カール・マルクス 『経済学批判』序説
3 経済学の方法
〔 『経済学批判の要綱』 1857-1858 〕
マルクス・エンゲルス選集第7巻 新潮社 1959年発行
■ 経済学の方法
*編集部注:〔〕および、段落冒頭の<>の数字記号は、編集部が適宜作成〕
<1> われわれがある一国を経済学的に考察するとすれば、その人口、人口の各階級や都市や農村や海辺への分布、各種の生産部門、輸出入、毎年の生産と消費、商品価格等々からはじめる。
現実的で具体的なもの、すなわち、現実的な前提からはじめること、したがって例えば経済学においては、全社会の生産行為の基礎であって主体である人口からはじめることが、正しいことのように見える。だが、少し詳しく考察すると、これは誤りであることが分る。人口は、もし私が、例えば人口を作り上げている諸階級を除いてしまったら、抽象である。これらの階級はまた、もし私がこれらの階級の土台をなしている成素、例えば賃金労働、資本等々を識らないとすれば、空虚な言葉である。これらの諸成素は交換、分業、価格等々を予定する。例えば、資本は賃金労働なくしては無である。価値、貨幣、価格等々なくしては無である。 したがってもし私が人口からはじめるとすれば、このことは、全体の混沌たる観念となるだろう。そしてより詳細に規定して行くことによって、私は、分析的に次第により単純な概念に達するだろう。観念としてもっている具体的なものから、次第に希薄な抽象的なものに向って進み、最後に、私は最も単純な諸規定に達するだろう。そこでここから、旅はふたたび逆につづけられて、ついに私はまた人口に達するであろう。しかし、こんどは全体の混沌たる観念におけるものとしてでなく、多くの規定と関係の豊かな全体性としての人口に達するのである。
<2> 第一の道は、経済学がその成立のときに歴史的にとった道である。例えば、17世紀の経済学者たちは、つねに生々とした全体、人口、民族、国家、いくつかの国家等々からはじめた。しかしいつも彼等は、分析によって分業、貨幣、価値等々のような若干の規定的な抽象的な一般的関係をさがし出すことに終るのである。これらの個々の要素が多少ともに固定され、抽象化されると、経済学の体系がはじまった。それは、労働、分業、欲望、交換価値のような単純ものから、国家、諸民族の交換および世界市場というところまで遡った。この後の方は、明らかに科学的に正しい方法である。具体的なものが具体的なのは、それが多くの規定の綜合、したがって多様なるものの統一であるからである。
したがって、思惟においては、具体的なものは、綜合の過程として、結果として現われるものであって、出発点としてではない。言うまでもなく、具体的なものは、現実の出発点であり、したがってまた考察と観念の出発点であるのだが。第一の道においては、充実した観念が発散させられて抽象的な規定になった。第二の道では、抽象的な諸規定が、思惟の手段で具体的なるものを再生産することになるのである。だから、ヘーゲルは、実在的なものを、それ自身のうちに綜合し、それ自身のうちに深化され、それ自身のうちから運動してくる思惟の結果として理解するという幻想に陥った。
<3> これと反対に、抽象的なものから具体的なものに上向する方法は、具体的なものを自分のものにし、これを精神的に具体的なものとして再生産する思惟の仕方にすぎないのである。それは、だが、決して具体的なものそのものの成立過程ではない。例えば、最も単純な経済的範疇、例えば、交換価値は、人口、すなわち特定の関係の中で生産している人口を予想する。
また、一定の種類の家族、あるいは共同体、あるいは国家制度、その他を予想する。交換価値は、すでに与えられた具体的な生々とした全体の抽象的な一面的な関係としての外は、決して存在することができない。これに反して、範疇としては、交換価値は、先洪水的存在である。したがって、意識――そして哲学的意識は次のように規定されている、すなわち哲学的意識にとっては理解する思惟が現実の人間であり、したがって理解された世界それ自体がはじめて現実的なものである――にとっては、範疇の運動は現実の生産行為(それはただ遺憾ながら外部から衝撃を受ける)として現われ、この行為の結果が世界なのである。そしてこのことは――これがまた同義反覆だが――具体的な総体性が、思惟総体性として、すなわち思惟具体物として、事実上思惟の、すなわち理解の産物である限りにおいて、正しいのである。
