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文献資料 ヘーゲル自然哲学


エンチュクロペディ- 

 

  ヘーゲル 『自然哲学』  (初版1817年、第3版1830年)
 
             加藤尚武訳 岩波書店 1999年発行

 
目 次 
 第1部 力 学
 
第2部 物理学
 第3部 有機体の物理学  

     ・・・・・・

  
第1部 力 学

 §253
 力学が考察するのは、以下のものである。
 
 全く抽象的なばらばら状態-これが空間と時間である。
 
 空間と時間という抽象のなかでの、個別化されたばらばら状態とその関係、すなわち、物質と運動-これが有限な力学である。
 
 もともと自体的に存在する概念の自由(遊離態)における物質、すなわち、自由な運動の状態に置かれた物質-これが絶対的な力学である。

 
補 論
 中心が自分の外にある状態(自己外存在)は直ちに二つの形式に分裂する。一つは積極的であり、空間である。もう一つは否定的であり、時間である。第一の具体的なものは、こうした抽象的な契機の統一と否定であるが、これが物質である。物質はその契機に関係するが、物質そのものが相互に関係し、運動の内にある。こうした関係が外的ではなくて、われわれは物質と運動の絶対的な統一、自己運動する物質をもっている。

  A 空間と時間

   
a 空間
   
  
§ 254
 自然の最初の、あるいは直接的な規定は、自然のばらばら状態の抽象的な普遍性、――すなわち、この中心が自分の外にある状態(自己外存在)の無媒介な無関係性、空間である。空間は中心が自分の外にある状態(自己外存在)であるから、全く観念的な相互併存状態(Nebeneinander)であり、空間はまた、このばらばら状態がまだ全く抽象的で、一定の区別を自分自身のうちにもっていないから、端的に連続的である。

 空間の性質に関しては以前からいろいろと論じられてきた。私はここでカントの規定だけを挙げよう。カントよれば、空間は時間と同様、感性的な直観の形式である。そこでまた、空間を単に想念(表象)における主観的なものとみなさなければならないということを根本とすることが、当たり前になってしまった。
 カントの空間概念から主観的観念論とその規定とに属するものを無視すれば、正しい規定が残る。それは、空間は単なる形式、つまり一つの抽象であるが、ただし直接的な外面性という抽象であるという規定である。空間上の点を空間の肯定的な要素であるかのように言うのは、適切ではない。というのは、空間は、区別をもたないから、ばらばら状態のただ可能性だけで、その画定された在り方((lesetztsein)ではない。そして、空間は否定的なもので、したがって全く連続的だからである。だから、単独の存在である点(Punkt)はむしろ、空間の否定、それも空間のなかで画定された(gesetzt)否定である。空間の無限にかんする問題もここから解決される(第100節の注解)。空間は一般に純粋な量である。もはや単に論理的な規定としての量ではなく、直接的かつ外面的に存在する量である。-だから自然は質的なものから始まるのではなく、量的なものから始まる。というのは、自然の規定は論理的な存在とは違って、抽象的な最初の、直接的なものではなく、本質的に、すでにそれ自身の中で媒介された外的な存在・身代わり(他在)だからである。 

 
§256
  ・・・略・・・
 ついでに記しておいてもよいと思うが、カントは妙なことを思いついた。すなわち、直線は2点間の最短距離であるという直線の定義は総合命題であると主張した。というのは、直線にかんする私の概念は量を含まず、単に質にすぎないからだという(注)。こういう意味でなら、どの定義も総合命題である。直線という定義対象は、はじめはようやく直観や表象にすぎない。直線は二点間の最短距離であるという規定が、はじめて概念が(すなわちこのような定義にあらわれるような概念、第229節参照)を形づくる。概念が直観のうちにすでに存在しているのではないということが、概念と直観の区別である。この区別があるから定義の要求が出される。しかし、この定義が分析的であるということは、たやすく明らかになる。というのは、直線は方向の単純性に還元されるが、この単純性は、量との関係では、最小量の規定、ここではすななち最短距離という規定を与えるからである。
 (注) 「″直線は二点間の最短距離である″ということは総合的命題である。なぜなら直というわたしの概念は、量にかんする何ものも含んでおらず、ただ質を含むだけだからである。」『純粋理性批判』B16ページ。

