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 重商主義時代における ペティ「商品と価値」について


 
目次
 
1. ペティ租税貢納論  松川七郎 訳者あとがき 岩波書店  

       租税貢納論」の成立とその構成

 2. 『租税貢納論』  1662年


  ― 『租税貢納論』 1662年  
    
租税および貢納についての一論文
     
・王領地       ・刑 罰
     ・課 徴        ・独 占
     ・開 発        ・官 職
     ・人頭税       ・十分の一税
     ・富くじ       ・鋳貨の引きあげ
     ・ご用金       ・爐・いろり税

          
     ・国内物産税、等々
       の性質および標準を示し、あわせて
     
・戦 争         ・こじき
     ・教 会        ・保 険
     ・大 学        ・貨 幣 の輸出
     ・賃料および購買年数  ・羊 毛 の輸出
     ・貨幣賃料および    ・自由港
     ・かわせ料       ・鋳 貨

    
 ・銀行および質屋    ・家 屋
     ・資産譲渡についての   ・信教の自由、等々
      登記

  
に関する種々の論説および世論を點綴・てんせつ以上は随所においてアイルランドの現状および諸問題                              
 <ロンドン、コーンヒル 天使堂 N・ブルックのために印刷 1662年>
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 ペティ『租税貢納論』  
        松川七郎訳者あとがき
 岩波文庫 1952年発行 

     「租税貢納論」の成立とその構成 

1. 『租税貢納論』は、1662年のはじめに執筆され、その年の4,5月頃出版された書物であると推定されている。王政復古(1660年5月)の2年後でペティがちょうど39歳になった時期である。王政復古にさきだつ共和国の時代に、かれはオックスフォード大学における解剖学の教授としての学究的生活をなげうってアイルランドに赴き、約7カ年間(1652-59年)をこの島ですごした。この間、かれは最初軍医として、その後行政官として活動し、共和国政府がアイルランド人反徒から没収した土地について、実に大規模な科学的土地測量をおこない、ひきつづいてその没収地をさまざまの階層のイングランド人に分配し、そこにイングランド人の土地所有権を創設するという難事業を主宰した。これらの事業を処理したことによって、かれは経済社会に関する豊富な知識経験を体得すると同時に、膨大な土地資産をもわがものとなしえた。・・・

2. ペティの研究領域が、自然体から政治体へ回転したとみ、イングランドという政治体が当面した最大問題の一つは財政問題であった。・・・1642年の内乱勃発から、共和国、王政復古を経て、1688年の名誉革命にいたる約半世紀は、これを財政史的に見るならば、イングランドにおける近代的租税の開始期であると言われている。そのときどきの政治的支配権力が、どのような性質をもつものであったにせよ、主として相つぐ内外の戦争のために、それらはいずれもはなはだしい公共的経費の膨張にみまわれ、公収入はこれにともなわず、つねに窮迫した財政状態を経験せねばならなかったという事実である。・・・

3. 「租税貢納論」は、公収入の性質・標準およびその徴収の諸方法を主題としている。・・・
 このような全体構造をもつ社会の考え方は、まだ未発達な資本主義社会の現実を反映するものにほかならない。しかしペティにあっては、このような社会は、「政治体の血液と養液、すなわち農業および製造業」-別言すれば「社会から本来的に・そして本源的に」なにものかを獲得すべき生産的産業―の主導性を志向しつつある社会であって、この点に、かれの考え方のきわめて重要な特徴がある。と同時にこの考え方は、土地が富の母であるように労働は富の父である、という当時の通念を基調とするかれの思想につながるものなのである。

4. 軍事・行政司法・宗教・教育・社会事業・公共土木事業の6部門について論述されるペティの国家職能論は、以上のような社会経済的内容をもつ国家が、その富強を成就するために果たすべき諸機能とは何かという観点から展開され、かれの経費調節論は、支出される経費が国家の右の目的に役だつか否かその合理性の基準にしているのである。

5. 「租税貢納論」は、公収入をその主題とする政策論である。この主題を論ずるに当たり、ペティはこれを国家・社会の全面をおおう問題としてとらえ、同時にこれをその源泉の社会経済的性質の問題にまでふかめて考察しているのであって、この視角と論述の構成方法とじゃ、本書のもっともすぐれた特質をなしているのである。「土地が富の母であるように、労働は富の父であり、その能動的要素である、」という思想である。 本書においては、「土地・労働の自然的等価関係」の原理として理論化され、しかもペティは、数量をもってする現象的な観察・表象によって、この原理に客観的妥当性をあたえうると確信しているように考えられるのである。