しかしながら、決して直観と観念の外にあり、またはその上にあって思惟し、自分自身を生み出す概念の産物なのではなく、直観と観念の概念への加工の産物なのである。頭脳の中に思惟全体として現われる全体は、思惟する頭脳の産物であって、頭脳は、世界を自分に可能な唯一の仕方で領有する。それは、この世界の芸術的な、宗教的な、実際的精神的な領有とちがった仕方である。実在する主体は、依然として頭脳の外にあって、その独立性をもっている。すなわち、頭脳がただ思弁的に、すなわち、ただ理論的にふるまうかぎりでは。それゆえに、理論的方法においても、主体、すなわち、社会は、つねに観念の前に前提として浮ばなければならない。
<4> しかしながら、これらの単純な範疇は、より具体的なものの以前に、独立の歴史的または自然的存在をもつものではないのか?これについてはこう考えるのが大切である。例えば、ヘーゲルが法哲学を、主体の最も単純な法的関係として、占有をもってはじめるのは正しい。しかし、ずっと具体的な関係である家族や支配と隷属の関係以前に占有はない。これに反して、ただ占有してはいるが、所有はない家族、部族全体というものが存在していると言うことは正当であろう。
それ故に、より単純な範疇は、所有との関係において、単純な家族共同体または部族共同体の関係として現われる。より高度な社会では、より単純な範疇は、発展せる組織のより単純な関係として現われる。しかし、その関係が占有である具体的な素材的基礎は、つねに前提されている、一人一人の野蛮人が占有していると考えることはできる。これでは占有は法関係ではないのである。占有が歴史的に家族に発展するというのは正しくない。占有は、むしろつねにこの「より具体的な法範疇」を予想している。だが、そこで次のことだけはつねに変らないといえるだろう。
すなわち、単純な範疇は、未発展の具体的なものが実現したと思われる諸関係の表現であって、この場合、より多面的な関連またはより具体的な範疇に精神的に表現されている〔より多面的な〕関係は、まだ存在するものとされていない、ということである。尤も他方、より発展した具体的なものは、同じ単純な範疇を従属的な関係として保有してはいる。
<5> 貨幣は、資本が存在し、銀行が存在し、賃金労働が存在した等々の前に、存在しうるし、また歴史的に存在した。したがって、この面からすれば次のように言ってもよいことになる、すなわち、より単純な範疇は未発展の全体の主調をなす諸関係を、あるいはより発展せる全体の従属的な諸関係を表現することができる、そしてこの諸関係は、全体が、より具体的な範疇に表現される面に即して発展する前に、すでに歴史的に存在したのであった、ということである。そのかぎりにおいて、最も単純なものから、複合せるものへと上向する抽象的思惟の進行は、現実の歴史的過程にそっているということになる。
<6> 他方においてこういうことが言われる。すなわち、非常に発達しているが、しかし歴史的に未成熟の社会形態があり、ここでは経済の最高の形態である、例えば協業、発展せる分業等は存在しているが、貨幣というようなものは存在しないこと、例えばペルーのごときがある。スラヴ人の共同体においても、貨幣は、そしてこれを必要とする交換は、個々の共同体の内部ではまだ現われていない、あるいは不十分にしか現われていない。が、その境界で他の共同体と交易する場合に現われている。このように、交換を、最初からの構成要素として共同体の中におしこむことが、そもそも間違いである。交換は、むしろはじめは同一共同体内部の成員にとってというより、おのおのことなれる共同体相互の関係の中に現われる。
さらに、貨幣は、極めて早期に、また全面にわたって一の役割を演じているにしても、それは、古代では、支配的要素としてはただ特殊の性質を持った諸民族、すなわち商業諸民族に認められたのである。そして文化的古代のギリシア人やローマ人においてすら、近代的市民社会で前提されているような貨幣の完全な発展は、僅かにその解体期に現われたにすぎない。したがって、この全く単純な範疇は、歴史的には、社会の最も発達した状態におけるように集約的に現われることはない。決してすべての経済的関係が変転していったのではない。例えば、ローマ帝国において、その最大の発展を示したときでも、現物貢租と現物給付は、土台たることに変りなかった。ローマでは貨幣制度は、本来は軍隊において完全に発達したにすぎない。それは労働の全領域に及ぶようなことはなかった。このようにして、より単純な範疇は、より具体的な範疇以前に歴史的に存在したとしても、その完全な内包的外延的発展という点では、まさに複合せる社会形態にまつ外ないものである。が、他方より具体的な範疇は発達の程度の低い社会形態において、より完全に発展していたのである。
