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文献資料 ヘーゲル自然哲学

  ヘーゲル 『自然哲学』 
 
         加藤尚武訳 岩波書店 1999年発行

 
目 次 
 第1部 力学
 第2部 物理学
 第3部 有機体の物理学

    ・・・・・

 第3部  有機体の物理学

 
§337   (p.432)
 物体の実在的な統合が無限な過程として成り立つ場合には、個体性[個物]は、自分を特殊性すなわち有限性へと自分を規定しはする。同時にまたこの有限性を否定して自分自身のうちに帰り、過程の終わりで自分をふたたび始めの状態へと復活させる。したがって、このような統合は、自然が示す最初の観念性への高揚である。しかしこの統合はすでに、満たされた統合であり、本質的に、自分自身へと関係する否定的な統一として、自己としての主体的な統合である。したがって理念は、すでに現存へと到達している。まず差し当っては直接的な現存に到達している。すなわち、生命に到達している。

 
 生命は、形態すなわち生命の普遍的な形姿としては、地質学的な有機体である。
 
 生命は、特殊な形式的な主体性としては、植物的な有機体である。
 
 生命は、個別的な具体的な主体性としては、動物的な有機体である。
 動物的な有機体がはじめて、形態化の区別の中で展開される。これらの区別されたものは、本質的にただその有機体の肢体としてだけ現存する。またこのことによって有機体は、主体として存在する。生命力は、自然の生命力としては、不特定の多数の生きたものへ分裂している。
これらの生きたものは、それ自身の側で主体的な有機体である。これら生きたものが一つの生命、一つの有機的な生命体系であるのは、ただ理念のうちでのみである。・・・・


  A 地質学的な自然

§338
 (p.440)
 最初の有機体は、それがまず差し当たって、直接的な有機体、すなわち、もともと自体的に存在する有機体として規定されている以上、生命体として現存するのではない。 生命は、主体・過程となったときに、本質的に自分を自分自身と媒介する活動である。主体的な生命から見れば、特殊化の最初の契機は、
[1] 自分を自分自身の前提とすること[同一性]であり、
[2] こうして自分に直接性という在り方[個体]を与え、
[3] 直接性のなかで、自分の条件と外面的な存立に自分を対抗させること[非有機的自然に対する個体の存立]である。内にひそんだ自然の理念を、主体的な生命力へ内面化し、そしてさらに精神的な生命力へと内面化[想起]することは、[一方に]自己と[他方に]その過程のない直接性[という二つのもの]への根源的な分割[判断]にほかならない[霊肉・心身分離の成立]。主体的な統合から前提された、直接的な統合は、有機体のたんなる形態にすぎない。--これが、個体的な物体の普遍的な体系としての地球という物体である。

補 論  (p.440)
 化学的な過程ですでに、地(球)は現にこのような統合体として存在している。地球の特別なさまざまの物体の内へと普遍的な諸元素が進んで行く。
それらの諸元素は、ある点では過程の原因であり、ある点では過程の結果である(第328節補論第1段落)。この運動はしかし抽象的であるにすぎない。なぜなら、さまざまの物体が特殊的であるにすぎないからである。たしかに今や地球は統合体である。なぜならば地球はただもともと自体的(即自)にだけこれら物体の過程だからである。そこでこの過程はその永続的であるような所産の外部に属することになる。内容に即して言えば生命に属するどのような規定も[地球には]欠けてはいない。しかし地球は外面性という在り方の中にあるので、主体性の無限の形式は欠けている。地球は生命によってその基盤として前提されている。地球は確定され(gesetzt)てないものとして確定されている。なぜならば確定性が直接性で擬装されてしまっているからである。そこで他者とは、こうした前提が自分を解消するということ[の結果]である。

§339  (p.441)
 このような、自体的に存在するにすぎない有機体では、その分肢は、したがって生命過程を自分自身のうちに含まず、外面的な組織系を形づくっている。この組織系の形成物が、根底にある理念を展開する。しかし組織系のこの形成過程は、過去の過程である。―-自然は、この形成過程の契機となるさまざまの力を、地球の彼方に自立的なものとして放置した。これらの力のあらわれが、
[1]太陽系のなかで地球が占める関連と位置、
[2]地球のもつ、太陽的、月的、彗星的生命、
[3]地球の軸の軌道と磁軸に対する傾きである。
 地球は、海と陸に分かれる。陸は、北部では寄り集まって広がる。その南方へ分かれた部分は先細りになっている。これらはさらに旧世界と新世界に分かれる。旧世界はさらに、物理学的、有機的、人類学的性格によってそれぞれ差別され、また新世界とも差別された大陸に分かれる。・・・


