ウィリアム・ペティの「商品と価値」
『政治算術』に現われているペティの「商品と価値」の認識について
はじめに
マルクスは、「 A 商品分析の歴史」(『経済学批判』)についてつぎのように総括をしています。
「商品を分析して二重形態の労働に、すなわち、使用価値を現実の労働または合目的的な生産的な活動に帰着させ、交換価値を労働時間に、すなわち等一なる社会的労働に帰着させることは、古典経済学の150年以上にわたる研究の批判的成果である。
この経済学は、イギリスにおいてはウィリアム・ペティに始まり、リカードで終わっている。」
「ペティは、使用価値を労働に分解するが、現実の労働をそのまま社会的総体として分業と考えている。素材的富の源泉に関するこの考えは、政治算術に導いている。政治算術は、経済学が独立の科学として分離した最初の形態である。だが、彼は、商品の交換過程に現れる交換価値を貨幣と考え、貨幣そのものを現存する商品、すなわち、金および銀と解する。重金主義の観念にとらわれて、彼は、金や銀を獲得する特殊な種類の実体的労働を、交換価値を生む労働と説明する。
彼は実際にこうのべている、ブルジョア社会の労働は直接の使用価値を生産しないで、商品を生産せざるをえない、別の言葉でいえば交換過程で譲渡されることによって金および銀として、すなわち貨幣として、または交換価値として、いいかえると対象化された一般的労働として現わされる使用価値を生産する外ないというのである。」
ここに、赤字で強調した文脈が、いわゆる‟資本論の蒸留法”などと一般的に”宇野派流儀で”主張されている文節と連動・リンクすることになります。しかし、果たして、マルクス自身の分析方法に該当するのでしょうか? マルクス独特の文体として解析することから、問題を解きほごしてゆきます。すなわち、
「使用価値を労働に分解する」ペティの「政治算術」など、古典派経済学によって継承されている分析方法をマルクスが総括しながら「経済学批判」を行なっているのです。
『経済学批判』第1章の第2節(新潮社版p.57)で古典派経済学を”解説”しています。
「 商品は、イギリスの経済学者達の言葉で言えば、まず第一に「人生にとって必要であり、有用であるか、あるいは快適であるなんらかの物」、すなわち人間の欲望の対象、最広義においていう生活手段である。使用価値であるという商品の固有性(Dasein)とその手でつかみうる自然的な存在とは一致する。例えば、小麦は、綿花、硝子、紙等等の使用価値と区別された一つの特別な使用価値である。使用価値は、使用するための価値にすぎないのであって、消費の過程で初めて実現される。同一の使用価値は、いろいろに利用されうる。だが、その可能な利用の総体は、特定の属性をもった物であるという使用価値の固有性(Dasein)のうちに綜合されている。(中略)
使用価値であるということは、商品にとって必要な前提であるように見えるが、商品であるということは、使用価値にとってはどうでもよい規定であるように見える。経済上の形態規定に対してこのようにどうでもよい使用価値、すなわち使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲の外にある。その〔経済学の考察〕範囲にはいるのは、ただ使用価値自身が形態規定を持っている場合のみである。直接的には、使用価値は、特定の経済関係、すなわち交換価値が表われる素材的な基礎である。」
こうして、古典派経済学の分析流儀を解説した『経済学批判』を引き継いで、『資本論』第1章が開始されてゆきます。
『資本論』第1章第1節
「 いまもし商品体の使用価値を無視する〔abstrahieren : 度外視する〕とすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわれわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象する〔abstrahieren : 度外視する〕ならば、われわれは労働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象する〔abstrahieren : 度外視する〕こととなる。それはもはや机や家でも撚糸でも、あるいはその他の有用な何物でもなくなっている。すべてのその感覚的な性質は解消している。それはもはや指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性質は消失する。したがって、これらの労働のことなった具体的な形態も消失する。それらは
もはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。」
