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 資本論用語事典2021
 元素Element概念形成史の原子論


元素 Element の系列 と 組織化 (1)
元素周期律表
ウィキペディア参照
 周期表の物語

   『入門化学史』 T.H.ルヴィア 著
  化学史学会 朝倉書店 2007年9月発行

    元素 Element の系列と組織化 Elementarform (2)
   
      ~ 化学の秩序形成-周期律・表 ~ 

  目次
   編集部 まえがき

 0. 古代ギリシャ・アリストテレスの元素観

 1.  原子量の混乱と解決:カールスルーエ国際会議とカニッツァーロ
 2.  メンデレーエフと周期表:一つのロシア革命
     ー 元素の分類と体系化 ー

  資本論ワールド 編集部

1.  2019年に『資本論』の科学史ハンドブックの開設にあたって、編集方針の案内があります。
 「  『資本論』の科学史ハンドブック2019の開設にあたり、編集の概略をご案内します。
 マルクスは1859年に『経済学批判』「第1冊資本について」を刊行しましたが、「第1章商品」で中断しています。その後、『資本論』の初版第1巻(第1部)が、1867年に刊行され、第2版は1873年に出版されました。マルクスの死後に、『資本論』第2巻が1885年に、第3巻が1894年エンゲルスによって編集・刊行にされました。
 『経済学批判』から『資本論』第3巻までの19世紀後半は、西洋に始まった資本主義社会がヨーロッパからアメリカ大陸や世界の各地へと展開された時代です。グローバリゼーションの始まりですが、ちょうど近代西洋科学の成立と歩調をあわせて資本制生産が全地球規模で開始されます。ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島にも「資本の時代」が押し寄せ、明治の“文明開化”が開始されてゆきます。
 こうして日本列島の住民-すなわち私たちの直接の先祖-は、はじめて日本人としての意識形成やアイデンティティが醸成される環境に置かれてゆくことになりました。1903(明治36)年4月小学校令の改正により、翌19年4月から教科書の国定制度がスタート、明治政府による全国共通の教科書が使用されてゆきます。
 西洋では、フランス革命と産業革命を経て「科学の進歩」による資本制生産の発展を目指す時代を迎えています。各種学校制度と研究機関の充実が、国力と直結する時代の幕開けともなり、科学教育の充実が各国政府の至上命題ともなりました。(日本では、江戸時代の寺小屋形式による識字教育が普及し、西洋に比べても格段に高かったと評価されています。)  このような時代背景を横目で眺めながら、西洋の科学史を通覧することは、19世紀西洋文化から誕生した『資本論』の歴史性を実感してゆくうえで、欠かすことができません。近代の科学革命は、フランスのラヴォアジェ(1743-1794年)によって開始され、イギリスのドルトン(1766-1844年)による「原子論」が展開されることによって、物理化学の新しい世界が切り開かれました。一連の「元素革命-ラヴォアジェからメンデレーエフ-」は、元素・原子の規則性、法則性に関するメンデレーエフ(1834-1907年)の周期律・表によって現在に至っています。自然の“比例性”に新たな1ページを画することになりました。
 またドイツでは、カント(1724-1804年)の“星雲説”からゲーテ(1749-1832年)“形態学”を経て、ヘーゲル(1770-1831年)によるドイツ古典哲学が形成され、西洋の自然科学的思考に弁証法概念が深化してゆきます。
 こうした西洋科学史を背景に、「巨人の肩の上に立って」マルクスは、『資本論』を叙述してゆきます。エンゲルスが指摘しているように、「マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を包有している核をとりだし、かつ弁証法的方法からその観念論的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡明な姿につくりあげる、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また唯一の人である。マルクスの経済学批判の基礎によこたわる方法の完成を、われわれはその意義においてほとんど唯物論的根本見解におとらない成果であると考える。」(経済学批判』についてー参照