<7> 労働は全く単純な範疇に見える。労働の一般性における観念――労働一般として――も太古以来のものである。それでも「労働」は、経済的にこの単純性において理解されたものとしては、この単純な抽象をつくり出す諸関係と同じように、近代的な範疇である。例えば、重金(モネタール)主義(ジュステム)は、富をなお貨幣の形で自分の外にある物として全く客観的に考えている。この立場に対して、工場手工業(マニュファクチャ)体制(システム)または重商主義(マーカンテイル・システム)が対象から主体的活動――商業的労働および工場手工業(マニュファクチャ)的労働――に富の源泉を求めるとすれば、これは大きな進歩である。尤も、この活動そのものは、まだ狭く貨幣(かね)儲けと解されているにすぎない。これの体系に対して、重農学派の体系があるが、これは、労働の特定の形態――農業――を富を創造する労働と考え、客体そのものをもはや貨幣の扮装で見ないで、生産物一般として、労働の一般的結果として見る。この生産物は、まだ活動の限定された性質に応じて、依然として自然規定的な生産物――農業生産物、何をおいても土地の生産物――と見られている。
<8> アダム・スミスの大きな進歩は、富を生産する活動の一切の限定性を除去したことにある。――工場手工業(マニュファクチャ)的労働でも、商業的労働でも、さらに、農業労働でもなく、しかし、そのいずれでもある労働そのものである。かくて富を創造する活動の抽象的一般性と共に、富として規定された対象の一般性も、生産物一般、あるいはまた労働一般も考えられる。
しかし、過去の対象化された労働として、この移行がどんなに困難であり、どんなに偉大なものであったかは、アダム・スミス自身がなお時々また重農学派に転落していることから明らかとなる。ところで、この移行と共に、人間が――どんな社会形態にあるにしろ――生産するものとして現われる最も単純で最も古い関係に対して抽象的な表現が発見されたにすぎないかのように思われるかもしれない。これは一面からいえば正しい。他面からいえば正しくない。労働の一定の種に対して無差別であるということは、現実の労働種の総体が極めて発達しており、その種のどれ一つとしてすべてを支配するものでないようになっていることを前提する。このようにして、最も一般的な抽象は、一般に、ただ一つのものが、多くのものに共通に、すべてに一様にある最も豊かな具体的な発展の存する場合にのみ、成立するのである。
<9> かくて、特殊な形態でのみ考えられうるということはなくなる。他方、労働一般のこのような抽象は、ただ労働の具体的総体の精神的結果であるばかりではない。特定の労働に対して無差別であることは、一定の社会形態に相応するのであって、ここでは個人が容易に一つの労働から他のそれに移行し、労働の種の特定されていることが個人にとって偶然であり、したがって無関心である。労働は、ここでは範疇においてだけではなく、現実においても、富一般の創造の手段となったのであって、規定として特殊の個人と合生していることをやめた。このような状態は、市民社会の最も近代的な存在形態において――アメリカ合衆国において――もっとも発達している。
したがって、ここでは「労働」なる範疇の抽象化、即ち「労働一般」、労働そのもの、即ち、近代経済学の出発点が、実際上はじめて真実となる。したがって、近代経済学が先頭に立って、太古以来のすべての社会形態に存する関係をいい表わす最も単純なる抽象は、かくてただこの抽象においてのみ実際上真実になって、最も近代的な社会の範疇として現われる。アメリカ合衆国で歴史的産物であるものは、例えばロシア人では――特定労働に対して無差別であることは――自然にもっている素質として現われる。