6. ペティが創造したこの原理は、その後かれ自身にとっては「政治経済学におけるもっとも重要な問題」と
なったのであるが、労働価値説の創始者すなわち近世経済学の礎石をおいた人として、またかれがその後
実践的に発展させ「政治算術」において定式化した右の数量的観察方法は、社会経済統計の創始者として、ともにペティの名を不朽ならしめているものである。



 『租税貢納論』 1662年


「土地が富の母であるように、労働は富の父であり、その能動的要素(active Principle)である」

 第3章 不穏当な租税負担の諸原因は、どうすれば減少しうるか

(1)
 12. 8. 人民が少数であるということは真実の貧乏である。つまり800万の人民がいる国は、同じ地域に〔人民が〕400万しかない国よりも2倍以上富んでいるのである。というのは、統治者というのは非常に経費のかかる者であるが、その同じ数の者で、少数の人民に対しても、多数の人民に対しても、ほとんど同様にその役目を果しうるからである。

(2) 13. 第二に、もし人民があまりにも少数であるため、かれらが天然の産物によって生活しうる場合、もしくは牧畜等々のような僅少の労働によって生活しうる場合には、かれらはなんらの技芸をももたぬようになるであろう。自分の手を働かせることを欲しないような人は、誰れ一人として多大の思慮を要する心の苦悩をたえしのべないであろうからである。

(3) 14.一 9. 貨幣の不足もまた、租税の支払いが悪いいま一つの原因である。というのは、もしわれわれが、この国のすべての富-すなわち、土地・家屋・船舶・諸物品・家具・銀器および貨幣-のうちで、かろうじてその100分の1が鋳貨であるということ、そして現在イングランドにある貨幣はかろうじて600万ポンドであり、それは国民一人当たりではわずか20シリングにすぎないということを考慮するならば、みち足りた資産をもっている人たちでも、突然一定額の貨幣を支払うことが、どれほど困難であるか、われわれの容易に判断しうるところであるからである。そして、もしかれらが〔その貨幣を〕手にいれることができなければ、酷烈〔な徴税〕や課金が相ついでなされるであろう。まことに不幸なことではあるが、そうなるのも無理はない。・・・なぜならば、一人の特定の成員を危瞼な目にあはせるのは、全体をそうするよりもまだがまんしやすいからである、もっとも、全体といっしょに危険な目にあわされる方が、たった一人でそうされるよりもまだがまんしやすいことはもちろんであるが。

(4) 15.-10. すべての租税が貨幣で支払われねばならぬということは、いく分つらいように思われる。ことばをかえて言えば、(国王がたまたまポーツマスにいる自分の船に食料を供給しようとしているときに、)よく肥えた牛や穀物を現物のまま受けとることができず、農業者はあらかじめその穀物を売るためにおそらくは10マイルもはなれた地に運び、それを貨幣にかえなくてはならない、しかもそれが国王に支払われると、国王はそれをふたたび数十マイルの遠方から運んでくる穀物にかえなくてはならないからである。

(5) 16. のみならず、農業者はいそぐために、自分の穀物を安売りするし、国王もまた同様にいそぐために、自分の糧食をどうしても高く買いすぎる。それゆえ、現物で支払うことにすれば、そのときその場で、貧民にとって相当に大きい苦情のたねを減らすことになるであろう。

(6) 17. つぎに考慮すべきは、過大な租税は、以上に述べたような個々人についてではなく、全人民一般に対してどのような結果をもたらし、影響をおよぼすかということである。これに対して私はつぎのように言う。すなわち、一国の産業を運営してゆくのに不可欠な貨幣には、一定の標準と比率とがあるのであって、それにくらべて多くてもすくなくても、産業に害をおよぼすであろう、と。これは、銀貨と両替えするために、また、小銀貨でかたづけることができないような勘定をすませるために、小規模の小売りに一定比率のファージング貨がなくてはならぬのとちょうど同じことである。というのは、貨幣〔それは金・銀でつくられている〕が必需品(すなわち食物および衣服の資材)に対する関係は、まさに、ファージンク貨その他地方的に付帯的な貨幣が金貨・銀貨に対する関係に等しいからである。


