5. 重商主義時代の「商品と価値」 その(2)
小林昇 『国富論体系の成立』 未来社 1977年
第3章 交換価値の真の尺度 -労働価値説の創造
マルクスによって「経済学の父」と呼ばれまた「近代的経済学の創始者」と呼ばれたウィリアム・ペティは、とくにその労働価値説の創唱のゆえにこの資格をあたえられているのであるけれども、彼の労働価値説はつぎの2点においてスミスのそれと意義をことにするものであった。
1. すなわち第一に、ペティにあっては、「土地が富の母であるように、労働は富の父でありその能動的要素(active principle)である」と述べられており、ここでは、富はその社会的形態については無規定なままの使用価値である。したがって、ここには労働の役割が強調されているとはいえ、やがてそこから生まれてくる周知の労働価値説の命題(後掲)は、一方における、母なる大地の観念の残存のゆえに生ずるつぎの諸命題によって曇らされざるをえない。
すなわちペティにあっては、交換価値が秤量されるばあいに、「すべての物は二つの自然的単位(natural denominations) すなわち土地と労働とによって価値づけられなくてはならない」のであり、こうして土地と労働とのあいだに「自然的同価関係」(natural ar)を見いだすこと、あるいはこの両者のあいたに「同価・均等の関係(par and equation)をつくりあげてあらゆる物の価値をそのいずれか一方だけで表現する」ことが、こころみられるにいたるのである。これが労働価値説の破産であることはいうまでもない。
2. なおペティにあっては、右のような富の観念と並存して、彼のいわゆる「普遍的富」(universal wealth)すなわち貴金属や宝石などの「財宝」をおなじくいわゆる「一般の富」(wealth
at large)よりも尊重すべきだという主張が見られるが、 「土地」=富の観念と「財宝」=富の観念とのこういう並存は、商品生産がまだ十分に拡大していない社会における経済学的思考にとって免れえないものなのであった。商品が富の基本形態だとする観念はそこではまだ熟しきることができなかったのである。
3. 第二に、ペティにあってはその労働価値説は、彼の国民経済的分析のなかでは、理論体系の基礎ないしその展開の基点という位置にすえられているのではなく、したがって彼自身がそういう理論的自覚のもとに立言したものでもない。
彼の主著というべき『租税貢納論』(A Treatise of Taxes and Contributions, 1662)は、第一章「各種の公共的経費について」にはじまり第15章「国内物産税について」に終る構成をもち、その第5章「貨幣賃料(usur)について」で、第4章「種々の課税方法について…」
を受けつつ、土地税の源泉であるレント(土地の生む剰余)を交換価値→価格として測定するという目的とのかかわりにおいて、最初の労働価値説として知られるつぎの命題を立てたのであった。
― 「 もしある人が、1ブッシェルの穀物を生産できるのとおなじ時間で、1オンスの銀をペルーの大地のなかからロンドンにもってくることができるとしよう。このばあい、一方は他方の自然価格(natural
price)である。ところで、もし新しい、しかももっと楽に採掘できる諸鉱山のおかけで、ある人が、かつて1オンスを獲得したとおなじたやすさで2
オンスの銀を獲得できるようになるならば、そのときは、他の条件が等しいかぎり、穀物は 1ブッシェルが10シリングでも、これまで1ブッシェルが 5シリングであったとおなじに安価だということになるであろう。」 こうして、この命題のなかでは、穀物が他の任意の一商品とではなく、いきなり貨幣商品=銀と対置させられているのである。
4. スミス以前における労働価値説のこういう特質は、さきに引いた匿名書『貨幣・公債利子論』のばあいにも同様に示されている。さきの引用の前の部分のなかの、「食料や飲料のような生活必需品の多くは、部分的には人間の労働の生産物であり、部分的には土地の生育させたものである」云々という個所を見られたい。これはマルクスが引用を省いた部分であるが、ここには労働価値説の命題のなかに土地=富という観念が残存していること、またこれとともに、自然が価値の形成に参加するという考えの払拭されていないことが示されている。そうしてこの匿名書にあっては、労働価値説の登場はペティのばあいよりもいっそう偶然的であって、そこでは利子率のひきさげという著者の主張が、貨幣量と物価と利子率との三者のあいだの相関関係を理論的に検討することの必要に直面して、その予備的操作としてまず貨幣の存在しなかつた時代における、交換価値の「規制」者を求めたことから、労働価値説の命題が成立したのであった。だからこの命題は、「商業がたんに一つの財貨と他の財貨との物々交換によっていとなまれていた、いまより古い時代」
(あとの引用)にだけあてはまるものであって、財貨が貨幣すなわち「普遍的な媒介物と比較されるばあいの価値すなわち価格は、使用される労働の量と媒介物すなわち普遍的尺度の多少とによって支配されるであろう」
(まえの引用)とされたのであった。