「 われわれはいま 労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、 妖怪のような gespenstige 同一の対象性いがいに、すなわち、無差別な人間労働に、いいかえればその支出形態を考慮すること
のない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの意外に、労働生産物から何物も残って いない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されているということを表わしているだけである。これらの物は、おたがいに共通な、こ
の社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。」(岩波文庫p.72-73)
マルクス自身の分析方法と併せて、これらの課題ー①使用価値を度外視する、②労働生産物の残りー人間労働力支出の、単なる膠状物、③社会的実体として、価値-商品価値、 を究明するために、ペティによる「経済学の始まり」から探究するー課題に取り組んでゆきましょう。
◆ペティの著作のうち、つぎの3つについて参照していきます。
1. 『政治算術』 1671~1676年
2. 『租税貢納論』 1662年
3. 『アイルランドの政治的解剖』 1672年
『政治算術』に現われているペティの「商品と価値」の認識について
Ⅰ. ペティ(1623-1687年)と重商主義の時代
・・・『政治算術』 松川七郎解題
Ⅱ. 『政治算術』(1671~76年頃) 抄録
岩波書店 大内兵衛、松川七郎訳 1955年発行
資本論ワールド編集部 まえがき
マルクス『経済学批判』の「A商品分析の歴史」によれば、「商品の分析とペティ」の関係について次のように説明がされています。
① 商品を分析して二重の形態の労働に、すなわち、使用価値を現実の労働または合目的的な生産的な活動に帰着させ、交換価値を労働時間に、すなわち等一なる社会的労働に帰着させることは、古典的経済学の150年以上にわたる研究の批判的成果である。
② この経済学は、イギリスにおいてはウィリアム・ペティに・・・始まり、・・・リカードで終わっている。ペティは、使用価値を労働に分解するが、その創造的な力に自然的限界のあることを見誤ってはいない。
③ ペティは、現実の労働をそのまま社会的総体として分業と考えている。素材的富の源泉に関するこの考えは、・・・ペティの場合は、政治算術に導いている。
④ 政治算術は、経済学が独立の科学として分離した最初の形態である。だが、彼は、商品の交換過程に現れる交換価値を貨幣と考え、貨幣そのものを現存する商品、すなわち、金および銀と解する。重商主義の観念にとらわれて、彼は、金や銀を獲得する特殊の種類の実体的労働を、交換価値を生む労働と説明する。
⑤ 彼は実際にこうのべている、ブルジョア社会の労働は直接の使用価値を生産しないで、商品を生産せざるをえない、別の言葉でいえば交換過程で譲渡されることによって金および銀として、すなわち貨幣として、または、交換価値として、*いいかえると対象化された一般的労働として現わされる使用価値を生産する外ないというのである*。 〔*~*は、編集部の追記、第2部参照〕
⑥ いずれにしても彼の例はこういうことをはっきり示している、すなわち、労働を素材的富の源泉として認識しても、そのことは決して労働が交換価値の源泉となっている一定の社会的形態についても誤解しないですむわけのものでないということである。
ここでマルクスが説明している文脈①~⑥は、「使用価値からの抽象」として一般的に理解されているー宇野系学者らによって命名されたー “資本論の蒸留法” をくつがえす「説明文である」ことを示しています。
しかしながら、この「説明文」は、『租税貢納論』、『アイルランドの政治的解剖』そして『政治算術』など、実際にペティの著作を体験しなければマルクスの“真意”をつかみ取ることが大変難しいと言わざるを得ません。
ここに『資本論』の叙述の、マルクス特有の方法論または、”レトリック” が存在しています。
『資本論』第1章第1節第11段落
「いまもし商品体の使用価値を無視する〔度外視する〕とすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわれわれの手中で変化している。・・」
このマルクスの叙述の理解は、重商主義時代のペティたち自身の「商品と価値」の認識に沿っている必要があることを示しています。「歴史的に、論理的に」認識の進展・深まりを追求するマルクスの方法論―弁証法論理学によらなければ、正確な理解が難しいことを証明しています。