 さて、「科学史ハンドブック2019」の始まりは、『資本論』の “Element(Elementarform)” です。
 “Element” の日本語訳は、「原理、初め、初歩、要素、成分、分子、基本、第一原理、元素」などさまざまで、まさに西洋文化の伝統が凝縮されています。ちなみに『資本論』第1章冒頭の「個々の商品はこの富の成素形態として現われる。」(Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung", die einzelne Ware als seine Elementarform.) ―「Elementarform 」を翻訳した日本語をみますと以下のようです。
 岩波書店訳(向坂訳)の成素形態-Elementarform-をはじめ、基本形態、原基形態、要素形態となっています。「Element」が成素、基本、原基、要素と訳され、用語の不統一も甚だしく、これでは科学書としての「共通言語」が形成されていない状況が伺えます。50年ほど前までは、「世界に冠する日本のマルクス経済学」などともてはやされていましたが、今日では何とも底の浅い途上学問であったようです。―ちなみに18世紀末、ラヴォアジェの化学革命は「化学命名法」から始まり、ラヴォアジェ著『化学のはじめ』のフランス語は「TRAITE ÉLÉMENTAIRE DE CHIMIE, :化学の“基礎原理を扱う”概論」となっています。  ― 難解であり、解読不能とまで言われる『資本論』の不人気は、出版社や翻訳者による不明瞭な用語法-翻訳者・書どうしの共通地盤の欠如-も拍車をかけているようです。」 ・・・以下、省略・・・

2.  古代ギリシャのターレス以来、元素は宇宙を構成する根本的な単一の物質と考えられてきました。ある物質がそれ自身よりも単純な物質に分解されるならば、それは元素ではないーそのより単純な物質がさらにそれよりも単純な物質に分解されるまでは、元素とみなされてきました。
 さらにまた、二つの物質がそれぞれ元素であれば、結合して化合物とよばれる第三の物質がつくられるとすると、その化合物は必ず元の二つの元素に分解される、とみなされてきました。
 1803年にドルトンが定比例の法則と倍数比例の法則に基づく「原子論」を発表し、1808年『化学哲学の新体系』を出版しました。当時の「原子」は、顕微鏡で見ることはできないが、間接的観察によって相対的質量によって実験的に観察されました。水素原子の相対的質量を「1」とする基準で、酸素原子は8倍の重さがあり、質量を「8」とする具合で決定してゆきました。

3.  ドルトンは、原子の概念・原子量と化学元素の本質を結びつけました。
 ① すべての物質は原子からなる。② 原子は分割できず、破壊することもできない。③ ある元素の原子はすべて、性質と質量が同一で、異なる元素の原子は、質量と性質が異なる。④ 化合物はふたつ以上の種類の原子が単純な整数比で結合することによって形成される。⑤ 化学反応では原子の再配列が起こる。
 ドルトンの原子論は、今日なおほぼ正しいと考えられているが、②と③の項についてはその後のいくつかの発見により、今では但し書きがついています。  ( 元素から見た『化学と人類の歴史』-周期表の物語-より

4.   ドルトンの原子量は、メンデレーエフの周期表によって「原子(元素)の分類と体系化」が行われました。
 1860年のカールスルーエ国際会議後、元素を原子量の順に並べると周期性が現れることが明らかになりました。メンデレーエフは原子量と元素の性質のあいだに何らかの関係がある、と研究をすすめ、 ついに「周期律・表」に到達しました。これによって、人類は元素の分類と組織化に史上はじめて成功し、元素と原子の体系化が図られました。

   ***   ***  ***

   『入門化学史』 T.H.ルヴィア 著


 1. 原子量の混乱と解決 : カニッツァーロが基準を設ける

 〔元素記号を用いて、物質の組成・構造などを表示する、水素H2, 水H2O,など〕 どの化学式が,あるいはそもそもどんな種類の化学式が分子の組成を表しうるのかについて,ほとんど合意が得られなかった理由の一つは,金属の原子量をベルセリウスが提唱したものの半分にするべきかどうかについて意見が一致しなかったことにあった.しかし原子量について活発な論争を呼び起こしたものにはその他の問題もあった.その問題とは,原子量の数値の顕著なパターンや規則性を考慮することや,同素体についての考察や,定量分析の精度が着実に上がってきたことなどから生じたものであった.