すなわちここでは、労働価値説はただちに貨幣数量説と結合され、それによって行論のなかでの役割を終えてしまうのである。これらの立言の部分もまた、マルクスがとくに引用しなかったところであった。
5. スミス以前の労働価値説に混在してそれを曇らせていた土地=富という観念からの脱却は、ペティの同時代人であったジョン・ロック(John Locke)にとっても、ついに不可能であった。ロックはその『統治論』(Two Treatises
of Government,1690) において、つぎのように観念の苦闘のあとを示している。
「 あらゆる物に価値の差等(difference of value)をあたえるものは労働にほかならない。誰でもよい、タバコや砂糖を植えつけ、小麦や大麦を蒔きつけた土地1エーカーと、おなじ土地でも、なんの耕作もおこなわれず共有のまま放置されている土地1エーカーとの差を、考えてみるがよい。そうすれば、労働による[土地の]改良が価値の大半をつくり出すことがわかるであろう。人間の生活にとって有用な大地の産出物のうち、10分の9は労働の効果であるといえば、それはきわめてひかえめな算定にすぎまいと思われる。いな、もしわれわれが、使用に供されるものを正しく評価し、それらについての種々な費用 (expences)を純粋に自然に負うものと労働に負うものとに分けて計上するならば、それらの大部分が100分の99までまったく労働の側に帰せられるべきであることが知られるであろう。」
ここでのように、生産の「費用」におげる土地の分け前をわずかに100分の1だけみとめることが、富と価値との観念における転換をロックにさまたげているのである。
6. この転換を、『国富論』までの経済学史に見いだすことは不可能である。
ステュアートの『原理』は、前章ですでに知ったように、近代社会の存立と展開とを支える自由な労働であるインダストリの概念を確立し、それが社会的剰余を生産すること、この剰余が「適当な等価物」の媒介によって流通にみちびかれることを論じた。右の「適当な等価物」とはつまりは貨幣のことであり、それは「価値と呼ばれるものの普遍的尺度」(the
universal measure of what is called value)であった。こうして、インダストリの概念は交換価値の生産者という意味を、その不可欠な要素としてふくんでいたわけである。そうして一方、『原理』の第1編においては、この交換価値の形成に自然が参加するという観念は示されていない。しかしこの第1編では、インダストリの生産物が農業と工業との両生産部面のあいだで、つまりファーマーとフリー・ハンズとのあいだで、彼らの「相互的欲望」(前章注25)を充足させるために交換されるばあい、そこにどういう法則がはたらくかは、まだ論ぜられなかったし、農業生産における剰余の価値的表現であるレント―生産費とファーマーの「利潤」とを差引いた残余の価値部分―がどのようにして生ずるかも、まだ説明されなかった。ところが第2編にいたると、交換価値の分析が工業製品に即しておこなわれることとなり、その展開のなかで、価値の形成において質料と労働とが協働するという不透明な思考が表現されるのである。
すなわち― 『原理』第2編第4章は、工業製品(manufacture)の価格の構成要素に対する分析、とくに生産費の分析―わたくしはそれを次章で取扱う―を、学史上はじめて詳細に、ただし「商品の価格はトレードによってどのように決定されるか」という見地から、おこない、その結論として、生産費[原費](prime
cost)と販売価格(selling price)とは別のものであること、「前者は使用された時間、職人の費用、原料の価値に依存し、後者はこれらと譲渡利潤(profit
upon alienation)との合計である」ことを主張しつつ、混乱した文脈のなかでながら労働時間への着目を示している。ところが、交換価値の形成における右の「時間」という要素は、おなじ第2編の、いわゆる「富のバランス」(後述)を論ずる第26章にいたって、こんどは富の形成における質料という要素とからみあいつつ、つぎのような役割を担うにいたるのである。
「[不滅性をもつ商品でなく]費消される商品(consumable commodity)…というばあいには、貨幣と土地と…以外のあらゆる有形的な物(corporeal
thing)がそれにふくまれる。ここでは二つのことが注意に値する。第一は純粋な実体(simple substance)すなわち自然の産出物であり、第二は加工(modification)すなわち人間の労働(work
of man)である。
わたくしは第一のものを内在的値うち(intrinsic worth)と呼び、第二のものを有用価値(useful value)と呼ぶこととする。
第一のものの価値はつねに、それの受けた加工がまったく滅失したのちにおけるその有用性によって測られるべきであり、物の性質からこの両者が同時に費消されなくてはならないときには、総価値は両者の合計である。第二のものの価値は、この商品をつくるのに要費した労働(labour)によって測られるべきである。