さて、詳しい報告は、第2部で行ないますので、まずはペティをお楽しみください。
★参照しているペティの主な著作
・『租税貢納論』 1662年 邦訳版 大内兵衛 松川七郎訳、岩波書店、1952年
・『政治算術』1671年-1676年頃執筆(1690年初版) 邦訳版 大内兵衛 松川七郎訳、岩波書店、1955年
・『アイルランドの政治的解剖』1671年-1676年頃執筆(1692年初版)
邦訳版 松川七郎訳、岩波書店、1951年
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Ⅰ. ペティと重商主義の時代 『政治算術』 松川七郎解題
『政治算術』は、ペティの主著のなかで一般にもっとも著名な書物の一つになっている。経済学や統計学の歴史のうえで、『政治算術』とペティとは―「土地が富の母であるように、労働は富の父であり、その能動的要素である」という有名な立言ないしは労働価値説とペティとがそうであるように―切りはなしえないほど堅くむすびついているのである。
それにはいくつかの理由が考えられるであろうが、その一つは、ペティが創造し、みずから「政治算術」と命名した社会科学的研究方法が、同名のこの書物のなかにはじめて定式化されていること、そして政治算術が、19世紀後半以降、近世経済学・統計学の始源の一つとして―たとえば、「政治経済学が独立した科学として分離した最初の形態」(K・マルクス)、「イギリスにおける政治経済学および統計学の生みの母たる科学」(S・バウア)として―評価されてきたからであろう。統計学史においては、ペティは、その友人ジョン・グラント(John
Graunt 1620‐74)とともに、「政治算術学派」の創始者の一人とされ、この学派は、旧来の各国官府統計調査や、同じ17世紀の中葉から18世紀にかけておこったドイツの「国状学派」(Staatenkunde)・フランスの古典確率論とともに、近世統計学の源流の一つとされているのである。
こう考えると、政治算術について考究するということは、すくなくとも経済学や統計学を―したがってまた現実社会の理論的分析と統計的実証の関連を―その分化以前の始源にひきもどして考えなおすという問題につらなっている、といえるであろう。私は、ここで『政治算術』という書物の成立事情、この書物において定式化された方法、本書の構成・内容等の概要を述べ、この問題を考えすすめるための手がかりの一つとし、「解題」にかえたいと思う。
★ 成立事情
ウィリアム・ペティ(Wiiliam Petty 1623‐87)の経済学的統計学的文筆活動は、17世紀イングランドにおける二つの市民革命、すなわち1640,50年代のピュリタン革命と1688年の名誉革命とによって画される王政復古期(1660-88年)の約30年間にわたって展開された。そしてこの活動の最初の段階における主著は、王政復古にともなう税制改革に触発された 『租税貢納論』(A
treatise of taxes and contributions. Londons 1662.1662年執筆)と第二次オランダ戦争(1664-1667年)のための戦費調達の問題を論じた『賢者には一言をもって足る』(65年執筆、以下『賢者一言』と略記する)とであって、両著はいずれも公収入をめぐる諸問題を主題とする論策であり、後者は同時にオランダ凌駕論でもあった。
本書に訳出した『政治算術』は、『アイルランドの政治的解剖』(The political anatomy of lreland.London、1691.以下『政治的解剖』と略記する)とともに、そのつぎの70年代における主著であって、両著は主題を異にしているが、ほぼ同一時期に平行的に執筆され、研究方法が定式化されているという点で共通している。これにつづく第三の段階の主著としては、80年代の著作、すなわち『貨幣小論』のほか、・・・がある。この三つの段階をへて、ペティの理論・研究方法はしだいに生成発展したのである。
『政治算術』は、オランダ・フランス・イギリスの国力の比較にもとづくフランス凌駕論であり、イングランドによる世界貿易の掌握の可能性を主題とする論策である。・・・
