文献資料 ヘーゲル論理学
反省 Reflexion
■本質・現象・仮象 ・・・
『大論理学』 第1章 仮象
*本質―現象 仮象 「ヘーゲル事典」
『大論理学』 第2巻本質論 第1篇 自己自身における反省としての本質
第1章 仮象
A 本質的存在と非本質的存在
B 仮象
C 反省
1 措定的反省
2 外的反省
3 規定的反省
***〔〕は、訳者による。***
C 反 省 Reflexion
〔1、 反省の本性〕
仮象は反省と同一のものである。しかし、仮象は直接的な反省としての反省である。そこで、この自己の中に復帰したところの、従ってその直接性を離脱したところの仮象に対して、われわれは外国語の反省(Reflexion)という言葉を使う。
本質は反省である。それは自己自身の中にとどまるところの生成と移行との運動であって、それにおいては区別された存在は全くそれ自身否定的なものとして、仮象として規定されているにすぎない。―
有の場合の成においては、規定性の根底に有が存在していて、その規定性は他者への関係であった。これに反して、反省的運動は否定それ自身としての他者であって、この否定は自己に関係する否定という意味でのみ有をもっている。或いは、この自己への関係は、まさにこのような否定の否定である故に、否定は否定として存在するのであり、即ち自己の否定態の中に自己の有をもつような否定として、云いかえると仮象として存在する。
それ故に他者は、この場合には否定または限界を件うところの有なのではなくて、否定を伴うところの否定(die Negation mit ler
Negation )なのである。しかし、この他者に対立する最初のもの、即ち直接的なもの、または有は、単にこのような否定の自己との同等性そのもの、即ち否定された否定、絶対的否定性にほかならない。だから、この自己同等性または直接性は運動の出発点とされて、自己の否定に移って行くといった最初のものではない。また有的な基体があって、それが反省を貫通するというのでもない。むしろ直接性は運動それ自身にほかならない。
〔2、 無(有・無・成の自己展開の無として否定性)から
無(否定性の自己展開)への運勧としての反省〕
故に本質の場合の成、即ち本質の反省的運動は、無から無への運動(die Bewegung von Nichts zu Nichts )であり、またそれによって自己自身に戻るところり運動である。移行または成は、その移行の中で自己を止揚する。この移行の中に現われて来る他者は或る有の非有ではなくて、無の無〔自己展開の無〕である。そしてこのような無の否定であるということが有を形成するのである。― 有は、ただ無の無への運動としてのみあり、その意味で有は本質である。しかも本質は、この運動を自己の中にもつのではない。この運動は、絶対的仮象そのものとして純粋な否定性である。純粋な否定性とは、自己以外に自分が否定する何ものをももたず、ただ自己の否定的なものそのものを否定するにすぎず、しかもこの自己の否定的なものが、またこの否定作用の中にのみあるという否定性である。
〔3、 区分〕
無から無への運動であるところの、この純粋な絶対的反省は更に自己自身を規定する。
この反省はまず第一に、措定的反省( die setzende Reflexion )である。
第二に、反省は前提された直接的なものから出発する。その意味で、それは外的反省( die äussere Reflexion )である。
けれども第三に、反省はこの前提を止揚する。そして反省は、この前提の止揚の中において同時に前提的であるから、反省は規定的反省( die bestimmende Reflexion :自己自身を規定・否定する反省)である。
1 措定的反省
〔I、反省の一般的性格〕
仮象は空なもの、または本質をもたないものである。しかし空なもの、または本質をもたないものは、それがその中で映現するところの或る他者の中に、その有をもつのではない。むしろ、その有は、それ自身の自己同等性なのである。即ち否定的なもののこのような自己自身との交替が、本質の絶対的反省としての規定である。
それ故に、この自己に関係するところの否定性は自己自身の否定である。従って、この否定性は一般に、否定性であると共に、また止揚された否定性でもある。云いかえると、この否定性は、それ自身否定的なものであり、また単純な自己同等性または直接性である。つまり、この否定性が否定性そのものであって、また否定性そのものではないということ、しかも二つのことが一つの統一の中にあるということそのこと、そこに否定性の本性がある。
反省は、まず差し当たっては、無から無への運動であり、従って自己自身と合致するところの否定である。ところが、このような自己との合致は一般に単純な自己同等性であり、即ち直接性である。しかし、この合致は否定が自己の他在としての自己同等性の中へ移行することではない。むしろ反省は移行〔他者へ移ること〕の止揚としての移行である。というのは、反省は否定的なものの自己自身との直接的な合致だからである。この意味で、この合致は第一に自己との同等性であり、または直接性である。けれども第二に、この直接性は否定的なものの自己との同等性であり、従って自己自身を否定するところの同等性である。即ちそれは、それ自身否定的なものであるところの直接性であり、云いかえると直接性そのものの否定者、即ち直接性ではないところのものであるというような直接性である。
〔Ⅱ、直接性の二面〕〔1、被措定有〕
それ故に、否定的なものの自己自身への関係は、その自己への還帰である。この関係は否定的なものの止掲としての直接性である。しかし、それは全くただこのような関係として、または或る否定的存在からの還帰としてはじめて直接性なのであって、従って自己自身を止揚するところの直接性である。―
このことが即ち被措定有( das Gesetztsein )ということなのである。それは全く規定性という意味でのみ、或いは自己反省的なものだという意味でのみ直接性である。そしてこの否定的なものの自己への還帰としてのみ存在するところの直接性は、―