 
補論 
 直線だけが、空間性の最初の規定である。曲線は、もともと自体的に同時に二つの次元の内にある。円では、れわれは第二ポテンツ(二乗)の線をもつ。第二の否定として、面は二つの次元をもつ。「二」は、「第二」[序数]にも含まれるが、2[基数]にも含まれるからである。

 幾何学という学問は、ある規定が前提されたときにどのような規定が帰結するかを見つけなければならない。肝心な点は、前提された規定と依存的な規定とがひとつの展開された統合[幾何子体系]を形づくるということである。幾何学の定理では、全体が措定されていて、その全体がその[こまかい]規定性のなかで表現される。三角形についていえば、三角形が完全になるための二つの定理が存在する。α)三角形の、少なくとも一辺を含まなくてはならないが(三つの場合がある)、どれか三つの要素を選べば、三角形は完全に規定(決定)される。この場合に幾何学は、この条件のなかで合同となるはずの二個の三角形を考えるという回り道を採る。すると思い浮かべる(表象する)のはらくになる。しかし、これは余計である。本当のところは、命題のためには一つの三角形を使っているにすぎない。この三角形には、最初の三つの要素が決定されれば、他の三つの要素も決定されるという関係が含まれている。三角形は、二辺夾角もしくは二角一辺等などによって規定(決定)される。この最初の三つの要素こそ規定性もしくは概念である。残りの三つの要素は三角形の外的な実在性に属し、概念にとっては余分なのである。このような措定では規定はまだまったく抽象的で、依存性一般が存在するに過ぎない。つまり、この三角形の要素の大きさというような規定された規定性の関係がまだ欠けている。

この関係は、β)ピタゴラスの定理では達成されている。ピタゴラスの定理は、三角形の完全な規定性である。なぜなら直角[三角形]だけがその両脇の角[の和]がそれに等しいというかたちで、完全に規定されるからである。この命題は理念の像として、他のあらゆる命題にたいして傑出している。自己内で区分された全体がある。哲学の中ではどの形態も概念と実在性として内在的に(自己内で)区分されているのと同様である。同一の量が、ある時は斜辺の二乗として存在し、また対辺の二乗として、区分されている。半径の方程式としての円のもっと高級な定義は、区別が円に見られるということである。こうすれば円の完全な規定性が得られる。こうしたことは分析的な取り扱いのなかで起こっている。これはピタゴラスの定理の内に存在したことにほかならない。対辺が正弦と余弦――もしくは横線と縦線――となり、底辺は半径となる。こうした三つのものの関係が規定性である。それはしかし最初の定義にあったような単純なものではなくて、区別されたものの間の[相互的な]関係なのである。ユークリッドは彼の[原論の]第一部をピタゴラスの定理で閉じている。この後の関心は、違ったものを同じものに還元することに向かう。というわけで第二部をユークリッドは直角三角形を正方形に還元することで終えている。一つの底辺に無数の直角三角形が可能であるように、一つの正方形に対しては多くの直角[三角形]が可能である。どちらもが対している場所は円である。これが抽象的な悟性の学問としての幾何学が学問を遂行する
仕方Weiseなのである。
. Dies ist die Weise, wie die Geometrie, als abstrakte Verstandeswissenschaft wissenschaftlich verfährt.


  
§261   [場所 Ort ・運動 Bewegung ・物質 Materie]  (p.69)
           〔運動と「 空間 Raum と 時間 Zeit 」の関係〕

 補 論
 
1.・・・空間と時間の直接的に同一的な現存在する統一、これが、すなわち物質である。
 
2.・・・運動の本質は空間と時間の直接的な統一であるということである。運動は空間を通じて実在的になる。つまり、時間を通じてはじめて真実に区別された空間である。
 このように運動には空間と時間が帰属していることが分かる。速度、運動の量は、過ぎ去った一定の時間との比における運動の量である。運動は空間と時間の関係だという人もいる。この関係のもっと詳しい仕方を把握しておくべきだった。 
運動のなかで時間と空間ははじめて現実性をもつ
 