(7) 18. ところで、商業に不可欠なファージング貨の数量比率が、人民の数・かれらの交換の度数から推定でき、同様にまた、主として貨幣のうちで最小の銀貨片の価値からも推定できるように、それと同じ仕方で、われわれの産業に必要な貨幣の比率も、変換の度数から、また法律あるいは習慣上通常とは異っておこなわれる支払いの大きさから推定できる。このことからつぎのような結果になる。すなわち、土地の登記簿があるところでは、それによって各人の・土地についての利害の正常な価値が熟知しうるであろうし、また金属類・織物・亜麻布・なめし革、およびその他有用物のような必需品の預託所があるところでも右と同じことである。そして貨幣について銀行がある所では、産業を運営してゆくのに必要な貨幣は一層すくなくてすむ。というのは、もし最大の支払いのすべてが、土地をもってなされ、その他の・おそらくは10ポンドまたは20ポンドまでぐらいの支払いが、質屋または融通銀行(Money‐Banks)における信用をもって支払われるならば、上述したよりも少額の貨幣だけでこと足りる、という結果になるからである。


   第4章 種々の課税方法について 

 第一、公共の諸用途に当てるため、全領土の一定部分を切りはなし、これに王領地の性質をあたえること 第二には、課徴、すなわち地租として課税すること

(8) 12. しかしながら、諸々の租税との関連において、諸々の賃料(Rents)についてあまりにも多くを語るまえに、われわれは、前述の土地や家屋の賃料はもとより、貨幣-その賃料をわれわれは貨幣賃料(Usury)とよぶ―についても、それら〔の賃料〕の神秘的な性質をつとめて解明しておかねばならない。

(9) 13. かりにある人が、自分で手をくだして、一定面積の土地に穀物を栽培することができるとしよう。すなわち、この土地の耕作が必要としているだけ、掘り・またはすきかえし・まぐわをかけ・除草し・刈りいれ・家にとりいれ・打殼し・そしてふるい分けることができるとしよう。しかもなおそのうえに、この土地にまけるだけの種子をもっていたとしよう。私は言う、この人が自分の収穫物の所収から、自分の種子をさしひき、また同様に自身の食べたもの、および衣類その他の自然的必需品と交換に他人にあたえたものをさしひいたとき、なおそこに残る穀物は、その年のあいだにおけるその土地の自然的な・真実の地代(natural and true Rent)である。そしてこのような7年間の中数、否むしろ凶作と豊作とが回転して周期をつくりあげている・いく年かの中数が、穀物であらわされた・その土地の・通常の地代である、と。

(10) 14. しかし一歩をすすめて、副次的な間題ではあろうが、この穀物すなわち地代がイングランドの貨幣でどれほどに値いするかという問題がある。私は答える、それは、別の一人の人が、同じ期間中、かりに貨幣の生産・製造に専心従事したとして、自分の費用のほかに貯蓄しえただけの貨幣である、と。すなわち、別の人が、銀の生産される地方におもむき、そこでそれを採掘し、それを精錬し、それを他の人が穀物を栽培しているところにもってくるとしよう、そして同じ人がそれを貨幣に鋳造する等々のことをし、さらにこの人は、銀のために働いているあいだに、生計に必要な食物も集め、衣服も手にいれる等々をするとしよう。私は言う、一人の人の銀は他の人の穀物と同一価値に評価されねばならない、と。すなわち一方はおそらく20オンス、他方は20ブッシェルであろうが、このことから、この穀物1ブッシェルの価格は銀1オンスであるという結果になるのである。

(11) 15. そして銀〔生産〕に従事するのには、穀物のそれよりも一層多くの技芸と危険とがありうるとした
ところで、すべての事態は結局同じことである。というのは、100人の人をして10年間穀物を生産させ、同数の人をして同期間銀を生産させるがよい。私は言う、銀の純所収(neat proceed)は穀物の全純所収の価格であり、その一方のものの同じ部分は他方のものの同じ部分の価格である、と。それにしたところで、銀〔生産〕に従事した人が、全部が全部、精錬および鋳造の技芸を学びえたわけではなく、あるいは鉱山で働く危険および疾病を生きぬいたわけでもない。さらに、この方法は金および銀の価値のあいだの比率を定めるものでもあるが、この比率は、多くの場合通俗的な過誤にもとづいてきめられ、あるいは多すぎたり、あるいはすくなすぎたりして世界中に普及されたのであって、(ついでながら述べれば)この過誤は、われわれが従来金の過剰に悩まされたり、現在になってその不足に悩まされたりしている原因である。