§341  (p.464)
 生命のこのような結晶が、すなわち、地球というこの死んだまま横だわっている有機体である。この有機体は、自分の概念を、自分の外部に、星の連関のなかにもっている。この有機体は、その固有の過程を、しかし前提された過去としてもっている。
この有機体が、気象学的な過程の直接的な主体となる。この主体は、生命のもともと自体的に存在する統合ではあるが、もはやたんに個体的な形成物(第287節参照)になるのではなく、この気象学的な過程によって実を結んで生動性となる。―-陸と、そして特に海は、生命の実在的な可能性であるから、あらゆる地点で無限に、点のような一時的な生命力を生み出す。ー-たとえば、地衣類や、滴虫類、燐と化合する海中の無数の生命の点を生み出す。しかしこの過渡的発生(generatio aequivoca )(訳注)は、その客観的な有機体制を自分の外部にもっている。したがって、この発生は、自分の内に規定された分肢を形成するまでには発展しないような有機化、またみずから(卵からex ovo)再生産することもないような有機化という点状態に限られている。

  (訳注) 過渡的発生(generatio aequivoca)とは、いわゆる「自然発生」のこと。先行する生命体がない状態から、有機的生命が発生してくる。

補 論  (p.468)
   ・・・・・・・
 海そのものは空気よりももっと高次のこの生命性であり、苦みと中和性と溶解の主体である。--それは一つの生命的過程であって、この生命過程はつねに、生命へと踏みでる跳躍をしようとしている。しかし、この生命は繰り返し繰り返し、水へと逆行する。なぜなら、水はあの[生命的]過程のいっさいの契機を包含しているからである。すなわち、主体の点、中和性、およびあの主体が中和性へと解消することという契機を水は包含している。固定的な地が肥沃であるのと同様に、海も肥沃である。そしてこのことは[地の場合よりも]さらにもっと高い度合いにおいてである。海と陸とが示す普遍的な賦活様式は過渡的発生(generatio aequivoca)である。これに対して、本来の生命性はある個体の現存のために、その個体の[同じ]類のもう一つの個体を前提する(単一的発生generatio aequivoca)。「すべての生物は卵から生ず」(omne vivum ex ovo)という命題は受け入れられた。・・・・

 海は泉のわき水や塩水とは別のものであり、たんなる食塩ではなくて、苦味塩を含んでいる。このような海は、有機的なものとしての具体的な塩辛さである。有機的なものは、どこでも自分を産むものとして示す。・・・海はこの特有の腐敗臭をもっている。―-いわばつねに腐敗の内へ溶解している生命である。船乗りは夏になると海の盛りについて語る。七月、八月、九月には、海は不純になり、
濁って粘液質になる。大西洋の西側では、バルト海よりもひと月早くそうなる。海は無限に多くの植物的な点、糸、面状のもので満ちている。それは、植物的なものの内へ吹き出ようとする傾向である。海はよりいっそう高められて刺激されると、途方もない距離で燐光を発する光の内へ吹き出る。―-それは、単純な統一の内へ自分をとり集めている表面的な生命である。・・・

 しかしまた海の表面全体も、一部では無限な照り返し(Scheinen)であり、一部では測り知れず見通すことのできない光の海であって、この光の海は、それ以上有機組織化されない純粋な生きた点からなる。そこから水を取り去るならば、この生命性は即座に死滅する。そして、植物的生命の始まりである
ゲル状の粘液が残る。海は上から下までこのような粘液で満たされている。すでにどの発酵においてもすぐに小動物が示される。しかし、まして海は次にまた、規定された形成物へと近づいてもいく。繊毛虫やその他の小軟体動物へと近づいていく。これらの動物は透き通っていて、比較的長い生命をもっている。しかし、まだまったく不完全な有機体をもっている。フォン・シャミッソ氏は、サルパ[被嚢動物]類のなかでも、あるサルパのもっとも見事な発見をした。このサルパはきわめて豊饒であって、そのためにその産物は、ちょうど植物のむきだしの花弁が茎のところで結びついているように、多数が層状に積み重ねられて、一つの輪か円をなしていたというほどであった。そこでは、ちょうどポリープの場合のように、多くのものが一つの生命をもっており、次に再び一つの個体へと集まっていく。この下等動物界にはまばゆい種類のものが多数存在する。この下等動物界が、一時的に現存するゲルにまでいたることによって、動物的なものの主体性はここにおいてたんに輝くことに、自分との同一性の外面的な仮象になることができる。この動物界は自分の光を、自己内における内面的な自分として保持することはできない。むしろそれは外部へ向かう自然学的な光として、持続せずに打ちあたるにすぎない。そして何百万もの生命態がすばやく雲散して再び元素となる。海はこのような仕方で、星の大群が、ほとんど天の星々と同様に、天の川にぎっしり詰め込まれているさまを示す。というのは、天の星々はただ抽象的な光の点であるにすぎないのに、[海が示す]星々は、有機的な形成物からなるからである。天の星の場合には、光はその最初のまだ洗練されていない粗野さをまとっている。海の星の場合にはちょうど腐敗した木材が輝くように、光は動物的なものから、動物的なものとして破り出てくる。―-それは、生命性がしだいに消え行くことであり、また魂が歩み出てくることである。私は星を有機的身体における吹き出物(Ausschlag)と比較したことがあって、市井の評判になったことがある。皮膚が吹き出して無限に多くの赤い点となるのに例えたのである。

