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      ヘーゲル 『精神の現象学』 C 理性         金子武蔵訳 岩波書店 


Ⅴ 理性の確信と真理
   A 観察する理性 a  自然の観察


有機的なものの観察 (有機的なものと成素


 α 有機的なものと非有機的なものとの関係
 β 目的論
 γ 内なるものと外なるもの


  Ⅴ 理性と確信と真理

1
. 
 個別的な意識が自体的には絶対実在であるという思想を把握するに至ると、意識は己れ自身の
うちに還帰する。もっとも不幸な意識にとっては自体存在は己れ自身の彼岸であるが、しかし、この意識
の運動こそがこの意識において成就したのは、個別性も完全に発展すると、言いかえると、個別性も現実
な意識となると、意識自身の否定的なものであるのを、即ち対象的な極であるのを定立したということで
あり、言いかえると、意識は自分の自分だけでの存在を自分から引きずり出して、これを〔対象的な〕存
在とすることを、意識自身において成就したのである。この成就と共に、意識に対しては、この普遍者と
自分との統一もまた〔対象として〕生じているが、この統一は「我々」にとっては、止揚せられた個別者
は普遍者であるが故に、もはや意識のそとに属するものではないし、また意識は自分のこのような否定性
においても己れを維持するものであるから、この統一は意識自身においてその本質をなしていることにな


 
有機的なものの観察  p.257
 
 
さて過程を具えながら、これを概念の単純態のうちに具えているような対象が有機的なものである。有
機的なものとは、かかる絶対の流動性であって、このうちにあっては、よってもって有機的なものがただ
他者に対してあるものにすぎなくなるような限定は解消させられている。いったい非有機的な物とは、限
定をもって本質とするものであるが故に、ただ他の物といっしょになって初めて概念の諸契機の全体をつ
くすのであり、したがって運動にはいると消えうせてしまうのであるが、これに対して有機的なものにお
いては、よってもって他者に対して己れを開くような限定はすべて有機的な単純な統一の支配のもとに拘
束させられている


 
このようにして観察する意識には、二つの存在的で固定的な契機の関係としての有機的実在が「発生」
している。――これらの契機はひとつの対立のものであるが、この対立の両側面は存在的、固定的である
ので、一方では観察において与えられているように思えるし、他方では内容から言うと、有機的な目的概
念と現実との対立を表現している。そこで「我々」はひとが内なるものというときに意味しているのがほ
ぼ前者(目的概念)であり、ひとが外なるものと言うときに意味しているのがほぼ後者(現実)であるこ
とを見るが、両者の関係が「外なるものは内なるものの表現である」という法則を生み出すのである。
 そこで内なるものと外なるものとがそれぞれの存在においていかなる形態をもつかが見られなくてはな
らない

 
有機体の実体が内なる実体として単純な魂であり、純粋な目的概念であり、言いかえると、普遍的なも
のであるが
この普遍的なものは部分となったときにも普遍的な流動性たることを保っているから、存在
するときにも働き(機能)として、言いかえると、現実は現実でも消失する現実の運動として現象してく
る。しかるにこれに対してかの存在する内なるものに対置せられた外なるものとは有機的なものの静止せ
る存在のことである

そこで法則とはかの内なるもののこの外なるものへの関係のことであるから、この
法則はその内容を一方では普遍的な諸契機ないし単純な諸本質態の呈示において、そうして他方では現実
化せられた本質態ないし形態の呈示において表現していることになる。 p.267
 再生は〔感受性と反応性とならなる〕全体として己れのうちに還帰している有機体の作用であり、もし
自己維持一般の意味に解せられるときには、再生は有機体の実在的な概念であり、ないしは全体であり、
そうしてこの全体は個体として自分自身の個々の諸部分を生産することによってか、それとも類として諸
個体を生産することによって己れのうちに還帰している


 
これらの有機的な成素がもつ今ひとつの別な意義、即ち外なるものとしてもつ意義というのは、これら
成素が形態をえたありかたのことであるが、このありかたから言うと、これらの成素は現実的な
諸部分として現にあるが、しかし同時に普遍者として、言いかえると、有機的な諸組織として現にある
。 
p.269
 
したがって有機体に固有な諸法則というのは、有機体の諸契機が一方では有機的な形態化の部分であり
、他方では限定ではあっても、かのすべての組織のうちを駆けめぐり、すべてに浸透する普遍的な流動的
な限定でもあるという二重の意義をもつところから生ずる諸契機相互の関係に関するものである


 
有機体の抽象的な理念がかの三つの〔感受性、反応性、再生という〕契機において真実において表現せ
られているのは、これらの契機が決して静止せるものではなく、概念と運動との諸契機にほかならぬから
こそであるが、そうであるとすると、他方の形態化としても、有機体は解剖学が離れ離れのままにしてお
くような三つの限定せられた組織のうちにとじこめられているのではな


 
形態そのものの組織においては、有機体は現存は現存でも死せる現存という抽象的な側面にしたがって
把握せられているが、そう受けとられたときには、有機体の諸契機ももう解剖学のものであり、屍体のも
のであって、もう認識のものでも生ける有機体のものでもない。かかる諸部分としては、諸契機はむしろ
存在することをもうやめてしまっている。なぜなら、諸契機はもう過程として存在することをやめている
からであ

有機体の場合には存在と言っても本質的に普遍態のことであり、言いかえると、己れ自身へ
の還帰のことであるから、その全体の存在も諸契機の場合と同じように解剖学的な組織のうちにあるので
はなく、かえって現実的な〔全体の〕表現も諸契機の外面性もむしろただ形態化の互いに相違する諸部分
を駆けめぐるところの運動としてのみ現にあるからであり、そうしてこの運動のうちでは、〔解剖学によ
って〕個々の組織として引きずり出されて固定化されていたものも本質的に流動的な契機であることを示
すのである。だから諸契機の実在性として妥当することを許されるものは解剖学が「見出す」ようなかの
現実ではなく、ただ過程としての現実のみであり、そうして解剖学的な諸部分が意味をもつのも、ただこ
の過程においてのみのことであ



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