王政復古期におけるイングランドの国際関係を特徴づける点は、この時期に、イングランドがオランダを主要敵国とする国からフランスを主要敵国とする国に転じたということである。共和国から王政復古をへてチャールズ2世の治世の前半にかけての時期(1650-74年)においては、貿易・植民地をめぐるオランダとの敵対関係が圧倒的重要性をもっていた。17世紀の初頭以来、イングランドは、いち早く市民革命を成就した新教国オランダの諸政策を模範としつつこれと競争してきたのであるが、オランダがイングランドの国内紛争(ビュリダン革命)を好機として世界貿易を決定的に掌握しようとするにおよんで、両国の伝統的な利害の対立は一層激化され、その結果、17世紀中葉以後における重商主義政策の根幹となった航海条例がしばしば強化され(1651年・63年・72年)、そのたびごとのオランダ戦争となった。すなわち、共和国の初期の第一次オランダ戦争(1652-54年)および王政復古後の第二次(1664-67年)・第三次(1672-74年)のオランダ戦争がこれである。
第二次オランダ戦争は、イングランドにとっては第一次のそれにくらべて著しい苦戦であった。1665年の大悪疫・翌年のロンドンの大火による打撃もその一因であるけれども、苦戦の根因は財政難であり、(それを合理的に打開するためにこそ、ペティは『賢者一言』を執筆したのであるが、)ブレダにおけるオランダとの講和(1667年)の直接の導因となった「チャタムにおける国難」も、戦費難がイングランド艦隊の行動を全部的に停止せしめたことからひきおこされた屈辱であった。チャタムに対して加えられたオランダ艦隊の攻撃は、首都ロンドンの攻撃を意味するものであって、このときほどイングランドが外敵の直接的脅威にさらされ、底知れぬ不安におそわれたことはなく、ロンドンの「大群衆は街頭に集まり、イングランドが売買されたと絶叫した」という。そしてブレダにおける屈辱的講和の直後から、イングランドは、オランダばかりではなくフランスの脅威をも露骨にうけるようになったのである。
フランスは、1661年以来ルイ十四世の親政のもとに絶対王制の最盛期を迎えていた。そして絶対主義的重商主義(ユルベール主義)にもとづく国内産業の振興(官立マニュファクチュア・特許会社)と輸出入統制とが徹底して強行され、それによって欧州最強の軍備(ことに陸軍)が維持され、はなはだしく侵略的であった。常時「いかなる敵国といえども単独でフランスに抵抗しうる国はなかった」という。そして第二次オランダ戦争の直後に、ルイ十四世の侵略が「豊穣な国々を貫流する三大長流の河口に位するオランダ」におよぼうとしたとき、イングランドに対するフランスの脅威はいよいよ現実の問題となり、イングランドは、1668年、フランスに対抗するためにオランダと同名をむすび、つづいてスウェーデンとも同盟した。この同盟は、三国同盟と名づけられたのであるが、オランダが新教国で共和政治の国であるということから、イングランドでは国民的支持をうけた。しかしながら、国王はこの同盟をよろこばなかった。というのは、チャールズ2世その人はルイ14世を従兄とし、フランス亡命以来ルイ14世の庇護のもとにたち、旧教の影響を強くうけている人であったからである。のみならず、王政復古の財政改革によって、国王の内帑〔ないど:王室財政〕が国家財政から切りはなされた結果、チャールズ2世は負債に苦しむことが多く、ルイ14世の財政援助をねがわざるをえない状態におかれていたからである。
「1668年から70年にかけて、国王チャールズは、〔親仏・親蘭という〕二つの外交政策のあいだに動揺したが、かれの窮極のねらいは、自分が尊敬し・うらやんでいたフランス国王と好条件で同盟することであった。」そこでチャールズ2世は、三国同盟を無視してルイ14世とのあいだに「イギリス外交史上もっとも恥ずべき」ドウヴァの秘密条約を1670年6月にむすび、ルイ14世からうける補助金やイングランドに起こりうる内乱にさいしての無償の派兵等の代償として、イングランドにおける旧教の復興・自分自身の旧教への改宗・フランスのオランダおよびスペイン侵略に対する軍事援助等を約した。そしてチャールズ2世は、この条約を履行するために1672年3月に信教自由令を発し、その直後に、ルイ14世のオランダ侵入に呼応して、第3次オランダ戦争を宣したのである。
国王のいわば「個人的取引」によってひきおこされたこの戦争は、オランダと同盟しているイングランドにおいては国民的支持をえがたい戦争であって、それだけに財政難は著しかった。それにこの戦争の主要局面は蘭・仏の陸戦であった。そこでイングランドは、1674年、ウェストミンスタにおいてオランダと単独に講和し、その後4年以上もつづいたフランスのオランダ侵略を好機として、第二次オランダ戦争で獲得した貿易・植民地に開する地歩を強固にしたばかりではなく、英・蘭の伝統的競争において最後的な勝利をおさめ、海上貿易の覇者としてのオランダの後退を決定的ならしめる基礎をきずいたのである。またその反面において、この戦争を契機に、フランスがイングランドの主要敵国として一層明瞭な姿で登場することになるのである。この意味で、第三次オランダ戦筝は、蘭・仏・英の国際関係の推移にとっての歴史的な戦争であったといわねばならない。のみならず、この戦争を契機として、チャールズ2世の専制的支配は完全な失敗に帰し、国王はふたたび議会に依存せざるをえなくなった。そしてこのことを端緒としてウィッグ・トーリ2政党が一層明瞭な姿をとって形成され、名誉革命にむかって一歩前進するのであって、この意味においても、第三次オランダ戦争がおわった「1674年は、チャールズ2世の治世史の分水嶺をなしているのである。」