しかし、未開人がすべてのことに用いうる素質をもっているのか、それとも文明人の方がすべてのことに向くのか、というようなことを論ずるのは、そもそも奇怪至極な区別である。ところでロシア人の場合は、実際上は労働の特定性に対するこの無関心さに応じて、全く特定された労働に伝統的に癒着するというようなことになっている。この状態からロシア人を引き出すことができたのは、外部からの影響だけであった。
<10> 労働のこの例は、最も抽象的範疇すら、まさにその抽象の故に、すべての時代に当てはまるにも拘らず、しかもこの抽象そのものの特定性においては歴史的諸関係の産物であり、その完全妥当性をこれらの諸関係に対して、またその内部においてのみ有するものであることを、適切に示している。
市民(ブルジョア)社会は、最も発達した最も多様化した歴史的生産組織である。したがって、その諸関係を表現する諸範疇、その構成の理解は、同時に一切の没落した社会形態の構成と生産諸関係への洞察を与える。この市民(ブルジョア)社会は、没落した社会の破片や要素をもってつくり上げられたものであり、それらのもののうち或るものは、まだ克服されない残滓としてこの社会の中に生き残っており、僅かな暗示だけだったものが、完成された意義のものにまで発展している、等々。
人間の解剖は、猿の解剖の鍵である。これに反して、下等動物の中にある高等動物への暗示は、この高等動物自身がすでに明らかとなってはじめて理解されうる。
市民(ブルジョア)経済は、かくして古代経済等々への鍵を与える。しかし、それは決して、すべての歴史的相違を抹殺し、すべての社会形態に市民(ブルジョア)的社会形態を見るような経済学者のやり方にはない。地代を識って、貢租や十分の一税等を理解することができる。しかし、これらのものを同一のものと解してはならない。さらに市民(ブルジョア)社会自身が発展の対立的形態にすぎないのであるから、以前の諸形態の諸関係は、しばしば全く萎縮してこの社会の中にあるのを見るにすぎないであろう。あるいはおかしげな姿で残るようなことにもなっている。例えば、共同体所有。
したがってもし市民(ブルジョア)経済学の諸範疇は他のすべての社会形態に対しても真理を語っているということが真実であるならば、これはただ、全く特定の意味に(cum grano salis)解さるべきものである。ブルジョア経済学の諸範疇が、他の社会的形態を発展させ、萎縮させ、戯画化し、等々して、含んでいることはありうるが、つねに本質的な区別をもっている。いわゆる歴史的発展は一般につぎのことにもとづいている。すなわち、最後の形態はそれ以前の形態を自分自身への段階と見なすということである。そして、この最後の形態は、まれに、そしてまったく特定の条件の下でのみ、自分自身を批判する力があるのであるから――勿論ここでは自分自身が没落期として現われるような歴史的時代を論じているのではない――過去の社会形態をつねに一面的に理解する。キリスト教は、その自己批判がある程度まで、いわば出来うる限り、完成したとき、はじめて以前の神話の客観的理解に達することができた。
<11> このようにして、ブルジョア経済学は、ブルジョア社会の自己批判がはじまったとき、はじめて封建的、古代的、東洋的社会の理解に到達した。ブルジョア経済学が純粋に過去の経済と一致して、神話化しない限り、以前の経済の、特にブルジョア経済学がなお直接に闘わなければならなかった封建的な経済の批判は、キリスト教が異教に対して、あるいはまた新教がカトリック教に対して行った批判に似ている。
一般にどの歴史的社会的科学においてもそうであるが、経済学的範疇の取扱いにおいてつねに念頭におかるべきことは、頭脳の中に現実におけると同様に、主体、すなわちこの場合近代的ブルジョア社会が与えられているということ、そしてしたがって諸範疇はこの特定の社会の、すなわちこの主体の定在諸形態、存在諸規定を表わし、往々にしてその個々の側面を表わすにすぎないということ、したがってまたこの社会の科学的研究も、この社会そのものが問題となる時になってはじめて、開始されているものではないということである。