 原子量に際だった規則性があることは,ずいぶん前から知られていた.プラウトの最初の仮説は,多くの原子量が整数または整数に非常に近い数であるように見えるという事実によって促されたもので,したがってそれらは水素の原子量に相当する単位から形成されているのかもしれない,というものだった.これほど多くの原子量が整数に近いということは、たしかにただの偶然であるとは思えなかった. T.トムソンの不注意ではあるが魅力的な分析結果はこの見解を強めた.しかし,ただ原子量が整数にならないものも多かったために,プラウトの仮説は多くの化学者に受け入れられなかった.そこでプラウトは,水素原子より小さい,おそらくその半分あるいは1/4に相当する構成単位があるかもしれない,という考えを述べるにいたった.

 同じ頃,ドイツ人化学者ヨハン・ヴォルフガング・デベライナー(1780-1849)は1817年から1819年の間に,3元素のグループ(三つ組元素)がいくつかあって,一つの元素の原子量が,他の二つのものの原子量のほぼ中間値となることを見出した.
これらの三つ組は,ハロゲン(塩素,臭素およびヨウ素)やアルカリ土類金属(カルシウム.ストロンチウムおよびバリウム)のような,明らかに類似の元素からなっていた.デベライナーはまた,硫黄,セレンおよびテルルも確認し,つづいてリチウム,ナトリウムおよびカリウムのアルカリ金属が加わった.これらの三つ組元素は,一つの元素から次のものへと原子量が一定の大きさで増加するという関係が見られた.
  この規則性は,原子がある構成単位からできていて,三つ組の中の一つの元素と次のものとの間では一定数の構成単位があるかないかの違いが見られるのだという考えを促し,実際そう考えた化学者たちもあった.プラウトの仮説のような何かが,結局は正しい流れの上にあるらしいと思われた.同素体も,原子とは同じ構成単位が集まってできている化合物であるかもしれない,ということを暗示していた.ローランらが初めてこの考えを提唱したとき,それは難解で近づきがたい考え方であった.三つ組の存在,元素族の存在,そして同素体の現象は,すべてプラウトの仮説の復活に寄与した.しかし,原子量測定の結果は,いかなる構成単位をとるにしてもそれは水素原子より小さくなければならない,ということを明白に示していたので(整数にならない原子量を他にどのように説明できようか9),プラウトの最初の仮説を受け入れることができないのは明らかだった.そこでその復活は,より小さな単位となる水素原子量の分数をもとにしたものであった.プラウトの最初の仮説の最も明らかな問題点の一つに戻うてみると,塩素の原子量が35.5ということであった.もし,原子以下の構成単位である始源物質が水素原子の半分に相当するのであれば,塩素の原子量は障害にならない.プラウト自身はこのように考えたのであった.
 1848年に死んだベルセリウスは1845年にプラウトの仮説に対する批判を書いた.彼は元素変換は実験室で一度も観察されたことはないと記した.もしプラウトの仮説が正しいなら,元素変換は少なくとも理論的に可能であるはずだが,それが観察されたことがないということは,プラウトに対する否定的な論拠となった.プラウトの仮 説を最もよく支持する原子量の実験データはT.トムソンのものであったが,ベルセリウスはトムソンの分析化学者としての能力をただ軽蔑しただけであった.ベルセリウスは明らかに,多くの原子量が整数または半整数であるのはただ単なる偶然の一致とみなしていた.