『政治算術』を執筆した常時、ペティはアイルランドにおける大土地所有者として、自分の所有地の開発、ひいてはアイルランドの産業開発に力をそそいでいた。王政復古期のアイルランドは、1641年以来の大反乱・クロムウェルによる空前の大収奪・悪疫・飢きんのひん発等のために、文字どおり荒廃に帰した直後であって、イングランドでは新植民地の放棄論さえおこなわれるありさまであった。しかしこの時期にこそ、名誉革命以降におけるアイルランドの貧困化・イングランドヘの隷属化の基礎がおかれたのであって、それはアイルランド産業の抑圧のための一連の重商主義的諸政策によって実現されつつあったのである。そしてペティは、みずからうちたてた租税公平の原理にもとづき、常時のアイルランドにおいて支配的であった租税徴収請負制度に反対したばかりではなく、右の産業抑制政策の根幹をなしていた家畜法や、この時期を端緒とする不在地主制度に対して強硬に反対した。のみならず、プレダの講和がむすばれた1667年以降ダブリンに定住し―アメリカ植民地の経営に着手しようとしていたウィリアム・ペンと提携して―みずからの所有地にイングランド人新教徒を植民して、製鉄・製鉛・製材事業を中心とする近代的「工業植民地」を建設していた。
そしてアイルランドの旧教徒とイングランドの新教徒とを人種的に融合せしめ、両国の実質的な合邦統一を実現し、イングランド王国の富強の成就に寄与せしめようとしていたのである。そしてこの理想を、政治的解剖という方法にもとづいて実証的に示したのが『政治的解剖』にほかならなかったのである。
以上のように、当時のペティは、イングランド王国の富強の成就に甚大な関心をもつ一人の大土地所有者であり、植民事業家であった。しかも、かれが当時王立協会において、船舶・染色技術・力学・数学等に関する諸問題について報告し、1673年にはこの教会の副会長に選任されたことや、1670年代に執筆した30余篇の小論・断片にあらわれているように、この当時におけるかれの「自然体」・「政治体」に関する学問的興味は、一層広範なものとなっていたのである。したがって、『政治算術』と『政治的解剖』とは、一人の研究者というよりもむしろ以上の意味における一人の経世家としてのペティが、当時のイングランド社会のもっとも中心的な問題と取組んで執筆した著作であるといわねばならない。
Ⅱ. 『政治算術』 抄 録
(1) 序
1. 私がこのことをおこなうばあいに採用する方法は、現在のところあまりありふれたものではない。私は、比較級や最上級のことばのみを用いたり、思弁的な議論をするかわりに、自分のいわんとするところを数(Number)・重量(Weight)・または尺度(Measure)を用いて表現し、感覚にうったえる議論のみを用い、自然のなかに実見しうる基礎をもつような諸原因のみを考察するという手続きをとったからである。
2. この論文の主要な結論はつぎのごとし第1章 小国で人民がすくなくても、その位置・産業および政策いかんによっては、富および力において、はるか多数の人民、はるか広大な領域に匹敵しうること。それにはとくに航海および水運の便が、もっとも著しく、またもっとも根本的に役立つこと。
第2章 ある種の租税および公課は、公共の富を減少せしめるというよりも、むしろ増加せしめること。
第3章 フランスは、自然的にして永久的な障害があるため、イングランド人またはオランダ人より以上に、海上では優勢たりえないこと。
第4章 イングランド国王の人民および諸領域は、その富および力に関して、フランスのそれらと自然的にはほぼ同じ重要さがあること。
第5章 イングランドの偉大さにとっての諸障害は、偶然的にして除去しうるものにすぎないこと。
第6章 イングランドの権力および富は、ここ40年以上のあいだに増大したこと。
第7章 イングランド国王の臣民の全支出の10分の1で―もしこれが規則的に課税・調達されるならば―優に10万の歩兵、3万の騎兵、4万の水兵を維持し、経常・臨時の両方についての政府の他のいっさいの経費をまかなうことができること。