(12) 16. 私は言う、こうすることが諸々の価値を均等化することや平衡化することの基礎である、と。とは言え、私は、この基礎のうえにある諸々の上層建築および慣習には、実のところ多くの様相がおり、また大いに錯雑してもいると言わざるをえないが、その点については後段で述べよう。

(13) 17. 世間では、金および銀で―しかし主として後者で―諸物を測定する。というのは、二つの尺度が
あってはならないし、したがってまた、多数のうちで一層よいものは全体のうちの唯一のものでなければならないからであって、ことばをかえて言えば、一定量目の純銀で諸物を測定するのである。ところで、私がもっとも有能な老練家たちの種々の報告から知りえたことであるが、かりに銀の量目および品位を測定することが困難であるにしても、またかりに銀の品位および量目が同一であるにしても、その価格は騰落する。そして鉱山からの距離はもとより、その他の事故によって、ある場所では他の場所でよりも一層多くの値いがあるし、一カ月かそこらの短期間まえよりも、現在の方がもっと多くの値いがあることもありうる。そこでもし銀が、それで価値づける種々の物に対するその比例を異にし、その増減にもとづき、種々の時代によって、価値が異なるものとすれば、われわれは、金・銀の卓越した効用をきずつけることなしに、なにか他の自然的標準および尺度を吟味するために努力すべきであろう。

(14) 18. イングランドでは、われわれは金平銀を、ポソド・シリング・ペンスというように、種々の名称でよび、そしてこれらすべては、三者のうちのどの名称を用いてもよべるし、また理解もできる。しかし、この問題について 私の言いたいことは、すべての物は、二つの自然的単位名称、すなわち土地および労働によって価値づけられねばならない、ということである。すなわち、われわれは一隻の船または一枚の上衣が、これこれの数量の土地、ならびに別のこれこれの数量の労働に値いすると言わねばならない。そのわけは、船も上衣も、ともに土地およびそれに投ぜられた人間の労働(mens Labour)の創造物であるからである。このことは真実であるから、土地と労働とのあいだに一つの自然的等価関係(a natural Par)を発見しうるならば、われわれはさぞうれしいであろう。
 もしそうなるならば、われわれは土地と労働のいずれか一方のみで、両者をもってするのと同様あるいはそれ以上十分に、価値を表現しうるようになるであろうし、またペンスをポンドに還元するくらい容易にしかも確賓に、一方を他方に還元しうるようになるであろうからである。それゆえ、たとえ上述した用益権の自然的価値についてほどうまくはゆかないにしても、永代無条件相続地の自然的諸価値を発見しうるならば、われわれはどれほどうれしいであろうか、以下それを試みてみょう。


(15) 19. 地代すなわち用益権の1年当たりの価値が仮見されたのであるから、つぎの間題は、永代無条件相続地の自然的な値いは(われわれの日常用語で)どれだけの購買年数(years purchase)であるかである。かりにわれわれが無限数を口にするならば、その場合には、1エィカの土地は―その価値については―同じ土地千エィカのそれに等しいということになろう、1単位の無限大は千単位の無限大に等しいから。これは馬鹿げている。それゆえわれわれは、なんらかの有限数を定めなくてはならないのであるが、私は、それを、すべてがいっしよに生活している一人の50歳の人、他の一人の28歳の人、もう一人の7歳の人、すなわち祖父・父・子が、ともに生きてゆける年数であろうと了解している。これ以上先の子孫のことを心配しているなどと言える人はあまりあるまい。というのは、ある人が曽祖父になるのは、かれ自身それだけ死期にちかく、普通かれの直系の子孫のうちに同時に共存するものはわずかに右の三人しかないときであろうし、また、人によっては40歳で祖父になる人もあるが、多数から言えば60歳をこえなければそうはならないからであって、他の場合もまた同様である。