 その後,T.トムソンよりしっかりした実験技術を持った実験化学者たちによって高精度で求められた,よりいっそう正確な原子量が次第に得られるようになってきた.ドイツで訓練を受けたスイスの化学者シャン・シャルル・ガリサール・ド・マリニャック(1817-94)は卓越した実験化学者であったが,すでに1843年までに,水素の原子量の半分の倍数積に近い原子量を持つ元素は,塩素だけではないことを示していた.彼はプラウトの仮説には幾分の真実があることを確信していた.彼を最も痛烈に批判したのは,同じく優れた分析家であったベルギーの化学者シャン・セルヴエ・スタス(1813-91)であった.彼は,原子量が必ずしも整数や半整数ではなく,そのような数に近いだけであることを強調した.1860年までに,マリニャックは,小数点以下3桁までの測定結果を発表していたが,彼の数値はプラウトの仮説が要求するものに必ずしも合致しないことを認めざるをえなかった.それでも彼は,あまりにも多くの原子量があまりにも整数に近いのだから,プラウトの仮説を完全に誤りとすることはできないと論じたにその数は,まさに何かを意味するに違いなかった.そして,この始源物質の考えは中世の錬金術師たちと同じく19世紀の化学者たちにとっても魅惑的だったのである.
 化学者たちが原子量の規則性の意義を完全に認識し,原子量について他の化学者たちにも受け入れられるような仮説を提案できるためには,その前に厄介な問題を解決する必要があった.この問題は,ドルトンの単純性の基準を原子量に適用したこと,およびベルセリウスが反応性や原子の電気的性質を化学式を決める際の指針として強調したことから起こってきたものであった.この問題は1850年代も未解決のままで,50年代末になってさえ多くの金属の原子量について化学者たちの意見は一致しなかった.それは小数点以下の細かい部分についてではなく,原子量を半分にするか2倍にするかという大問題であった.言い換えると,ゲルアルトとその友人のローランがすでに提案していた解答,すなわちアヴォガドロの仮説と「2体積」式を受け入れることが必要だったのである.
 1860年までに,化学者たちはゲルアルトが提案していた同族列の式を受け入れ始めた.ガス分析や蒸気密度測定を用いた分子量の測定によって,アヴォガドロの考えた体積の意味がより容易に理解できるようになった.解離の研究によってゲイ=リュサックの法則から逸脱する明らかな例外の理由が説明され,アヴォガドロの仮説に対するもう一つの異論が退けられた.化学者たちがアヴォガドロの仮説を再考する下地がこれまでになく整ってきたのである.

 イタリア人の化学者スタニスラオ・カニッツァーロ(1826-1910)は1858年までにこの仮説を再考するにいたった.この年,彼はアヴォガドロの仮説が原子量や分子量の決定における多くの問題を解決し,原子熱や蒸気密度に関する研究を統一するのにいかに役立つかを示す論文を書いた.彼はまた原子と分子の区別を明確にした.イタリア語で書かれた彼の論文ははじめのうち人々に知られなかったが,彼はドイツのカールスルーエで開かれた会議で発表し,論文をパンフレットとして配布した.ただちに納得した化学者たちもあり,また帰路の列車内で論文を読んで帰着駅に到着するまでに納得した人々もあった.論点を見過ごす人々もいたのはもちろんだったが.アヴォガドロの仮説が初めて提唱されてからほぼ半世紀後に開かれたこの会議は、その仮説が受け入れられる転換点となった. そして、この仮説は化学全体に秩序をもたらすこととなった.

 2. メンデレーエフと周期表:一つのロジア革命
  
     元素の分類と体系化 ー 化学全体に秩序

 1860年代までに化学者たちは,首尾一貫して,正確な分析に基づき,そして一般に受け入れられた一式の原子量を手にしていた.酸素の原子量が8か16かで揉めることはもはやなくなり,すべての人が16と認めていた.19世紀のはじめ頃にデベライナーの注意を引きつけた規則性は,再び他の化学者たちを動かし始めた.イギリス人のジョン・ニューランズ(1837-98)は,当量によって元素を並べ,水素は1,ヘリウムは2,などのように順に番号をつけていった.彼は,ある元素の8個後にくる元素はいずれも,「音楽のオクターブの8番目の音符のように,最初のものの繰り返し」となっていることを発見した.たとえば,塩素(15番)はフッ素(8番)の後の8番目の元素であり,両者はハロゲン族の一員である.また,ナトリウム(9番)はリチウ.ム(2番)の後の8番目の元素である.ニューランズが音楽にたとえたため,性質の類似性と一致するこの数値的な規則性はニューランズのオクターブ則として知られている.