あの仮象の規定性を形成していたところの直接性であり、前には反省的運動の出発点と見られたところの、あの直接性である。それで、この直接性から出発することができるというよりは、却ってこの直接性が還帰または反省そのものとして、はじめてあり得る。それ故に、反省は還帰であることによってはじめて始まるもの、または還帰するものであるような運動である。
〔2、措定の面〕〔a、措定〕
反省が還帰としてはじめて直接性であるかぎり、反省は措定〔措定すること〕( das Setzen )である。即ち、そこには或る他者は存在しない。反省がそれから帰るものといったような他者も、またそれへ帰って行くものといった他者も存在しない。それ故に、反省は単に還帰としてのみ、或いは自己自身の否定者としてのみあるのである。けれども更にまた、この直接性は止揚された否定であり、止揚された自己還帰である。反省は否定的なものの止揚として、自己の他者の止揚、即ち直接性の止揚である。故に反省は還帰として、即ち否定的なもののその自己自身との合致として直接性であるから、その意味でまた否定的なものとしての否定的なもの〔直接性〕の否定でもある。
〔b、前提の面〕
この意味で反省は前提〔前提すること〕( das Voraussetzen )である。― 云いかえると、直接性は還帰として全く自己自身の否定であり、直接性ではないということにほかならない。ところで、反省は自己自身の否定者の止揚であり、従って自己との合致である。それ故に、反省は自己の措定を止揚する。つまり反省は、その措定の中における措定の止揚であるから、反省は前提である。―
反省は前提の面で自己への還帰を反省自身の否定として、即ちそれの止揚が本質であるような存在として規定する。それで前提〔否定的なもの〕は、その自己自身に対する関係であるが、しかし自己の否定者としての自己自身に対する関係である。ただその意味でのみ前提は自己の中にとどまるところの、自己関係的な否定性である。だから、直接性は一般に、ただ還帰という意味でのみあり得る。即ち直接性は還帰によって否定されるものであるところの始元の仮象である、あの否定的なものである。*故に本質の還帰Die
Rückkehr des Wesensは本質の自己自身からの反発( Abstossen )である。云いかえると、自己への反省は本質的には、反省がそれからの還帰である当体〔ありのままの本性〕を前提するVoraussetzenことである。
〔3.前提の分析〕
それで本質の自己同等性〔措定〕の止揚〔前提〕によってはじめて、本質は自己同等性〔措定〕である。本質は自己自身を前提するが、またこの前提の止揚が本質そのものである。逆にまた、この本質の前提の止揚が即ち前提そのものである。― それ故に反省は、それが越えて行くところの直接的な存在、またはそれから還帰するところの直接的な存在を直接的に見出す。しかし、この還帰がはじめて、この見出される直接者を前提するものなのである。即ち、この見出される直接者は、それが捨てられることによって、はじめて現成する。即ち、その直接性は止揚された直接性である。― 反対にまた、止揚された直接性は自己への還帰であり、本質が自己の許に到達することであり、単純な自己同等的な有である。このような有であるために、この自己への到達は本質の止揚であって、また自己自身を反撥するところの前提的反省である。従って、この反省の自己反撥が自己自身への到達なのである。
それ故に反省運動はDie reflektierende Bewegung ist、以上の意味で、自己自身の中における絶対的衝突( absoluter Gegenstoß )と見ることができる。何故かといえば、自己還帰の前提は、― 即ち本質がそれから出現するための当体で、しかも上述のような復帰としてはじめて有るところの存在は、― ただ還帰そのものの中にのみ存在するからである。即ち反省の出発点となるところの直接的存在の超越は、むしろこの超越の過程によって、はじめてある。従って直接的存在の超越が即ち直接的存在への到達なのである。運動は進展しながら、そのまま自己自身において轉囘〔転回〕する。この意味でのみ運動は自己運動、― 自己の中から行われる運動である。というのは、措定的反省は前提的反省であるが、しかしまたそれは前提的反省として、そのまま措定的反省であるからである。
この意味で、反省は反省そのものであると共に、その非有である。従ってまた反省は自己の否定者であるが故にのみ自己自身である。なぜなら、ただこの意味でのみ、否定的なものの止揚が同時に自己との合致としてあるのだからである。
〔Ⅲ、移行〕
止揚の活らきとしての反省が自己に対して前提するところの直接性は、全くただ被措定有として、即ち即自的には〔それ自身としては〕止揚されたものとしてあるにすぎないが、しかしこの被措定有は自己への還帰と異なるものではなく、むしろそれ自身この還帰にほかならない。けれども、この被措定有は同時に否定的なものとして、即ち直ちに或る被措定有〔否定的なもの、即ち自己の否定者〕に対立するものとして、従って他者〔他の被措定有、自己とは別の否定的なもの〕に対立するものとして規定される。こうして反省は規定的となる。即ち反省がこのような〔自己の〕規定性に基いて或る前提をもち、自己の他者としての直接的存在から出発するとき、反省は外的反省である。
2 外的反省
絶対的反省としての反省は、自己自身の中で映現する本質であって、単に仮象、被措定有を自己の前提とするにすぎない。この反省は前提的反省として、そのまま全く措定的反省である。ところが、外的反省または実在的反省は、止揚されたものとしての自己を、即ち自己の否定者としての自己を前提する。このような規定のために、この反省は二つに分れる。即ち一方は前提されたものとしての反省であり、または直接的存在であるところの自己反省である。 他方では、それは否定的なものとして自已に関係する反省である。即ち、この反省は、あの自己の非有〔直接的存在〕としての自己に関係する。
それ故に、外的反省は或る有を前提する。・・・・以下、省略・・・