(16) 20. この見地から、私は、なんらかの土地が自然的に値いする購買年数を、右のような三人の人の生命が通常継続する範図であると定める。現在、イングランドにおいては、われわれは三人の生命〔が継続する期間〕を21年と推定し、したがって、土地の価値もまたほぼ同じ購買年数であると推定している。われわれは(死亡表の観察者が考えたように)、この一方〔の計算〕にあるいは誤りを発見しないともかぎらないが、〔そのときには〕他方を変更しようと思えばできないことはない。もっとも、通俗的な誤りによって、またそれがあまりにもいろいろのことに関係をもつようになっているために、こういう変更を許さぬ場合はこの限りではない。

(17) 21. 私は、権利名義が有効で、しかもその購買〔の結果〕を享受しうることが道義的に確実なところにおいては、これが購買年数であると思う。しかし、他の国々においては、権利名義がもっと有効で、人民がもっと多く、さらにおそらくは価値および三人の生命の継続期間についてのもっと正しい見解がおこなわれているために、土地はどちらかといえば30年ちかくもの購買年数に値いしているのである。
 
  第5章 貨幣賃料について
     
・・・ひたいのうえに記される・・・

(1)
 いつなんどきでも、われわれが要求しさえすれば、確実にとりもどせるような・なんらかの物に対して、利子すなわち貨幣賃料(Usury)をなぜやったりとったりするのか、私にはその根拠がわからない。また、貨幣あるいは貨幣で価値づけることができる他の必需品が貸しつけられ、借り手はその欲する時期と場所でそれを返却しうるが、貸し手はその好む場所と時期にそれを返還してもらえぬ場合に、どうして貨幣賃料をとるのを遠慮しなくてはならぬのか、その根拠も私にはわからない。

(2) 3. ところで、ここからつぎの問題がおこる。すなわち、貨幣賃料またはかわせ料の自然的標準(natural Standards)はなにかである。貨幣賃料の最低限については、その安全性について疑問がないところでは、借りた貨幣で買えるだけの土地からあがる地代であると言えよう。しかし、その安全性があやふやなところでは、単純な自然的利子に一種の保険料が織りこまれなければならない。そしてこのことは、貨幣賃料を―元本以下ではあろうが―きわめて正当な程度にまで高めるであろう。現在、もしイングランドにおいて、上述したような安全性が現実には全くなく、否むしろすべてのものごとが、多少とも危険で、手数か費用かがかかるものならば、世間の慣習に反して、場所についてはもとより、時間についてもまた、貨幣賃料の制限に努力するのは、私には理由のないことであるように思われる。もっとも、貸し手というよりもむしろ借り手が、こういう法律を制定しようとするのならば話しは別である。

(3) 5. このことと類比されるのは、われわれが土地の価格に関して省略しておいた2,3の問題である。というのは、貨幣の必要が大であれば、かわせ料が高められるように、穀物の必要が大であれば、同様にその価格も昂騰し、その結果、穀物を生ずる土地の地代が、そしてついには土地そのものの価格が昂騰するからである。たとえば、ロンドンまたはある軍隊を養う穀物が、40マイル遠方から運ばれてこなければならぬ場合には、ロンドンまたはそういう軍隊の直営地から1マイル以内に生育する穀物は、その自然価格に、それを39マイル運んでくるのに要する費用を加えらるべきであろう。そして、鮮魚・果物等々というような腐敗しやすい諸物品に対しては、腐敗等々の危険に対する保険料をもそれに加うべきである。そして最後に、これらの物をそこ(たとえば料理屋)で食べる人〔が支払う価格〕には、それぞれの事情に応じて家屋賃料を構成するいっさいの部分、すなわち、家具・従者および腕ききの料理人の労働はもとより、その腕まえについての経費をも加うべきであろう。


(4) 6.それゆえつぎのようなことが起る。すなわち、人民がおびただしくいる場所、つまり、その住民を養うべき面積の周界が大であるような場所のちかくにある諸々の土地は、右の理由により、遠方の・本質的には同等な土地よりも、一層多くの地代を生ずるばかりではなく、また一層多くの購買年数があるであろう。その場所で土地を所有しているということの快楽と名誉とは、尋常一様のものでぱないからである。というのは、「有用に混ずるに快楽をもってしたる者は、あらゆる者の賞讃をえたり」であるから。

(5) 8. 1. それゆえ私は、すべての土地を、その教区・徴税区等々という行政上の境界、および沿海・沿川・岩頭・山等々という自然的特徴の両方面にしたがって、形状・面積・位置について測量することを提案する。