 1860年代の間,ヨーロッパ中の化学者たちは,元素に番号をつけて表に配列したり,円筒の周りに巻きつけた線上に書き込んだり,グラフ上にプロットしてみたりして,原子量や当量の規則性をうまく表現する方法をさまざまに検討した.それらの目的というのは,このような規則性が化学的性質のグループ分けや類似をどのようにもたらすのかを示すことにあった.このような試みのうちで最も重要で影響力が大きく,元素を並べた完璧な表となったものは,ロシア人のドミトリー・メンデレーエフによるものであったレメンデレーエフは1834年にシベリアで生まれ,1907年にサンクト・ペテルブルグに没した.
 メンデレーエフは教員養成の教育を受けた.1861年には有機化学の教科書を出版した.その執筆中に彼はゲルアルトの同族列が持つ特徴の一つに触発された.同じ列中にあっては,たとえばパラフィンの密度がその分子量とともに増加するように,物理的性質と分子量との間に相関が見られた.1868年,学生のための教科書を書いているときに,彼は元素を分類する方法を検討し,同族列のような規則性で元素に当てはまるものはないかと考えた.そして彼は原子量と元素の性質の間に関連性があるに違いないと確信するにいたった.その当時までに約60の元素が知られていたが,それはラヴォワジエの時代の2倍以上の数であった.メンデレーエフはカールスルーエ会議に参加していたので,その結果得られる首尾一貫した原子量決定の恩恵を得ることができた.彼は各元素を1枚ずつのカードに,その原子量(彼はプラウトの仮説を認めなかった)と性質および類似の元素とともに書き込んだ.ついでそれらのカードの最もよい配列の仕方を探した.すなわち,性質の類似性を最もよく表し,それと原子量とを最もよく関連づけることができるような配列である.彼は,元素の性質はその原子量に周期的な関連性を持つと結論づけた.彼によれば周期的とは規則的であり循環的だということである.これが元素の周期表の原型であった.

それはメンデレーエフの時代以後も進化と発展を遂げ,今も化学を教えるあらゆる教室で見られるものである.そしてもちろん周期表はメンデレーエフの周期律に基づいている.それは,「元素の諸性質は,それらの化合物の形態や諸性質を含めて,元素の原子量に周期的に依存する,あるいは(代数的に表現するなら)周期的な関数である」というものである.

 メンデレーエフの周期表はきわめて有効であった.そして彼はそれを改訂し,改良していった.元素はその原子量が増加する順に置かれていった.そこでは,族は縦に配列され,それを横に読めば類似元素のグループが現れた.アルカリ金属,アルカリ土類金属,ハロゲン,そしてその他の元素族が表中に見事におさまった.メンデレーエフは必要に応じて空欄を残し,そうして既知の元素がそれらの化学的性質に応じた適切な位置にくるように配置した.そして彼は驚くべき確信を持って,それらの空欄は将来,これまで未発見の元素で埋められるであろうことを予言し,それら「未知」や.元素の原子量や化学的性質までをも予想した.

亜鉛の後に一つ空欄があり,これはホウ素とアルミニウムと同じ族であった.メンデレーエフはこの空欄にはアルミニウムに似た性質を持ち,原子量68で比重6.0の元素が入るだろうと予言した.欠けていたこの元素は1875年に発見され,ガリウムと名づけられた.これは原子量69.9で比重5.96であったレ彼が予言した元素は他にスカンジウムとゲルマニウムがあったが,これらも彼の予言にきわめて近かった.周期表は元素の分類や規則性を,明ら_,かにし,教育に有用な道具として使われてきただけでなく,化学者たちが未発見の元素を探索することを促した.そして,多くの場合に彼らはそれを発見したのである.
 しかし,いくつかの問題もあった.たとえば二つの元素の原子量の順と性質の周期的変化とが合わないものがあった.メンデレーエフの最初の周期表で,ヨウ素(原子量127)は明らかにフツ素,塩素,臭素に続くハロゲン族に属していたし,テルル(原子量128)は,酸素,硫黄,セレンの族に属するものであったが,原子量に従うならばテルルはヨウ素の後にくるので,化学的・物理的性質から考えると両元素が間違った族に入っていることになってしまう.そこでメンデレーエフは原子量の順を逆にして,テルルの原子量が間違っているのではないかと述べた.それはヨウ素よりも小さいはずであり,それを越えるはずはないとしたのである.彼が性質の類似性によってそう考えたのは正しく,両方の元素を私たちの知っている正しい位置に置いた.
後にテルルの原子量が正確であったことが証明されたため,彼がそれを改めようとしたのは間違っていたことがわかった.しかし原子構造や同位体について20世紀の知識のないところでこの矛盾する証拠を解決しなければならなかったため,彼は化学的・物理的類似性に基づくことを選んだ.このようにして,彼は優れた化学者ならば当然行うであろう決定を下したのであった.原子量のために周期表を棄ててしまうのではあまりに惜しかったのである.
・・・以上、終わり・・