第8章 イングランド国王の臣民のなかには、現在よりも1年当たり200万〔ポンド〕多くを稼得しうる遊休の人手が十分あること、そしてこの目的のためにいつでも役だつ適当な仕事口も十分あること。
第9章 この国民の産業を運営してゆくに足るだけの貨幣があること。
第10章 イングランド国王の臣民は、全商業世界の貿易を運営するために、十分な・しかも便利な資材をもっていること。
(2) 第1章
オランダの位置
1. 第一の主要な結論のうちのこの部分は、ほとんど立証を必要としない。1エィカの土地でも、地味の相違いかんによっては、20エィカの土地と同量の穀物を生み、または同数の家畜を養う。さらに、悪質な土地も改良して良質な土地となしうるし、沼地も排水して牧草地となしうる。荒地も亜麻やクロウヴァがとれるようにすれば、その価値を1から100に増進させうるからである。・・・ 土地および人民に関する以上の差異が、主としてそれらの位置・産業および政策に由来するということを明らかにする。
2. オランダおよびジーランドとフランスの比較
今日、オランダおよびジーランドは、フランスのわずか80分の1しか富かつ強い〔土地面積比で〕のではなくて、3分の1またはほぼそのくらいにまで進歩しているということ。
3. 約200万トンにのぼるヨーロッパの船舶の価値であるが、フランスとオランダおよびジーランドのそれのみについていえば、約1対9〔フランス10万トン:オランダ90万トン〕となり、東インド会社におけるオランダの資本は、300万ポンド以上の値いがあり、フランスは全然これを所有していない。
4. フランスから全地域へ輸出される貨物の価値は、イングランドだけに送られる貨物の価値の4倍だと想像されている。その結果として、全部で約500万ポンドということになるが、オランダからイングランドへ輸出されるものの値いは300万ポンド、そのほかさらにオランダから世界中へ輸出されるものは、この6倍におよぶ。・・・
5. 以上、全体として結論するならば、つぎのように思われる。すなわちフランスが、人民についてはオランダおよびジーランドに対して13対1、または良質な土地の面積については80対1であろうとも、フランスの方が13倍だけ富みかつ強力でもなければ、いわんや80倍もそうなのでもなく、3倍をあまりこえてはいないのであって、これが立証を必要としたことなのである。
6. これにつづいて挙示すべきことは、富および力の改善に関する差異が、各地方の位置・産業および政策、そしてとくに航海および水運の便に由来する、ということである。この問題について、私はオランダ人がなしとげた偉業の基礎は本来的にはこの国の位置にある、と考え、この基礎のおかげで、オランダ人は他国人の追随をゆるさぬようにしていると考えるのである。
7. 第一、オランダおよびジーランドは低地であって、その地味は豊穣・肥沃である。このために、土地は多数の人を養うことができ、したがって、人は相互に助け合って交易するために、隣り合って生活しうるのである。・・・
第二に、オランダは平坦な国であるから、いたるところの地方に風車を設けることができる。またこの国は湿潤で蒸気が多いから、いつでも風が吹きとおしている。このような利益があるために、いく千もの人手の労働が節約できる。・・・この便益の値いは15万ポンドにちかい。
第三に、農業よりも製造業が、また製造業よりも商業(Merchandize)がずっと多くの利得がある。オランダおよびジーランドは、三大長流―しかも豊穣な国々を貫流する―の河口に位置しているので、これらの河流の両岸にいる住民を農夫にすぎぬ者としておき、その反面、みずからはこれらの農夫の諸物品の製造業者となり、しかもこの諸物品をほとんど自分たちの意のままの価格で世界中の全地域に分配し、それによって収益をあげているのである。
約言すれば、オランダおよびジーランドは、右の河流が貫流している国々の産業のかぎを握っているのであって、私はこの第三の便益の価値を20万ポンドと想像する。
第四に、オランダおよびジーランドにおいては、どのような仕事場または営業所でも、航行可能な水面から1マイルとへだてているものはほとんどなく、しかも水上運送の経費は、陸上運送のそれの15分の1または20分の1にすぎないのである。・・・この便益の価値を、1年当たり30万ポンドと私は推計する。
〔また、〕オランダで非常に重要なことは、小額の人件費および碇泊用具費で船を港にとめられるということであって、このためにオランダは、フランスではどうしてもかかる費用を1年当たり20万ポンド節約している。そこで、かりに以上すべての自然的諸利益が、1年当たり100万ポンドをこえる利潤(Profit)に達するとすれば、しかもわれわれヨーロッパ人がいとなむ全ヨーロッパの貿易、いな全世界の貿易が1年当たり4500万ポンドをこえないとし、この価値の50分の1〔90万ポンド〕が利潤の7分の1(利潤630万÷7=90万ポンド)であるならば、オランダ人が全貿易を指揮し、支配しうるということは明白である。