 あるいは蟻塚と比較したことがあるが、蟻塚には、悟性と必然性もある。実際、一つの抽象的なものよりも、具体的なものからだと、もっと多くのものができる。たんに
ゲルを生み出すにすぎない動物類からだって、星の大群からよりも多くのものができる。そして魚を別としても、海の世界はそのほかにもポリープ、珊瑚、石のような植物、石のような動物、植物性動物などを包含している。どの一滴をとっても、織毛虫などからなる一つの生きた地球である。海は生命性を、陸よりもいっそう内在的に自分自身のうちに包含している。  ・・・・・・

c) 陸地は、以前には内在的であった。今や逃げ去ってしまった生命の巨大な亡骸として、中和性にまで自己展開するこの個体的な安定性であり、月的な元素の硬い結晶である。これに対して海は彗星的なものである。しかしこの両方の契機が主体的な生命体の中で浸透しあうことによって、ゲル、粘液は、内面的にとどまる光の容れ物になる。地球は、水と同様に、無限な普遍的な豊饒さを示す。・・・・


§342  (p.474)

 普遍的な、自分にとって外的である有機体[環境]と、このようなたんに点的な、暫定的な主体性[原生生物]とが、こうして分離される。これらの[外部有機体と点的主体という]概念はもともと自体的には同一であるために、この分離が止揚されて、この同一性の現存、すなわち自分の側で自分を分節する主体性のある生きた有機体となる。この主体性は、たんにもともと自体的にだけ存在する有機体、すなわち、物理的な、普遍的自然と個体的自然を自分から排除し、これと対抗する。しかしこの主体性は、同時にまた、これらの力に自分の現存の条件[生存条件]と刺激をもっている。これらの力はまた過程の材料ともなっている。

補 論  (p.478)
・・・・
 類であるという有機的なもののあの直接的な存在は、同様に、端的に非有機的なものによって媒介されている。それはただこの他在によってのみ、抽象的な普遍性としての自分に対するこの対立によってのみある。それは、個体性から解放された類である。しかし、類はまた生命を身につけたものでもあるから、類は過渡的発生 (generatio aequivoca)において自分自身によって有機的なものへと移行する。一般に有機的なものの現存在は、地全体の自分を個別化し収縮させる行い(Tun)であり、普遍が自分を自分の内へ反省させることである。しかし、それは同様に、静止的な自己内反省態となる。そして高等植物と高等動物は、この固定された自己内反省態である。これは、地から茸が生えるように生えるのでも、貧弱な分肢の内にある有機的な生命一般にすぎない個体性を欠いた
ゲルや地衣類のように[生えるのでもない]。しかし、それはその現存在において、ただ普遍的な反省へのみいたる。そしてここにおいてそれの直接的な生成が始まる。・・・・・
 それは一つの固有の現存在であって、生命一般に対立し続け、自分の否定的な本質に固執し、自分の根源を否定し、単独で自分の生成を表示する。


  
 B 植物的な自然
  
§343   (p.481)
有機体が個別的なものとなるための主体性は、客観的な有機体へと、すなわち、形態へと発展する。形態とは、相互に区別されている部分へ分節される身体である。植物は、やっとようやく生命力と言えるような直接的で主体的な生命力である。植物では、客観的な有機体とその主体性とが、まだ直接的に同一である。そのために、植物的な主体が行う分肢の形成と自己保存の過程は、自己の外へ出てたくさんの個体に分裂することである。これらのたくさんの個体にとって、ただ一つの全体的な個体は、むしろ、分肢の主体的な統一としての基礎にすぎない。蕾、枝、等々の部分もまた、全体としての植物である。さらに、有機的な部分の差異は、たんに表面的な形態変容(Metamorphose : 変態)にすぎず、あるものは他のものの機能へと容易に移行することができる。

