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『資本論』と「心と脳科学」 2017.03.09

 
 『
心を生んだ脳の38億年   藤田哲也著 岩波書店 1997.10.22

    はじめに
    資本論ワールド編集委員会では、今年2017年2月に資本論ワールドHP1周年を記念して「心と脳科学」関連資料を提供します。 
中心テーマは、「社会関係」や「社会性」について『資本論』との関係で、「心の脳科学」を探求する目的です。 最初に、1997年から刊行されたシリーズ「ゲノムから進化を考える」岩波書店全5巻から、 『心を生んだ脳の38億年』(抄録)を紹介します。


Ⅰ. シリーズ「ゲノムから進化を考える」刊行にあたって 

           1997年9月 松原謙一、中村桂子


 生命の研究は今、一つの転換点にある。それは面白くなりつつあるともいえるし、考えるべきことが多いともいえる。遺伝のしくみ、その暗号の解読、さらには免疫や脳神経や動植物の発生現象など「生命のしくみ」の研究がいちじるしく進んでいると共に、この地球上にある3000万種とも5000万種ともいわれる多様な生命を相互に比べる新しい方法が手に入り、その研究も盛んになってきたからだ。
 これはヒトを含むあらゆる生きものが、見かけ上はいかに違っていても40億年近くまえに誕生した、共通のDNA型の祖先生物に由来した兄弟だというコンセプトに支えられている点で、単に相似器官や相同器官を比べるこれまでの研究とは違っている。DNAの分析によって、多様性の根底にある共通性を手がかりに、進化という時間軸に沿って起こった生命の展開を、現存する生物の相互比較、つまり空間軸に沿って検証しようというわけである。

 その結果、ヒト、細菌、昆虫、クジラ、植物などという一見どうしようもないほど、「違う」生きものを比べてその関係を論ずることができるようになり、形や器官の類似性、そのでき方と系統などをこれまでと違う装いの下に論ずるに至った。 ・・・・略・・・
 こうして複雑さを増していく中での創発的変化としてもっとも興味深いのは脳の複雑化と心の誕生である。人間の脳も急に生まれたものでなく生命誕生以来の歴史を踏まえたものであり、そのような視点をとって初めて本質が見えてくるはずだ。・・・



Ⅱ.  『心を生んだ脳の38億年』

  目 次

4 脳のサイズからみた脳の進化
 1. スネルの精神因子
 2. 爬虫類から哺乳類への脳の進化
 3. 哺乳類の脳の急成長
 
4. ヒトに向かう脳の進化の出発点
 5. アウストラロピテクスにおける脳の進化

7 人間の英知の発達と心
 1. 人類共通の文化の形成
 2. 「文化」が可能とした「獲得形質の遺伝」
 3. 自発的合目的行動と、感覚入力の総合によるその制御
 4. 生得的神経回路の充実と記憶の発達
 5. 霊長類の脳の機能的特徴
 6. 言語の獲得と主観の客観化
 7. 自己の認識
 

 エピローグ ― 脳と心の哲学

 1. 霊魂の不滅性
 2. 生きものの存在についての哲学者の見解
 3. 世界霊と宇宙創造の目的論への批判
 4. 霊魂不滅論と生得的知識の起源
 5. 脳がつくりだす認識と自己意識
 6. 脳は自発的にデータを集め世界を予測するようにできている
 7. 哲学と宗教を生んだ脳の機能


  7 人間の英知の発達と心

  1. 人類共通の文化の形成

 ネアンデルタール人や化石ホモ・サピエンス・サピエンスが高度な文化をもっていたことはよく知られています。彼らが現代人と、程度の差はあっても本質的に共通な精神活動を行っていたことには、疑う余地はほとんどありません。言語中枢においても、その他の連合中枢においても、彼らと我々のニューロン網の差は、おそらくわずかのニューロンの数の違いだけの問題に帰しうるところが大部分だと思われます。しかも、それぞれの皮質領域で、その場所の特異性をもつように分化してきていたマトリックス細胞のごく一部のクローンが、その場所でたかだかもう一回くらい第II期の細胞分裂を追加すれば、充分に追いつけるレベルに達していたと考えられるのです。もしそうであるならば、この後の数10万年の間に彼らの脳が進化すべき道のりは、極めてわずかだったことになるでしょう。

 相互に、地理的に隔絶された形で、その後進化してきたアフリカ人やヨーロッパ人やアジア人や南海の島に散らばったさまざまなヒトが、その間に、基本的には共通した言語活動を行う能力をもつにいたったのです。この事実は上記の仮説を支持する一つの証拠とみることができるでしょう。したがって、人類の文化は、見かけ上の人種の区別を越えて、ハードウェアである脳のこのような構造上の共通性からみても、本質的に共通の性格を強くもっているのです。



  2. 「文化」が可能とした「獲得形質の遺伝」

 大脳の新皮質の発達によって、言語を使うことが可能になった意味は、非常に大きいものがありました。これは単に個体間のコミュニケーションが容易になったに留まりません。それまでは体で示されていた事柄だけの、見よう見真似で個体から個体へ伝わっていた知識が、抽象的なこと、概念的なこと、概念を操作して初めて獲得できる体系化された知識を含め、伝達することができるようになったのです。

