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 文献資料 本質・現象・仮象   


      ■本質・現象・仮象_ヘーゲル論理学
第2巻 本質論 
第1章仮象 B 仮象
第2巻本質論第1章仮象 C 反省



 
本質―現象 Wesen ― Erscheinung

       
仮象 Schein    『ヘーゲル用語事典』 未来社

  一般的説明  
 哲学の課題は一般に、事物の本質を認識することにあると考えられる。このさい、事物の奥にあり、それを根拠づけているものが「本質」といわれ、直接的な所与としての事物は「現象」とよばれる。有論で考察された事物の質的変化や、質から量への叙述の進展ですべてが終わったわけでなく、「有」の背後にある変化しないもの、つまり本質を捉えねばならない。直接的に与えられ、確実とみられた事物は、じつは現象にすぎないのである。ヘーゲルはこのことについて「有の真理は現象である」という。ここに本質論の課題が生じる。
 こうして、感覚・知覚によって捉えられる、たえず変化する世界は「現象」なのであり、他方、本質は一般に「法則」として表現される。それは静かな、超感覚的な世界といえる、たとえば、抽象的な数学的公式として表現されるニュートンの万有引力の法則は、こうした本質の典型例であり、この法則が天上の世界と地上の世界のきわめて多様な現象を統一的に説明するのである。


 
ヘーゲルの批判
 ヘーゲルが本質‐現象という一対のカテゴリーを本質論に位置づけたのは、従来の形而上学や自然科学で使われたこれらのカテゴリーが限界をもっていたからである。たとえば、プラトンは本質を神の住む天上の世界(イデア界といわれる)とみなし、現象を有為転変する地上の世界と考え、両世界を切り離し、宗教的に考えた。またカントは、本質としての物自体( Ding an sich ) はけっしてわれわれに現象してこないとして、不可知論(事物の本質は認識できないという考え)を唱えた。当時の自然科学も本質‐現象、さらに原因‐結果などのカテゴリーで機械的な説明をしていた。要するにここでは、本質と現象は分断されるか、たんに外的に結合されるかであった。


 
本質は現象する 
 本質‐現象のカテゴリーに潜む、深い弁証法を洞察することは、「本質は現象しなければならない」、「本質は現象する( erscheinen )」(『大論理学』)という命題を展開することであった。もともと本質―現象は反省‐被措定有という一対のカテゴリーから生じている(反省概念が本質論の基本論理であった)。この点からすると、直接的所与としての事物を被措定有(措定されたもの)と捉え返すところに本質のダイナミズムがあり、本質が産出した被措定有こそ「現象」である。こうして、「本質は現象する」は「本質は現象を反省運動のなかで措定する」と読み代えられる。
 だが、現象は、反省の運動で生じた 《
仮象映現 Schein) 》 よりも具体的なものである。仮象はふつう「外観」、「見せかけ」、「幻影」などの否定的意味をもつ。それは人の目を惑わすものである。ヘーゲル自身も仮象を「非自立性」、「本質を欠いた存在」であるという。だが、よく考えると、この仮象もなんらかの意味で本質の現われである。こうして、仮象を本質の現われとみなすとき、それは「現象」となる。現象とはたんなる「見せかけ」ではなく、「実在的な映現」である現象は、そこに本質が現われる不可欠の現場である


 
現象の豊かさ
 現象の一片一片に本質は現われ、浸透している。現象してこない本質は、真の本質ではない。
本質を表現する法則は現象の彼岸にあるのではなく、現象のただなかに現存する。たとえば、万有引力の法則は、物体の落下・衝突・天体の運行などの多様な現象界を同じものの現われとして説明する。
 以上では、現象は本質のたんなる現われであり、本質を超える独自性をもたないと考えられるが、ヘーゲルは同時に両者の区別も強調する。法則は現象の静止的な模写像であって、そこでは現象のもつ多様な変化や運動の側面は捨象されている。この意味で、
現象は法則を含むのみでなく、運動・変化の形式をも含む。それゆえ、本質よりも現象のほうが豊かであり、またここに法則的表現のもつ抽象性と限界がある。「本質は現象する」といいながらも、現象を単純に本質に還元しないところに、ヘーゲルの現実(現象)重視の姿勢があるといえよう。 (島崎 隆) ・・・「ヘーゲル用語事典」 未来社 より・・・