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ヘーゲル哲学用語事典 未来社           

 <『資本論』と形式について ①>


   資本論ワールド編集部 はじめに
  島崎隆による「内容-形式」の解説は、ヘーゲル論理学の学習に必須となります。一方、『資本論』で「形態 Form 」と翻訳されているー価値形態 Wertform など、誤解されて流通してしまい、現在では
“手の施しようもない”局面を迎えています。
 a 商品の変態
「われわれは全過程〔商品の交換過程〕を、その
形式的側面 Formseite から、したがって、ただ商品の形態変化 Formwechsel または社会的物質代謝 Stoffwechsel を媒介する、その変態 Metamorphose をのみ、考察しなければならぬ。」 (『資本論』第3章第2節「a 商品の変態」岩波文庫p.185) の読解などでは、とくに慎重さが必要となります。 
 まず、ヘーゲルから始めましょう。


  内容 – 形式 [形態]  Inhalt - Form   「 解説・島崎 隆 」 

  ( 根拠 根底 質料 )              
>>同一性>  >>反省>>クリック

 
一般的説明  「内容」とは常識的には、それ自身として存在している素材ないし中身を意味する。
形式」とは、そうした内容を入れる容器や枠組みのようなものとみられる(マルクス経済学では、「形式」の代わりに「形態」とよぶ)。たとえば、ロミオとジュリエットの悲恋はそれ自身としてひとつの具体的な内容であり、それが詩や小説のジャンルで表現されることは形式にかかわることである。このさい、いくつかの形式に共通するものとして、ないし形式に無関与なものとして内容は考えられている。
ヘーゲルはこうした考えを前提しながら、内容と形式の密接な関連を探っていく。内容と形式の関係については、『大論理学』では「根拠」の章で扱われ、これにたいし、『小論理学』では、さらにそのあとの「現象」論で展開される。

 形式と本質  『大論理学』では、①形式と本質、②形式と質料、③形式と内容という三段階の展開がみられる。そもそも本質の論理としての反省は、対立の規定にみられたように、他者を含んではじめて自己の存立を獲得する運動であった。根拠の規定もその反省の運動を内包しており、<根拠(Grund)>は根拠づけられるものを媒介してこそ根拠といえるのである。つまり、或るものを根拠づけてはじめてそれは根拠としての実を示す。だか、根拠はこの反省運動のほかに、しっかりした、安定した<根底(Gundlage)>を獲得している。ここに、たんなる反省の論理と「根拠」の区別がある。いまや、この不動の動者(自分は動かず、他者を動かすもの)である根拠(根底)こそ本質とみられ、そこを舞台として生ずる運動こそ形式(化作用)なのである。

 形式とは、じつは固定したものでなく、事物にたいし運動するシステムと合目的性格を与える活動である。こうして、「根拠」は区別を産出する反省の運動と、そこに安定的にみられる自己同一性(根底)との統一である。


 ところで、ヘーゲルでは、
形式(事物に形式を与える運動)は事物を動かす能動的なものであり、これがじつは反省の運動と同義であった。「それゆえに、形式は反省の完成した全体である 」(『大論理学』)〔反省の解説参照してください〕。プラトン、アリストテレス以来の観念論の伝統によれば、イデア(形相=形式)は事物を動かす主体的な原理であり、これにたいし、物質的なもの(質料)はもっぱら受動的なものであり、形相が加わってはじめて運動すると主張される。ヘーゲルはこの観念論的伝統を受け継ぐ。


 形式と質料
  根底である自己同一性がまったく運動性から切り離され、もっぱら受動的にみられると、それは<質料(Stoff)>といわれる。プラトン、アリストテレスらによれば、無規定的な質料に規定性と運動を与えるのは形式(形相)なのである。質料はたとえば、労働対象(原料)のようなものであり、人間の目的行為によってはじめて或るものへと形成される。このさい、人間の活動が形式を与える運動なのである。ところでヘーゲルは、この質料――これはけっきょく物質のことである――を形式から導こうとする(これは神が世界創造をすることの理論化となる)。さて、質料は「根底」のもつ同一性に由来した。質料とは、このまったくの同一性として他のものとの関係を断ち、運動性を失った受動的なものである。


 形式と内容
 みずからに与えられる形式に無関心な質料も、本来は根拠の反省運動のなかで形成されたものであった。
ここでふたたび
形式は質料と深く結ばれ、こうして質料は「内容」となる。逆にいえば、「内容は・・・・形式づけられた質料として規定されている」(『大論理学』)。形式と内容は相互に深く浸透し合っており、ある内容にとり、そこに与えられる形式はどうでもよいものではなくなる。たとえば、よい内容の本はけっして無形式ではなく、それに照合した、正しい表現形式をもつ。また、正しい形式を欠く芸術作品は真の芸術とはいえない。ギリシャ彫刻は木ではなく、大理石によってはじめて真の内容を与えられるであろう。ロミオとジュリエットの悲恋物語も小説としてのしっかりした形式を与えられてこそ、よい内容の作品となる。この内容にはこの形式以外にありえないというように、形式と内容がまったく調和しているのが真の芸術である。ヘーゲルは形式を優位におきながらも、形式と内容の相対性や両者の相互産出作用を強調する。

 
形式とは内容がみずから産出したものであり、また逆に、内容とは形式が固定化して安定したものである。まさに、論理学の叙述は、絶対理念という形式がつぎからつぎへとみずからにふさわしい内容を産出する過程とも、意識と対象の統一という唯一の内容(=絶対理念)が多様な形態(形式)を自己付与する過程ともみられる。


形式内容
 形式の展開が内容に無関係ではなく、まさに現実や認識の発展という内容的なものを反映していることを、マルクスは「形式内容(形態内容 form-inhalt)」という概念で表現した(『資本論』第一巻、初版 〔大月書店国民文庫p.53〕)。
ここでは形式は内容へと完全にくり込まれている。
いわゆる価値形態論は、内容に外的なたんなる形式の分析ではなく、商品が等価交換される関係がついに貨幣を産出するという内容上の展開を含んでいる。ヘーゲルのいう形式は事物に形を与え、これこれのものと規定する作用とみられるが、このことは広く事物が安定的にみずからに形態や構造を与えることを意味する。またとくに、これには形づくり(Formierung)を行う人間の労働が第一のモデルになろう。というのは、労働はそもそも素材に形を与える目的行為だからである。こうして、ヘーゲルの観念論は、「形式」という言葉に弁証法とほぼ同義の事柄を含ませたのである。  (島崎 隆)