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『資本論利潤率の傾向的低下の法則 20230120

『資本論』第3巻資本主義的生産の総過程
第3篇利潤率の傾向的低下の法則

第15章この法則の内的矛盾の展開
第1節 概説
 利潤率の低下と加速的蓄積とは、両者が生産力の発展を表現するかぎりでは、同じ過程異なる表現であるにすぎない。蓄積はまた、それとともに、大規模の労働の集積と、したがって資本のより高度な組成が生じているかぎりでは、利潤率の低下を促進する、他面、利潤率の低下はまた、資本の集積を促進し、そして、より小さい資本家からの収奪により、また直接生産者の最後の残存者からもなお、何か収奪すべきものがあればこれを収奪することによって、資本の集中を促進する。これによって、また他面では、利潤率とともに、蓄積率は低下するにかかわらず、量から見れば蓄積が促進される。
 他面、総資本の価値増殖率、すなわち利潤率が、資本主義的生産の刺激である(資本の価値増殖がその唯一の目的であるように)かぎり、利潤率の低下は、新たな独立諸資本の形成を緩慢にし、かくして資本主義的生産過程の発展にとって、脅威的なものとして現われる。それは、過剰生産、投機、恐慌、過剰資本と並存する過剰人口を促進する。そこで、リカードのように、資本主義的生産様式を絶対的なものと考える経済学者たちは、ここで、この生産様式がそれ自身にたいして一つの制限を作り出すことを感じ、したがって、この制限を生産のせいにはしないで、自然のせいにする(地代にかんする説において)。しかし、利潤率の低下にたいする彼らの恐怖で重要なことは、資本主義的生産様式が、生産諸力の発展において、富の生産そのものとは何の関係もない一つの制限を見出す、という感じである。そして、この特有の制限は、資本主義的生産様式の被制限性と、単に歴史的な経過的な性格とを立証する。資本主義的生産様式が、富の生産のための絶対的な生産様式ではなく、むしろ、ある段階では、富の生産のそれ以上の発展と衝突するに到ることを立証する。

 必要な生産手段、すなわち、資本の充分な蓄積を前提すれば、剰余価値の創造は、剰余価値率、すなわち労働の搾取度が与えられているばあいには、労働者人口以外には、何らの制限を見出さず、また、労働者人口があたえられているばあいには、労働の搾取度いがいには何らの制限を見出さない。そして、資本主義的生産過程は、本質的に、剰余価値の生産である。剰余生産物 ― すなわち、生産された商品中の、不払労働が対象化されている可除部分 ― によって表示される剰余価値の生産である。この剰余価値の生産 ― そしてその一部分の資本への再転化、すなわち蓄積は、この剰余価値生産の不可欠の一部分をなす ― が、資本主義的生産の直接の目的であり、また規定的動機であることを、決して忘れてはならない。したがって、決して資本主義的生産を、それでないものとして、すなわち、享楽を直接目的とする生産、または資本家のための享楽手段の生産として、説明してはならない。それは、資本主義的生産の全き内的核心の態容として示される特殊性格から、全く眼を逸らすことである。
 この剰余価値の獲得は、すでに述べたように、前記のもの以外には何らの制限をもたない直接的生産過程をなす。搾り出せるだけの量の剰余労働が、商品に対象化されれば、剰余価値は、生産されているわけである。しかし、この剰余価値生産をもっては、資本主義的生産過程の第一幕である直接的生産過程が終わっただけである。資本はこれこれの量の不払労働を吸収した。利潤率の低下に表現される過程の発展とともに、かようにして生産される剰余価値の量は、巨大なものに膨張する。そこで、過程の第二幕となる。総商品量、総生産物が、不変資本と可変資本を補填する部分も、剰余価値を表示する部分も、売られねばならない。それが売れないか、または一部分しか売れないか、または生産価格以下の価格でしか売れないならば、労働者は搾取されているには違いないが、彼の搾取は、資本家にとっては搾取として実現されず、それが搾取された剰余価値の全くの非実現、またはわずかに部分的な実現を伴うことも、じつに彼の資本の部分的、または全部的喪失を伴うことさえも、ありうる。直接的搾取の諸条件と、この搾取の実現の諸条件とは、同じではない。両者は、時間的および場所的にのみではなく、概念的にも一致しない。一方は、社会の生産力によって制限されているだけであるが、他方は、種々の生産部門間の均衡と、社会の消費力とによって制限されている。しかし、この社会の消費力は、絶対的生産力によって規定されているのでもなければ、絶対的消費力によって規定されているのでもない。そうではなく、社会の大衆の消費を、多かれ少なかれ狭隘な限界の内部でのみ変動しうる最小限に帰着させる、敵対的な分配関係を基礎とする消費力によって、規定されている。それはさらに、蓄積衝動によって、すなわち、資本の増大と拡大された規模における剰余価値の生産とへの衝動によって、制限されている。それは、生産方法そのものにおける不断の革命、つねにこれと結びついている既存資本の価値現象、一般的競争戦、単に自己保存手段として、しかも没落の脅威のもとで、生産を改良し、生産規模を拡大する必然性、これらのものによって与えられる資本主義的生産にとっての法則である。したがって、市場はたえず拡大されざるをえず、そのために市場の諸関連と、それを規制する諸条件とは、ますます、生産者から独立した自然法則の態容をとるようになり、ますます制御されえなくなる。内的矛盾は、生産の外的範囲の拡大によって緩和されることを求める。しかし、生産力が発展すればするほど、ますますそれは、消費諸関係の立脚する狭隘な基礎と矛盾するようになる。資本の過多が、人口過多の増大と結びつけられていることは、この矛盾に充ちた基礎の上では、決して矛盾ではない。なぜならば、両者をいっしょにすれば、生産される剰余価値の量は、増大するであろうとはいえ、まさにこれとともに、この剰余価値が生産される諸条件と、それが実現される諸条件とのあいだの矛盾が、増大するからである。

 しかし、このことは、同時に資本の集積を条件づける、というのは、今では生産諸条件が大量資本の充用を命ずるからである。それはまた、資本の集中を、すなわち、大資本による小資本の併呑と後者の資本剥奪とを、必然にもたらす。これもまた、これらの小資本家たちがなお属する生産者、というのは彼らにあっては、なお自分の労働が一役を演じているからであるが、この生産者からの労働諸条件の分離が、単に自乗されただけのものである。資本家の労働は、一般に、彼の資本の大いさに、すなわち、彼が資本家である程度に、反比例するのである。この、一方における労働諸条件と他方における生産者とのあいだの分離こそは、資本の概念を形成するものであり、本源的蓄積とともに開始され、次いで資本の蓄積と集積とにおける不断の過程として現われ、そしてここで最後に、少数の手中への既存諸資本の集中および多数者の資本剥奪(いまや収奪がこれに変ずる)として表現されるものなのである。この過程は、もし対抗する諸傾向が、求心力と並んで、たえず繰り返し分散化的に作用しないならば、やがて資本主義生産を崩壊に至らしめるであろう。