補 論 
 地質学的な有機体は形態化のたんなるシステムであって、観念性を欠いていた。この観念性がいまや植物生命の主体性とともに登場してくる。生命は、そのすべての分肢のなかに現前する観念性として、しかし、本質的に生きたものである。この生きたものは外面的なものによってのみ刺激される。・・・・

§344  (p.484)
 個別的な個体の形態形成と再生産の過程は、このように、類の過程と一致する。それは新たな個体を不断に産出することである。しかし自己としての普遍性は、すなわち、個体性の主体的な統一は、実在的な特殊化と[生命体では]分離していない。自己としての普遍性・個体性の主体的な統一は、実在的な特殊化のなかに沈潜しているだけである。植物は、自分のもともと自体的に存在する有機体にたいしてまだ単独に存在する主体性にはなっていない。そのために、自発的に居場所を決定することもなければ、移動することもない。またその有機体の物理学的な特殊化と個体化にたいして単独になっていない。したがって、断続的に栄養を摂取することはない。栄養の補給は、継続的に循環する流れとして行われる。その際、植物が相手にするのは、個体化された非有機物ではなく、普遍的な元素である。動物的な体熱と感情となると、これは、植物にとってはもっと不可能になる。というのは、植物は、たんに部分にすぎないのに、それ自身個体となった分肢[部分でありながら自立しようとして病気の原因となるもの]を、否定的な、単純な統一へと連れ戻す過程ではないからである。

補 論  (p.486)
  ・・・・・・・
 植物の主体的でとしての統一は外面的である。この外面性は光に対する植物の関係のなかに客観的に現れている。それは、光が
ゲル状の海藻類や熱帯地方の鳥の色にも外面的に現れるのと同じである。後者の例では、動物的なものでさえも光の威力が認められる。・・・・
 植物は光を浴びて初めて樹液を得る。一般的に言って、個体化の力を得る。・・・・

§345   (p.493)
 しかし植物は、有機的なものとして、本質的に抽象的な形成物(細胞、繊維等々)と具体的な形成物と区別されても分節される。しかし、この二つの形成物は根源的な同質性を保ち続けている。植物はまだ個体性から主体性へと解放されていないために、その形態はやはり、幾何学的な形式と結晶的な規則性に近いところにとどまっている。その過程の所産となると、これは、化学的な所産にさらに近づく。
  ゲーテの『植物の形態変容』(Die Metamorphose der Pflanzen : 植物の変態)は、植物の本性にかんする理性的な思想の端緒を作った。というのは、考え方をたんにさまざまの個別的なものを求める努力から引き剥がして、生命の統一性の認識へともっていったからである。形態変容というカテゴリーでは、器官の同一性が、優勢を占める。しかし分肢の一定の差異と固有の機能がないと生命過程がなりたたない。・・・・

§346  (p.511)
 生動性である過程は、単一過程であると同時に、ばらばらになって三重の過程となる。
・a) 形態形成の過程は、植物が自己自身へ関係する内面的な過程である。植物的なものそのものの単純な本性に従って、この過程はただちに外部への関係と外化とである。この過程は、一方では、実体的な過程、すなわち、直接的な転化である。それはまず、補給された栄養を、植物という種類に特有の本性に転化する。つぎには、内的に作りなおされた液(生命の汁)をさまざまの形成物へ転化する。他方では、この過程は、自己自身との媒介として、
α) 同時に外へも向けられた、根と葉への分裂とともに始まる。さらにこの過程は、木部繊維と生命の管への、普遍的な細胞組織の内面的な抽象的な分裂とともに始まる。根と葉は、これもまた同じく外部へ関係し、木部繊維と生命導管は、内部の循環を含んでいる。これらの器官のなかで、自己自身との媒介による自己保存が行われる。自己保存は、
β) 新たな形成物の産出としての成長である。分裂して抽象的な自己自身への関係、つまり、木およびその他の部分の硬化(その極端な例は、竹みそ(Tabascher)等に見る石化である)、および樹皮(恒久的な葉)への分裂である。
γ) 自己保存を統一へと集約すること(Zusammennehmen)は個体を自己自身へと結合(Zusammen‐schliessen 推論・結合)することではなくて、新しい植物個体の産出であり、これが蕾である。