(6) 9. 2. 私は、各単位名称〔の土地〕の性質は、その土地で平常生産される諸物品、すなわちある土地において他の土地におけるよりもたまたま一層多くとれるある種の木材・穀類・豆類または根菜類によって記述すべきことを提案する。同様にまた、その土地に種をまき、もしくは栽培されたものが、年額でどれほど増加したか、さらにそのうえ、これら諸物品の相対的優良性を、貨幣という共通の標準によってではなしに、相互比較によって記述すべきことをも提案する。たとえば、かりに10エィカの土地があるならば、私はまずその土地が牧草に適するか穀物に適するかを判断したい。もし牧草に適しているのなら、右の10エィカの土地は他の10エィカの土地よりも、どれほど多くまたはすくなく牧草を生ずるか、さらに右の牧草の1ハンドレット・ウェイトは他の牧草の同量よりも、どれほど多数または少数〔の家畜〕を飼育し、肥らせるかを判断してゆきたいのである
しかも、従来のように、
この牧草を貨幣と比較するのではない。もしそうすれば、右の牧草の価値は、貨幣の豊富さにしたがい、多くもすぐなくもなるからであって、それは西インド諸島の発見以来驚くほど変化しているからである。また右の牧草の価値は、この土地のちかくに住む人民数の多少、ならびにかれらの生活がぜいたくか、つつましいかによって多くもすくなくもなるのである。否そればかりではなく、これらの人民の社会的・自然的・宗教的見解にしたがって多くもすくなくもなるのである。

 たとえば、ある天主教諸国では、卵は四旬節のはじまりにはほとんど値うちがない(なぜかと言えば、四旬節がすむまでに卵の品質や風味がおちるからである、)また、ユダヤ人のあいだでは、豚肉は値うちがない。さらに、有毒であるとか、不健康的であるとか言って、はりねずみ・蛙・蛇・きのこ等々をおそれてたべない人たちのあいだでは、これらのものは値うちがなく、そしてレヴァソト産のほしぶどうやスペイン産のぶどう酒にしても、勅令によって、それはこの国家に対する窃盗なりとしてその必滅が計られている場合には、これまた値うちがないのである。

(7) 10. この前者を称して私は土地の内在的価値の測量あるいは吟味と言い、後者すなわちその付帯的
または偶然的〔価値の測量あるいは吟味という〕のがこれにつづくのである。われわれは、貨幣貯蔵の変化が、われわれが計算上用いる名称または用語(ポンド、シリング、およびペンスがまさにこれである)にしたがい、
諸物品の値段を変化せしめるということを述べておいた。たとえばつぎのごとくである。   
 もしある人が、1ブッシェルの穀物を生産しうるのと同じ時間に、銀1オンスをペルーの大地からロンドンにもってくることができるとしよう。この場合、一方は他方の自然価格(natutal Price)である。ところが、もし新しいしかももっと楽な〔探掘ができる〕諸々の鉱山のおかげで、ある人がかって1オンスを獲得したのと同じ容易さで、銀2オンスを獲得することができるならば、そのときには、他の条件にして等しい限り、穀物は1ブッシェルが10シリングでも、かつて1ブッシェルが5シリングであったのと同様に安価である、ということになるであろう。

(8) 11. それゆえわれわれは、よろしくわが国の貨幣を数える方法をもたねばならない(そして私はそれをもっていると思う、しかもそれは、短期間に、なんら費用をかけず、さらに(これに加うるに)いかなる人のポケットのなかをものぞきこむことなしになしうる方法である、以下これについて述べよう)。
 いまもしわれわれが、200年まえにイングランドにどれほどの金および銀があったかを知っており、また、現在のそれがどれほどであるかを数えうるとしよう。さらにそればかりではなく、当時においては、現在 62シリングをつくるのと同一の銀量から、37シリングがつくられていたのであるが、その〔貨幣の〕単位名称の相違を知っているとしよう。それに加えて、合金の量、鋳造のさいの労働、量目および品位の公差、国王に対する造幣料の相違を知っているとしよう。のみならず、常時と現在の労働者の賃銀をも知っているとしよう。以上のすべてをもってしてもなお、
貨幣のみをもってしては、わが国の富の相違を示すことはできないと言わねばならない。

