ホーム
  資本論用語事典2021
  「形相と質料」の研究 -2-

形相と質料」の研究-1-

 形相と質料 (2)_ 岩波哲学・思想事典2021.01.23

 形相/質料 〔ギ〕 eidos / hylē 〔ラ〕 forma / materia 〔英〕 form / matter 〔独〕 Form / Materie 〔仏〕 forme / matériel // 〈モルフェー:morphē〉(形式〔型式:特定の構造や外形など〕)が<ヒュレー hylē〉(素材)あるいは質料を形態化する
  【古代・中世】

 「形相」とその対概念「質料」の起源は、アナクシマンドロスの<ペラス〉と<アペイロン〉に遡る。これは、「限定するもの」と「無限定なもの」を意味する。ギリシア哲学を一貫する特徴として、世界の成立をこの二面から捉えようとする点があり、ここから、限定するものと限定されるものをどのように把握するかという問題意識が展開した。
 プラトンは、定義の対象を経験的世界を超越する理性の対象とし、これを〈イデア〉ないしくエイドス〉とした。これは「すがた・かたち」であり、感覚されることはないが、理性によって観想される対象である。プラトンの『ティマイオス』の宇宙創成の説明では、イデアとそれを受け入れるもの(ヒュポドケー. hypodoche )としてのコーラ( 空間、場. chōra )という質料的な原理が不可欠なものとされた。この二つの原理は、実在的な原理として採用されたものである点で重要である。
 イデア論を批判したアリストテレスは、形相と質料との関係をプラトンとは異なった視点から捉えようとする。真に存在するもの、実体の名にあたいするのは、感覚的に捉えられる「このもの」であり、その認識は、本質の認識という形式を取る。本質の表現が定義であり、定義は、類と差異(種差)から構成され、類によって質料が与えられ、差異によって形相が与えられる。このとき、類と差異の関係が問題になるが、アリストテレスは、これを質料と形相の関係によって把握し、質料が可能態、形相が現実態であると考えることによって、両者の関係を統一した。これは生成変化する時間を含まない説明であるが、自然の事物は、生成変化するものであり、生成の説明でも、アリストテレスは質料と形相を用いている。つまり、生成変化するものは、質料に形相が与えられ、形質結合体として生成するのである。 この場合、質料は可能態、結合体が現実態として把握される。プラトンともっとも異なる点は、普遍的なものを可能的なもの、つまり、現実的な実体ではないとしたことである。この違いは、説明原理を実在的なものとするか、あるいは実在的なものとしないか、という重要な分岐点となる。アリストノテレスが考えていた形相は、いわゆる生物種が典型であり、個別者、たとえばソクラテスに形相を認めてはいなかったと考えられるが、この点もまた論争の的になった。
 形相と質料の区別は、後世プロティノスなどによって新プラトン主義哲学のなかで用いられ、さらに13世紀のトマス・アクィナスの哲学では重要な役割を演じた。トマスでは、創造される世界は、形相と質料によって説明されるが、形相も質料もともに、神によって創造される。この意味で、プラトンの創造説とは異なっているが、〈世界の永遠性〉を主張するアリストテレスとは一層異なっている。
 【文献】桑子敏雄『エネルゲイアーアリストテレス哲学の創造』東京大学出版会、1993。〔桑子敏雄〕
  【近世以降】