3.・・・表象のなかではわれわれはつぎのような考えをもつ。
 「運動があるので、何かが動く。この持続する何かが、しかし、
物質なのだ。空間と時間は物質で満たされている。」空間はその概念に一致しない。だから物質のなかで自分に現存を作り出すというのが、空間そのものの概念である。人はしばしば物質から始めて、空間と時間を物質の形式だとみなしてきた。この点にかんして、物質が空間と時間に関わる実在的なものであるということは正しい。しかし、空間と時間は、それが抽象的であるために、ここでは最初のものとして登場してくる。その上で、物質がそれらの真理であるということが示されなくてはならない。物質のない運動はない。同様に、運動のない物質もない。運動は時間から空間へ、空間から時間への移行という過程である
 物質は、これに対して静止的な同一性としての空間と時間の関係である。
物質は最初の実在性である。現存在する単独(対自)存在である。物質はたんに抽象的な存在であるだけでなく、空間の積極的な存立である。ただし、他の空間を排除している。・・・(p.70)


 
B 物質と運動 有限な力学

 
a 慣性的物質
 
§263   (p.76)
 物質はさしあたりたんに普遍的で直接的なものとして、たんに量的な区別をもっているだけで、さまざまな定量に特殊化されている。これが
質量(Masse)であるが、質量は、一つのまとまった全体とか一とかという表面的な規定を受けた場合には、物体(Koerper:Körper)である。物体もまた、同じように直接的にはその観念性と区別される。しかも物体は、本質的に空間的で時間的である。しかし空間の中、時間の中にあるものとして空間的で時間的である。物体は、時間空間というこのような形式に無関係なその内容として現象する。


 
C 絶対的な力学

§271
   (p.126)
 
物質の実体、すなわち重さが、形式の統合へ展開されれば、もう物質が自己外中心(自己外存在)を自己の外にもつことはない。形式は、さしあたりはその区別に従って、空間、時間、運動という観念的な規定として現象する。次には、その単独の在り方に応じて、自己の外に存在する物質の外部に規定された中心として現象する。しかし展開された統合では、このようなばらばら状態は、端的に統合によって規定されたものとして措定されており、物質は、このように規定されたそのばらばらの在り方の外部にあるわけではない。形式はこのようにして物質化されている。逆に見れば、物質は、このように自己の[他者に中心をもつ]自己外存在を統合において否定することによって、以前にはたんに求められていたにすぎない中心、その本来の自己、形式による規定態を自らその身に獲得してしいる。物質の抽象的な隠れた自己内存在が重さ一般であるが、今やこの内部中心(自己内存在)が形式へと展開されている。物質は、いまや質を賦与された物質である。―これが物理学 Physik である。

補 論 
 われわれはこのように、第一部を終えた。力学はこのように独立に一全体を構成する。
デカルトは「我に物質と運動とを与えよ、しからば、我は世界を造らん」(訳者注)と述べ、力学的観点を第一のものとして、これから出発した。力学的観点がいかに不十分であっても、それだからといって、デカルト的精神の偉大さが見誤られてはならない。物体は運動においては点としてあるにすぎない。重さが規定するものは全く点相互の空間的関係である。物質の統一はただ、それが求める場所の統一であって、具体的な一、自己ではない。これがこの圏域の本性である。・・・
・・・実在的単独的存在はまさに単独的存在の展開の統合である。そしてこのことはまた、物質における形式の自由化として表わされうる。太陽系を構成する形式規定は物質自身の規定である。そしてこの規定が物質の存在を構成する。規定と存在とはこのようにして本質的には同一である。これこそ、しかし、質的なものの本性である。なぜなら、もしここで規定が除去されれば、存在もまた消滅するからである。これが力学の物理学への移行である。(p.128)

(訳者注) デカルトの『方法序説』や『哲学の原理』に同じ趣旨の言葉はあるが、文字どおりのものはない。

 >> ヘーゲル 『自然哲学』 第2部 物理学

 >> ヘーゲル 『自然哲学』 第3部 有機体の物理学