(9) 12. この見地から、われわれは前述の諸事項に加えて、人民の数の相違についての知識をもってし、そしてつぎのように結論づけねばならない。すなわち、もし一国内にあるすべての貨幣が、人民のあいだに―昔もいまもともに―平等に分割されているとすれば、各々の受贈者が、それでもってもっとも多敷の労働者を雇いえた時代の方がより多く富んでいたのである、と。したがってわれわれは、現在および過去において、この国内に存在する人民や地金についての知識を欠いているのであって、これらすべての知識は、過去についてすら、えることができるし、現在および将来についてならば、なおさら容易にえられる、と私は考えるのである。

(10) 13. それはともかくとして、論旨をすすめよう。われわれがかりに右の知識をもっているとしよう。そうすれば、われわれはロンドン付近にあるわれわれの土地の偶然的価値を定めることができる。われわれはまず冒険的に、できることならロンドンの周辺にある諸州、すなわちエスィックス、ケント、サリ、ミッドルセックス、ハーファッドが年々生産した食物および衣服の原料を計算したい、そしてさらに右の5州およびロンドンに居住するこれらの物の消費者の数を計算したい。そのさい、もし私が、〔右の諸地域の〕消費者が同一面積の他の土地に居住する消費者、否むしろ同一量の食糧を生産する他の土地に居住する消費者よりも多数であるということを発見したとしよう。そのとき、私はつぎのように言う。すなわち、食糧は、この5州においては他よりも高価であるに相違ない、そして右の諸州内では、ロンドンまでの距離の長短に応じ、否むしろ経費の多少に応じ、あるいは高くあるいは安いに相違ない、と。

(11) 14. というのは、もし右の5州が、すでにいっさいの努力をかたむけつくして、生産しうるだけの物品を生産したとするならば、それでも不足しているものは、どうしてもこれを遠方の州からもってこなくてはならないし、その結果、ちかい州の物の価格は騰貴せざるをえないからである。あるいはまた、かりに右の諸州が現在以上の大なる労働によって、土地を肥やすことができるとしよう、(たとえば、すき返えすかわりに掘りおこし、まきつけるかわりに定植し、種子をでたらめに選ぶかわりに優良なものを精選し、・・・等々、)
そうすれば、地代は収穫の増加分が労働の増加分を超過するにしたがって、それだけ騰貴するであろう。



(12) ひたいのうえに記される

18. ここで私は、この論をおしひろめてつぎのような奇論を述べたい。すなわち、比較的まずしい野心家は、普通それだけ勤勉なものであるにしても、
もしあらゆる人の資産額がいつもそのひたいのうえに記される〔注*〕ようになるならば、わが国の産業は、それによって大いに進歩するであろうということこれである。
しかしこのことについては他のところで論じよう。

→ 〔注*〕*ひたいのうえに記される・・・新約聖書「ヨハネの黙示録」第13章


  
第14章 貨幣の引きあげ・切りさげすなわち粗悪化について

(1)
 1. 国家が、(どういうつまらぬ忠言にしたがったのか私は知らないが、)その国の貨幣〔の名目価値〕を引きあげたり、または〔その素材を〕粗悪化したりすることによって、いわば貸幣を増殖し、またそれを従来より以上に通用させようとし、言いかえれば、それでもって一層多くの物品あるいは労働を購入しようとしたことがときどきあった。まことにこれらすべてのことは、実際には、国家が人民に債務を負いながら、まさにその人民に課税することにほかならないし、そうでないにしても、人民に返えすべき借金を国家が使いこんだことであり、同様にまた、恩給・確定賃料・年金・手数料・賜金等々で生活している人たち全部に対して、国家が租税同様の重荷を負わせることである。


(2)
 11. 貨幣の引きあげ(raising of mone)とは、標準銀のトロイ・ポンドを従来よりも多くの個数に―従来はそれを20個にしか分割していなかったものを、60個以上に―分割し、しかもなお、この両者を同じくシリングと呼ぶことか、さもなければ、すでに製造してある貨幣を従来よりも高い名称で呼ぶことである。
このような引きあげをおこなう理由または口実は、貨幣の引きあげは貨幣をつくりだすであろうし、その素材も一層豊富になるであろうというのである。試みに、1シリング貨が2シリングに値いすると布告されたとしよう。その結果としては、すべての物品の価格が2倍に高められること以外にはなにも起らないのではなかろうか。ところでもし、このような貨幣の引きあげにもかかわらず、労働者たちの賃銀等々は、びた一文もあげてはならないと布告されたとすれば、この法令は右の労働者たちに対して、強制的にその賃銀の半ばを失わしめるところの租税にほかならないのであって、それは不正であるばかりではなく不可能である。もっとも、かれらが右の牛分で生活しうるのならば別であるが、(それは想像もおよばぬことである。)というのは、この場合、そういう賃銀を指定する法律は悪法ということになるであろう。元来法律は、労働者に、生活しうるだけの資力を認むべきものであるからである。なぜならば、かりに諸君が二倍〔の賃銀〕を認めるとしよう。そうすれば、労働者が実際にする仕事は、かれが働こうと思えば働けもしたし、条件いかんによっては備こうとさえ思っていたはずの半分にしかならないであろう。これは、社会にとってそれだけ労働の果実を失わせることである。