 
 C 動物的な有機体

§350
  (p.560)
 有機的な個体性は、主体性として現存する。ただしそれは、形態の固有の外面性が分肢へと観念化せられ、有機体が、外へ向かうその過程において、自己的な統一を自己のうちに獲得するかぎりにおいてで ある。これが、動物の本性であって、動物の本性は、直接的な個別性の現実性と外面性のなかにありながら、同時にこれに対抗して、個別性の自己が自己のうちへ反照したもの、すなわち、自己のうちに存在する主体的な普遍性なのである。・・・・

§352  (p.567)
 動物的な有機体は、生きた普遍性として概念である。

 動物的な有機体は、いける普遍性であるから、概念である。概念は、推論として、概念の三つの規定を経過するのであるが、これらの推論は、いずれもそれ自体、実体的な統一性を持った同一の統体性であり、同時にまた、形式規定のうえから見れば、他の推論への移行である。したがって、現存するものとしての統体性は、この過程の成果として生ずるのであって、生命あるものは、このように自己を再生産するものとしてのみ、存在し、自己を保持するのであって、存在するものとしてではない。生命あるものは、自己を自己が現在あるところのものたらしめることによってのみ、存在するものである。・・・・
 有機体を考察する場合は、
(a) 個体的な理念として、すなわち、その過程において自己自身との関わり、自己自身の内部において自己を自己と連結する個体的な理念として― これが形態である ― つぎに
(b) 己の他者と、すなわち、己れの非有機的な自然と、関わり、この自然を観念的に自己自身のうちへ措定する理念として ― これが同化である。― 考察しなければならない。
(c) 有機体はまた、理念、ただしそれ自身生ける個体である他者と関わり、したがって、他者において自己自身と関わる理念、である。―  これが類の過程である。・・・・


  
a  形態 ( Die Gestalt)

§353  (p.570)
 形態とは、たんに自己自身への関係の中でだけの全体としての動物的な主体である。この主体は、自分の身についた形で概念をその発展した規定で、したがって、その主体のなかに現存している規定であらわしている。これらの規定は、内的には主体性のなかで具体的なものとして存在してはいるものの、α)それでもたんに主体の単純なエレメント(境位)として存在しているにすぎない。したがって動物的な主体は、1 主体の外面性のなかに潜む単純で普遍的な自己内存在である。これによって、現実的な規定性が直接的に特殊性として普遍的なもののなかへ受け容れられている。普遍的なものは、こうして、主体が現実的な規定態のなかで自己自身と不可分に一体となったものであって、―これが感受性である。動物的な主体はまた、2 外部から刺激されるとともに、これを受け容れる主体が、これにたいし外部に向かって反作用する、という特殊性であって、―-これが興奮性である。最後に動物的な主体は、3 これらの契機の統一である。すなわち、外面性の関係から自己自身への否定的な還帰である。またこの還帰によって、個別的なものとしての自己を産み出し、自己を個別的なものとする(Setzen)ことであっで、―-これが再生産である。すなわち、前の二つの契機の実在性と基礎とをなすものである。

§356  (p.600) 
δ 形態は、生命あるものとしては、本質的に過程である。しかも、その形態そのものが、しかも、形態そのものが、抽象的な自己自身の内部で営まれる形態形成の過程である。この過程のなかで、有機体は自分自身の分肢を非有機的な自然、すなわち、手段とし、自分を食い物にすることによって、自分を産出する。すなわち、分節作用の統合そのものを産出する。したがって、どの分肢もそれぞれ、相互に目的であり手段である。どの分肢も他の分肢によってまた他の分肢に対抗して、自分を維持する。―-この過程には、単純で直接的な自己感情という結果がある。

補 論
 形態化過程は最初の過程として過程の概念であって、それは非静止としての形態化である。しかしただ普遍的能動性として、普遍的な動物的過程としてだけそうである。形態化過程はこのような抽象的な過程として、生命的なものの力が外面的なものの動物性への直接的な転化であるかぎりでは、なるほど植物的過程と同様に、外界とともに把握されるべきである。しかし、有機的なものは自分の特殊な分肢化の内で、自分を展開されたものとして表出するのである。この分肢化か包含しているのは自立的な諸部分ではなくて、むしろ生命的な主観性における諸契機だけである。そのことによって、それら[諸契機]は止揚されたのであり、否定され、かつ有機的なものの生命性によって措定された。・・・・
・・・以上で、第3部有機体の物理学、終わり・・・・

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