<12> このことをはっきり掴んでおかなければならぬわけは、直ちに編別をつくる時に決定的に必要となるからである。例えば、何をおいても地代、すなわち土地所有から始めるのがいちばんあたりまえのことのように見える。というのは、ことは、一切の生産と一切の存在の源泉である土地に、したがって、すべてのある程度固定した社会の最初の生産形態――農業に結びついているからである。しかし、これより甚だしい誤りはない。一定の生産が他のすべての生産に、したがってまたその一定の生産諸関係が自余のすべての諸関係に、与える順序と影響とを定めるということは、すべての社会形態にあることである。
すべての色に作用してこれに特殊の変化をつくり出すものは普遍的な光である。ある特定の性質をもつエーテルなるものがあって、これがすべてその中に現われる存在の特殊な重さを定める。例えば、遊牧諸民族におけるようなものである。(狩猟だけの民族や漁労だけの民族は、まだ実際の発展のはじまるところまで至っていない)。これらの遊牧民族では、ある種の農耕形態、すなわち散発的な形態が行われている。土地所有は、このことによって規定されている。それは共有であって、これら諸民族がまだその伝統を維持していることの多少にしたがって、この形態を多少とも保有している。例えば、スラヴ人の共同体所有制のようなものである。古代や封建制の下に優位を占めていたような定着農耕――この定着ということがすでに大きな段階である――を行う諸民族においては、工業とその組織、これに相応する所有の諸形態すら、多かれ少なかれ土地所有的性格をもっている。そして古代ローマ人におけるように全然農耕に依存しているか、あるいは中世におけるように、都市においてもその諸関係についても、農村組織を模倣している。中世における資本自身が――純粋な貨幣資本を別とすれば――伝統的な手工業道具等で現われるのだから、この土地所有的性格をもっている。
<13> 市民(ブルジョア)社会においては、このことは逆である。農業は次第に単なる産業部門の一つとなり、全く資本によって支配されている。地代についても同様である。土地所有が支配的であるすべての形態においては、自然関係がまだ優位にある。資本が支配する形態では、社会的に、歴史的に創造された要素が優位にある。地代は、資本なくしては理解され得ない。が、資本はもちろん地代なくして理解されうる。資本は、市民(ブルジョア)社会のすべてを支配している経済的力である。資本は出発点であると同時に終結点をなしていなければならない。そして土地所有の前に展開されなければならない。資本と土地所有が別々に考察された後に、その交互関係が考察されなければならない。
したがって、経済的諸範疇を、歴史的に規定的な範疇であった順序にしたがって追求することは、なすべきことではなく、また誤りであろう。むしろこれらの経済的範疇の順序は、それが近代的市民(ブルジョア)社会で相次いでもつにいたった関係によって、したがって、自然的なものとして現われるものや歴史的発展の順序に相応していると思われるものとは正反対の関係によって、定められている。いまここで問題なのは、この経済的諸関係が、各種のちがった社会形態の順序のうちに歴史的に占めている関係なのではない。況んや(歴史的運動をもうろうと言い表わした)『理念における』(プルードン)その順序などではない。近代的市民(ブルジョア)社会の内部におけるそれらの範疇の編成が問題なのである。
<14> 商業民族――フェニキア人、カルタゴ人――が古代世界で現われた純粋性(抽象的規定性)はまさに農業諸民族が主たるものであったこと自体によってもたらされたのである。商業資本または貨幣資本としての資本は、資本がまだ社会の支配的な要素でないこの抽象の中に現われる。ロンバルジヤ人、ユダヤ人は、農業をいとなむ中世の社会に対して同じ立場をとっている。
同一範疇がちがった社会段階でとるちがった位置の例をさらにあげると、市民(ブルジョア)社会の最後の形態の一である株式会社である。しかして、これは、市民(ブルジョア)社会の初期においては、特権をもち、独占を賦与された大きな商業会社に現われる。
国富の概念そのものは、次のように17世紀の経済学者たちの間にもまぎれこんでいて――部分的にはなお18世紀の経済学者にもつづいている観念だが――それは、富が国家のためだけに作り出され、国家の権力はこの富に比例しているというのである。これこそ、無意識的ではあるが欺瞞的な形態をとって、富そのものとその生産とが、近代国家の目的であることを告知し、この国家はなお富の生産のための手段にすぎないと見なしたことなのである。
・・・・以下省略・・・・