例示すればこのことはよくわかるであろう。絹とか羊毛とか麻とかの製造品の内在的値うちはみな、それら〔の原料〕が当初に使用されたときの価値よりも小さい。なぜなら、それらはこの製造品の目的とする以外の用途にはどれにもほとんど役立たないように加工されているからである。……
精巧につくられた一個の銀の器にあっては、内在的値うちは完全に保たれ、しかもその有用価値から独立している。
なぜなら、それは加工によってすこしも失われないからである。それゆえ、内在的価値(intrinsic value)はつねにそれ自体なにほどか実体的なものであるが、加工にあたって用いられる労働は人間の時間の一部分を代表するのであって、この時間は、有効に(usefully)用いられて、ある実体に、これを実用的になり装飾的になり―つまり人間に直接または間接に役立つように―変えるところの形式をあたえるものなのである 」
7. 『原理』における右の晦渋な規定のなかには、インダストリ論から労働価値説が成立しようとして成立しえなかった事情、すなわちそこに富の把握における「質料的内容との格闘」(Ringen mit dem stofflichen Inhalt)がなおおこなわれていたという事情が、とくにはっきりと示されている。そうして『原理』にあっては、富におけるこのような「純粋な実体」の観念は、諸商品はその不可滅性ないし「実体」性の大小に応じて富としての格付けをあたえられており・したがって土地や貴金属は優越的な富である、という主張と、同一の章のなかでかたく結ばれているのであって、『原理』がその体系のはじめに樹立したイソダズトリの概念―それは労働の近代的形態に対する、またそういうものとして交換価値をつくる労働に対する、ステュア-トのきわめて有意義な把握を示すものであった―は、複雑な理論的曲折ののちに、このようにしてまったく重金主義的な富の観念に収斂することに終っているのである。
上述のように、土地=富の観念と貴金属=富の観念とは、商品生産が十分に支配的でなかった社会では並び存した観念であったから、ペティやロックにおける富の観念の曇りがステュアートにいたってかえって大きく拡がり、それが労働価値説の成立を妨げたという事情を、われわれは『原理』に見ることができるであろう。
そうしてこれに対して、商品生産が満開した「商業的社会」の概念を体系のはじめにすえて、富=商品が労働の生産物でありその交換価値の真の尺度は支配労働量→投下労働量によって規定されるという命題を立て、そこから理論的分析を開始しようとした、『国富論』の意識と意図とのもつ革新的意義は、右の事情を知ることによってはじめてはっきりと理解することができるであろう。 『国富論』における労働価値説は、ペティや『貨幣・公債利子論』の著者の労働価値説の命題の継承であるばかりでなく、同時に、それがあたえられている体系的位置ならびに意義という点からいえば、まさしくそれらからの脱却だったのであった。
8. わたくしは右に、労働価値説における継承ということをいった。しかし、この継承関係は、ペティ・・・・スミスのばあいとスミス→リカードウのばあいとではおなじでない。スミスはペティの創始した「政治算術」に消極的評価をしかあたえなかったし、彼の蔵書のなかにはペティの著作はほとんど見あたらず、したがってむろん、労働価値説の命題をふくむ『租税貢納論』は見いだされない。時論的な性格のつよい匿名書『貨幣・公債利子論』も、これはむしろとうぜんのことながら、スミスによって所蔵された痕跡はない。ロナルド・ミーク(Ronald
L, Meek)はスミスがこの書をよく知っていたはずだと述べているが、この強引な推測はわたくしの理解しがたいところである。なお、『国富論』以前における労働価値説の命題としては、ペティおよび右の匿名書以外に、ベソンャミン・フランクリン(Benjamin
Franklin)の、あきらかにペティを継承したと思われる命題があるけれども、フランクリンとスミスとのおいだには個人的交友関係があったにもかかわらず、労働価値説における前者から後者への継受ということもまた推定しがたい。なぜならフランクリンの命題は、彼の膨大な諸論著中の一冊にすぎない、時論的小パンフレット『紙幣の本質と必要とにかんする小研究』(A
modest Enquiry into the Nature and Necessity of Paper Currency, 1729)において、しかもここでもまたいわば偶然的に、発言されているものだからである。そうしてこのパソフレットもまた、スミスの蔵書に見いだすことができない。したがって、『国富論』における労働価値説は、交換価値と使用価値との不一致にかんする立論のばあい―スミスがそれを継承したローやハリスの著書はスミスの蔵書に見いだされる―とことなり、スミスの創造であることの可能性をふくむものである。そうとすれば、労働価値説におけるペティ・・・スミスの継承関係は、むしろ歴史が彼らの無意識のうちに成立させた系図なのであり、ここに、価値規定の点でのスミスの未熟さが由来するのであろう。だが、この事情はかえって、右の継承関係のふくむ断絶の半面と、スミスにおける創造の意義とに対する、われわれの留意を要求するように思われる。
・・・以上・・・
→ 重商主義時代の「商品と価値」 その(1) ペティからスミスまで 『経済学の形成時代』