8. このように、海に面して位置し、本国に魚類が豊富で、航海についての支配権をも握っている者は、その結果として漁業をもわがものとしているが、そのうちにしん漁業一つとってみても、それが年々オランダ人にもたらす利潤は、西インド貿易がスペインにもたらし、また東インド貿易がオランダ人自身にもたらす利潤以上のものであって、多くの人が確言するところによれば、オランダ人がいうとおり、1年当たりおよそ300万ポンド以上の利潤であるとのことである。
(3) オランダの産業
以上、私はオランダの位置を終わったので、今度はその産業について述べよう。
1. 一般に見うけられることであるが、各国は、その国産品の製造によって繁栄するものであって、イングランドの毛織物・フランスの紙・リエージュの鉄器・ポルトガルの菓子・イタリーの絹がすなわちこれである。これ原理からすれば、オランダとジーランドは、航海業(Trade
of Shipping)によってもっとも繁栄し、したがってまた貿易界全体の仲立人になり、問屋にもなるという結果になる。
2. ところで、航海業の利益はつぎのとおりである。すなわち、農夫・海員・兵士・工匠および商人こそは、いずれの国家社会においても、まさにその大黒柱であって、他の多数の職業のすべては、大黒柱たる人たちの病癖や失策から発生するものである。ところで、海員は右の四者のうちの三者をかねるものである。というのは、勤勉で、創意に富んだあらゆる海員は、船乗りであるばかりではなくて、商人でもあるし、また兵士でもあるから。そのわけは、海員は、戦う機会、つまり武器を手にする機会がしばしばあるからではなくて、生命や四肢にもおよぶような苦難や危険にならされているからである。・・
3. イングランドの農夫は、1週当たり4シリングしか稼得しないのに、海員は賃金・食料(および家屋のような)他の諸設備の形で事実上12シリングをえているのであるから、一人の海員は、けっきょく3人の農夫に相当するのである。それゆえ、なるほどオランダおよびジーランドには穀物の耕作・播種あるいは幼畜の飼養がほとんどおこなわれていないが、その土地は、家屋・船舶・機械(Engine)・堀・波止場・遊園地をつくり、珍奇な花や果実を栽培することによって改良され、〔また〕家畜の搾乳および飼育のために、〔さらに〕あぶらな・亜麻・あかね等々のために改良されているのであって、〔これらは〕種々の有利な製造業の基盤である。
4. 産業の偉大にして終局的な成果は、富一般ではなくて、とくに銀・金および貴石の豊富である。銀・金・貴石は、腐敗しやすくないし、また他の諸物品ほど変質しやすくもなく、いついかなるところにおいても富である。ところが、ぶどう酒・穀物・鳥肉・獣肉等々の豊富は、そのときその場かぎりの富にすぎない。それゆえ、その国に金・銀・貴石等々を貯蔵せしめるような諸物品を産出すること、またそのような産業に従事することは、他のいずれよりも有利である。そして海員の労働および船舶の運賃というものは、つねに一種の輸出品なのであって、輸入額をこえるその余剰は、本国に貨幣等々をもたらすのである。
5. オランダ人が採用している第二の産業政策または産業援助は、土地および家屋の権利名義を安全確実にする、ということである。・・・登記制度をイングランドへ導入することについては、従来多くの論議があったが、登記制度がないために詐欺的資産譲渡のために、どれほどの金額または価値が購買者の損害となっていたかを、調査をすればよいのである。・・・
第4章
イングランド国王の人民および諸領域は、その富および力に関して、
フランスのそれらと自然的にはほぼ同じ重要さがあること。
以上、イングランドとフランス両国の領域・人民・余剰利得および領土の防衛の難易について述べ、さらに船舶・航海業および港への近接性に言及しつつ両国の貿易についてもある程度述べてきたが、つぎにわれわれは、両国の貿易についてもっとたちいって述べよう。
1. イングランドとフランスの外国貿易の比較
ある人は、全世界の人民は3億をこえない、とみつもっている。果してそうかどうか、是非とも知らねばならぬほどの重大事ではないが、私は、イングランド人およびオランダ人が通商(Commerce)している人民は8000万をこえない、と憶測するはっきりした根拠をもっているし、また一層適確にそれがわかればうれしいと思う。
