼畜業者、製革業者、製靴業者のそれぞれ独立の労働のあいだに、関連を生ぜしめるものは何か?かれらのそれぞれの生産物の商品としての存在ダーザイン〔Dasein〕である。
  
14.
 これにたいして、
工場手工業的分業を特徴づけるものは何か?部分労働者が、何らの商品をも生産しないということである。部分労働者の共同生産物が、はじめて商品に転化する。社会内の分業は、種々び労働部門の
生産物の売買によって媒介され、工場手工業における諸部分労働の関連は、種々の労働力が、それらを結合労働力として使用する、同一資本家に売られることによって、媒介される。工場手工業的分業は、資本家の手中における生産手段の集積を前提し、社会的分業は、多数の相互に独立した商品生産者のあいだにおける、生産手段の分散を前提する。・・・
 
工場手工業的分業は、資本家に属する全体機構の単なる肢体に過ぎない人間にたいする、この資本家の無条件的権威を前提する。社会的分業は、独立の商品生産者を、相互に対立させるのであるが、彼らの競争の権威以外には、すなわち、彼ら相互の利害の圧迫が、彼らに加える強制以外には、なんらの権威をも認めないのである。
 それは、動物界においても、すべての者にたいするすべての者の戦いが、あらゆる種の生存条件を、多かれ少なかれ保持するのと同様である。

     
第5節 工場手工業の資本主義的性格
   
15.
 単純な協業と同じく、工場手工業においても、機能しつつある労働体は、資本の一存在形態である。多数の
個別的部分労働者から組み立てられた社会的生産機構は資本家のものとなっている。それゆえ、労働の結合
から生ずる生産力は、資本の生産力として現われる。
 工場手工業労働者は、その自然的性質からいって、独立したものを作る能力を奪われていて、ただ資本家の
作業場の付属物としてのみ、生産的活動を展開する。エホヴァの選民が、額にエホヴァの所有なることを記され
ているように、
分業は、工場手工業労働者に、資本の所有なることを示す烙印を捺すのである。

 アダム・スミスは言う、「大多数の人間の精神は、必然的に彼らの日常の諸作業から、またそれによって、発展する。僅かばかりの単純な作業をなすことに、その全生涯を費やす人は、・・・彼の知性を行使する機会をもたない。・・・彼は、一般的に言って、人類としてなりうるかぎりの愚鈍無知となる」。
 スミスは、部分労働者の鈍感さについて述べたのち、さらにこういっている。「彼の変化のない生活の単調さは、当然彼の精神の意気をも腐らせる。・・・それは彼の肉体の精力をさえ破壊し、彼が育成された細部作業以外では、彼の力を活発に持久的に使用することをできなくする。彼の特殊の仕事における彼の手練は、このように彼の智的、社会的、戦闘的な徳性を犠牲にして獲得されたように見える。しかし、すべての産業の発達した文明の社会では、これが、労働貧民すなわち人民の大多数が必然的に陥らざるをえない状態なのである」(岩波文庫版『諸国民の富』)
 工場手工業的分業は、手工業的活動の分解、労働用具の特殊化、部分労働者の形成、一つの全体機構における彼らの配列と結合によって、社会的生産過程の質的編成と量的均衡を、したがって社会的労働の一定の組織をつくりだし、またそれと同時に、労働の新たな社会的な生産力を発展させる。社会的生産過程の特殊資本主義的形態としては―そして既存の基礎の上では、それは資本主義的形態においてしか発展しえなかった―工場手工業的分業は、相対的剰余価値を生み出すための、あるいは資本―社会的富、「諸国民の富」等と名づけられるもの―の自己増殖を労働者の犠牲において高めるための、特殊な一方法に過ぎない。
  ・・・以上、社会的分業 終わり・・・