 近代になると存在秩序の目的論的性格を含意しているアリストテレス的、スコラ的性格を次第に失っていく。〈モルフェー:morphē〉(形式〔型式:特定の構造や外形など〕)が<ヒュレー hylē〉(素材)あるいは質料を形態化するとみなす〈ハイロウモルフィズム〉(hylomorphism)をとる場合でも、カント以降は主観の内なる形式という意味に変わっていった。
 1)イギリス経験論は一切の認識を感覚的経験に還元するところから、感覚を超えた存在論的な意味での形相を認めない。ベーコンはプラトンのようには形相と質料を分離せず、またアリストテレスのようには両者の目的論的位階を認めず、熱、光など自然(質料)のもつ法則性を形相と呼んだ。質料そのものの本質が形相なのであり、質料に形相が外から付け加わるのではない。ロックは実体という複合観念として精神と物体とを挙げ、両者を形相と質料とも言い換える。そして両者の関係を、われわれ人間には分からない謎としている。 ヒュームは懐疑を徹底し、形相も質料も不要な仮構の概念だと決めつけている。
 2)近代の科学革命の進展とともに、物体の秩序を、場合によっては精神の秩序をも目的論的ではなく機械論的に考える説が台頭した。それにともなって形相概念も重要な意味をもたなくなり、質料概念も物体の延長性を示すこと以上の意味はなくなっていった。ホッブズによれば形相とは機械論的に運動する物体の本質、名前のことであり、形相と質料との関係を詮索するのは誤った伝統にすぎない。デカルトはハイロウモルフィズムを子供の世界のようなアニミズム的なものとみなしている。したがって本質的なものというほどの意味で形相という概念を用いることもあるが、概してその使用を避けている。また質料という概念は物体の延長性を表現するのに用いることがある。スピノザの場合も概ねデカルトと同様であるが、しかし彼は<神即自然〉の立場から、形相は神の悟性の中にあると考える。
大陸合理論の中ではライプニッツは特異な位置にあり、機械論でなく、力学的な原理を立てている。モナドは本来運動する力として能動的形相(エンテレケイア)をもっているが、他のモナドの運動力に対しては抵抗性をもち、これが受動的力として質料と呼ばれる。

 3)カントはハイロウモルフィズムを主観のうちに内在化させ、Formも形相ではなく主観の形式という意味に明確に転化させた。彼によれば、主観が受容されたアポステリオリな質料を主観のアプリオリな形式(感性の形式としての時間、空間と悟性の形式としてのカテゴリー)の下に包摂することによって客観的な認識が成立する。両概念は経験の対象を構成するのみであって、物自体には関わらない。カントは実践哲学では、与えられた質料を排除して、純粋に意志を規定する形式のみが道徳法則だとし、美学においても対象の質料ではなく、対象の形式の単なる反省の中にのみ美感的判断を見出した。 カント以降のドイツ観念論ではカントの形式と質料との静的な二元的規定を動態化し、その上両概念の実在化を試みている。フィヒテは質料までも自我による措定として、形式、質料を共に自我から導出する。ヘーゲルは形式と質料が相互に規定し合いつつ、絶対的根拠としての本質に還帰するという実在的な関係を考えている。〔*編集部注〕
〔*編集部注ヘーゲルの「形式と質料」については、こちら〕
 4)フッサールは従来の伝統とは異なった概念規定を行い、しかも形式(Form)と形相(Eidos)とを違った意味で使用する。彼によれば、いかなる体験も実的契機として感覚的ヒュレー(材料的契機)と志向的モルフェー(ノエシス的契機)、すなわち材料と形式とをもつ。そして材料を形式で統覚するところにノエマ的意味という非実的契機が成立する。フッサールは始めヒュレーを中性的なものと見なしていたが、その後それ自身がある総合の作用によって成立したものと考えるようになり、<受動的総合〉の問題として大きな研究テーマとした。さらにフッサールは、知覚や想像による事実の経験的な意味を超えて、これらを基にしつつ、新たに本質直観によって本質的な意味すなわち形相を見出すことができると考える。なお、彼が質料的という概念を用いる場合、形式論理学の対象などに対して、物質とか生物など特定の実在的な領域に関連させて用いることが多い。
 5)分析哲学においては、認識の材料としての感覚与件と、これを受容し、認識にまとめ上げるための必然的前提である形式としての概念図式(概念枠)とを認識の構成要件とみなす二元論的思想が優勢である(ストローソンら)。 しかしこうした内容と形式という二元論を経験主義のドグマとして斥ける見方もある(デイヴィドソンら)。いずれにしても、伝統的な質料概念に対応するのは感覚与件であるが、これに対するもう一項はもはや「形相」ではなく、あくまで「形式」にすぎない。    〔里見軍之〕