私の知るかぎりでは、イングランド人およびオランダ人が貿易していない国と直接または間接に貿易しているようなヨーロッパ人は一人もいないから、全商業世界すなわち貿易世界は、前述のように約8000万の人間からなりたっているのである。
そして私はさらにみつもるのであるが、この8000万人のあいだで年々交換されるいっさいの物品の価値は、4500万〔ポンド〕の価値をこえまい。ところが、全国民の富は、ふつうの肉類・飲料および衣服等についておこなわれる国内交易-これは金・銀・貴石その他の普遍的富をほとんどもたらさない―よりも、むしろ主として全商業世界との外国貿易におけるかれらの分けまえに存するのであるから、われわれは、果してイングランド国王の臣民が、一人対一人では、フランスのそれよりも一層大なる分けまえをもっていないかどうか、ということを考察しなければならない。
2. イングランドから世界各地へ
この目的のためにすでに考察されているところによると、イングランドから世界各地へ年々輸出される羊毛製品、すなわち、あらゆる種類の服地、サージ・ラシヤ・綿織物・粗ラシャ・薄セル・フライズ・パーペテュアナス(1)、また同様にくつした・ぼうし・じゅうたん等々は―イングランド・スコットランドおよびアイルランにから輸出されるが―1年当たり500万〔ポンド〕にのぼる、ということである。
(1)パーペテュアナスは、16世紀以降イングランドでつくられた耐久力ある毛織物。鉛・すずおよび石炭の価値は50万ポンド。いっさいの服地・世帯道具等々で、アメリカにもちこまれるものの価値は二十万ポンド。スペイン人からうけとられる銀および金の価値は6万ポンド。アメリカの南部諸地方からもたらされる砂糖・あい・タバコ・棉花およびカカオの僧値は60万ポンド。ニュー・イングランドおよびアメリカの・北部諸地方からもたらされる魚類・おけ板・マスト・ビーヴァ等々の価値は20万ポンド。アイルランドから輸出される羊毛・バタ・獣皮・獣脂・牛肉・にしん類およびさけの価値は80万ポンド。スコットランドおよびアイルランドからもちだされる石炭・藍・亜庶布・毛絲・にしん類・さけ・亜麻織物および〔亜麻〕絲の価値は500000ポンド。東インド諸島からもちだされる硝石・こしょう・キャリコ・ダイヤモンド・薬種および絹の価値は、イングランドで費消されるものをのぞいて80万ポンド。
わがアメリカ植民地で使役するために、アフリカからつれだされる奴隷の価値は2万ポンド、これに諸外国と貿易するイングランド船舶の運賃150万〔ポンド〕をあわせると、全部で1018万ポンドとなる。以上の計算は、3王国の関税によって十分正当とされている。そしてその内在的価値(intrinsick
value)は1年当たりほぼ100万〔ポンド〕、すなわち、60万ポンドは国王に支払うべきもの、10000ポンドは徴収費等々と考えられ、また通例の見解や人のいいならわしによると、20万ポンドは商人によって密輸され、10万ポンドは徴税うけおい人の利得である。しかもこの敬さんは、世界の全貿易のなかで、イングランド国王の臣民がわがものとしているその比例または部分だと私がみつもったところ、すなわち4500万〔ポンド〕中の1000万〔ポンド〕とも合致しているのである。
3. フランス
しかしながら、イングランドにもちこまれるフランスの諸物品の価値は、(現在おこなわれているいくつかのみつもりにもかかわらず、)1年当たり120万ポンドをこえてはいないし、またその他の全世界に輸出されるものの価値は、〔右の〕3,4倍をこえるぼどではない。そしてこの計算もまた、われわれがフラソスの税関からえた勘定と十分よく合致する。それゆえフランスは、イングランドが輸出する価値の2分の1以上を輸出してはいない。
そして、フランスの物品のすべては、(ぶどう酒・ブランディ・紙および衣服用の最新の見本や型、さらに家具(フランスはこれらの物品の製造元である)をのぞけば、イングランド人がまねのできるものであり、しかも〔フランスは〕イングランドよりも人民が多いから、イングランド等々の人民は、一人対一人では、フランスの人民の3倍だけの外国貿易を掌握し、さらに全商業世界の貿易の約9分の2、全船舶の約7分の2を掌握している、という結果になる。以上すべて〔の事実〕があるにもかかわらず、フランス国王およびフランスのいく人かの偉大な人たちが、イングランドにおける同性質の人たちよりも一層富裕で壮麗に見えることは否定できない。
このことのすべては、かれらの富および力の内在的にして自然的な諸原因に由来しているというよりも、むしろその統治の性質に由来しているのである。
・・・以上第4章、ならびに『政治算術』を終わります。・・・
→ ・『租税貢納論』