(3) 17. ・・・この実証的方法について、私はつぎの仮定を前提にしておく。まず第一に、ある地域内に1000の人民がいるとしよう、またこれだけの人民がいればその全地域を穀物の耕作のために耕やすのに十分であるとしよう。そしてこの穀物は、われわれがパンということばを主の折りにおいて考えるように、われわれの生活に必要なすべてのものを含んでいるとしよう。
さらに、
この穀物1ブッシェルの生産に要する労働は、銀1オンスの生産に要するそれと相等しいとして
おこう
。のみならず、かりにこの土地の10分の1と、この人民の10分の1、すなわち100人とで、全部に対して
十分なだけの穀物を生産しうるものとし、(上述したようにして発見される)土地の地代は、全生産物の4分の1であるとし、(現実にはぼこの比例であることは、ある地方において、地代のかわりに収穫の4分の1たばを支払うことからも想定しうる、)さらに、この耕作には100人しか必要でないのに、かりに200人がこの仕事(Trade)にたずさわり、穀物1ブッシェルで足りるはずなのに、味がよいので、世人が2ブッシェル用い、それをみな粉にして使うものとしよう。そこで、以上のことからひきだされる推論はつぎのごとくである。    

 第一、土地の良否、すなわちその価値というものは、生産物を生みだすために投せられた単純労働(simple labour)に比例して、その土地から生産された生産物の分けまえ(share)の多少に依存していること。 第二に、穀物と銀とのあいだの比例は、人為的な価値(artificial value)のみを示し、自然的な価値を示していないこと。なぜならば、この比較は自然的に必要なものと、それ自身としては不必要なものとの比較であるからである。そして、(ついでに言えば、)このことはどうして銀の価格が他の諸物品のそれのように、
そう大きく変動せず、また飛躍もしないかということの理由の一部である。
 第三に、〔価値が〕自然的に高いか安いかは、自然的必需品の生産に不可欠な人手の多少に依存すること、つまり穀物は、1人の男が6人分の穀物しか生産しえないところよりも、かれが10人分の穀物を生産するところの方が安いこと、しかも、気候しだいで世人があるいは多く、あるいはすくなくそれを消費するのを必要とする気にならされるのに応じて〔穀物価格も上下すること〕。しかしながら、政治的低廉というものは、必要とされるすべての産業がなんであるかを問わず、過剰に存在するもぐりの業者が少敷であるのに依存する。つまり、100人の農夫で営めるのと同じ仕事を200人で営んでいるところでは、穀物は2倍だけ高価であろう。そしてこの割合は、余剰経費の割合と合算されなければならない、(すなわち、かりに上述のような騰貴の原因に、2倍の必要経費が加算される場合がそれである、)そうとすれば、自然価格は4倍となって現われるのであって、この4倍の価格が、自然的根拠にもとづいて計算された・真実の政治的価格(Political Price)である。
 のみならず、この政治的価格が普通の人為的な標準銀と比例せしめられるならば、求められたもの、
すなわち真実の流通価格がえられるのである。


(4) 19 本章の全体を結ぶに当たって、われわれは言いたい。すなわち、貨幣の引きあげ、またはその粗悪化け、人民に対するきわめてみじめな・しかも不公平な課税方法である、と。また、それはおぼれかかっている国家の象徴であって、そういう国家であればこそ、わらしべにもつかまろうとし、にせ物を正当化するために、〔鋳貨のうえに〕国王の像を刻みつけるという不面目をあえてしたり、実際に存在しないものを存在するかのように言うことによって、公共の信義を破ったりするのである、と。
   ・・・以下省略・・・