 
このような知識の総体は「文化」というものをつくりだしました。「文化」は、集団をつくるヒトたちによって保持され、集団のメンバーの一個体が死んでも失われるものではありません。永続性をもっているわけです。集団の新しいメンバーは、多くは若いうちに、この文化を学習します。文化というものの自己複製が行われ、次の世代へ受け継がれていくわけです。文化の内容をつくる知識の集合は、学習と現実の世界での応用を通じてさまざまのバリエーションを生んでいきました。この中で、集団をつくるメンバーに有益なもの、彼らの欲望にマッチしたものが選ばれ、発展していったはずです。この選択はカントによって「趣味」(英語で言えばテイスト)とよばれた先験的な判断基準に基づいて行われてきました。

その結果、その文化が、ヒトの集団の生存と繁栄に寄与した場合、その集団が現実世界でポジティブに選択・淘汰され進化し、一方、ネガティブな文化は集団もろとも衰退したり失われたりしたと考えられます。

これは「文化」というものが、ヒトの集団によってつくりだされ、かつ担われているわけですが、あたかも一種の生きものであるかのように、①自律性・自発性をもち、②自分自身の存在を継続し、③自己再生産を続け選択・淘汰をうけて進化する、という性質を獲得するようになったことを意味します。
この性質の獲得は、ちょうど30数億年前に、自己複製性分子集団が生きものの原理としての「遺伝」を獲得したのと非常に似ています。ただし、彼らにおいては、生きものの原理を担う主体は、自己複製を行う分子、つまり遺伝子にありました。

この点で「文化という二次的な生きもの」の主体は市場に違っています。ここでは、主体はヒトの集団がつくりだした、現実にはたらいている形質にあります。つまり、「文化という二次的な生きもの」の原理においては、獲得形質が個人の世代を越えて遺伝するのです。

「獲得形質の遺伝」が、遺伝子に任された遺伝と大きく違うところは、その進化の速さにあります。この速さは、獲得形質が、集団のテイストに導かれ、かなりの程度意識的な合目的手段でつくりだされていくものである、という性質に依存しています。遺伝子がランダムに変異して、たまたま役に立つ形質を偶然につくりだすのを待っている必要はないのです。たとえば、コンピュータのソフトウェアとハードウェアの進化を考えてみてください。

これも、獲得形質が遺伝する「文化」であるがゆえに現在のような驚異的なスピードでのコンピュータ文化の発展が可能になったのです。もしこれが、ハードウェアの製造過程でたまたま起る製作機械のエラーによって変わった素子ができて、その機能に何か有益な変化が生じるのを待つとか、キー入力のエラーでソフトウェアに思わぬ変化が起るというような、偶発的な要因による進化を待っているだけでは、どの程度の変化の速度が期待できるのか、比較して考えてみるとよくわかります。

この文化という「獲得形質の遺伝」を可能にしたことによって、人間は環境に対して、それまでになかった強大な影響を与えることが可能になりました。その進化が爆発的であるだけ、それだけ危険性も大きいわけです。今やこの進化を支配するテイストの内容が何にも増して問われているといってよいでしょう。

  3. 自発的合目的行動と、感覚入力の総合によるその制御

 さて、人間がホモ・サピエンス・サピエンスの状態に達しても、生命を維持し自己と子孫の永続性を目的とする行動を常に賦活する自発的・自律的な衝動は、ホヤ幼生以来5億年以上も、脳幹網様体のニューロン集団〔神経細胞〕によって担われてきました。この自発性は、外から何らの刺激がなくとも、呼吸を続けさせ、心臓の拍動を調節し、感覚系のニューロンを賦活して環境世界の情報を集め続け、常に、何らか適切な行動を起すことを欲し続けているのです。

生きものの系譜を引く脊椎動物の神経系は、行動を起すために創造され、その行動が環境世界の中で適切に、
つまり合目的性をもって行われるように、感覚系の情報で制御されつづけてきました。感覚系からの情報はいったん脳に入り、フィルター機能をもつ神経回路網を通ることで、その動物の目的に適合したパターンをもつ情報だけが抽象されます。
脳の中に外界がそのまま写しだされるわけではないのです。動物は自然界の中にいます。外界から入ってくる入力は、多種の感覚器から別々に脳に到着します。しかし、それらは動物にとって関心のある一つの現象、あるいは一つの事物を表現していることが多いわけです。風に乗って到着する臭い、周りのざわめき、潅木の枝葉の動き、他の恐ろしい動物が近づいてくる姿、これらは皆、別のものではなく、いま枝からもぎとって食べ続けている食物をも捨てて逃げなければならない意味をもった一つの状況を表しているわけです。

これらの多種入力はフィルターで抽出されたのち、一つの
ニューロン回路に結集します。この回路は驚愕と逃避という行動を触発する出力系につながっているのです。このような多種知覚が結集し一つのニューロン群に集まり、その回路を興奮させることは、その動物にとって、対応する外界の事物や現象と等価な、しかしその動物にとっては価値関数で意味づけされた、内的イメージとなります。合目的性をもった行動制御のためには、このような意味のあるイメージが重要なのです。


4. 生得的神経回路の充実と記憶の発達

 このような神経フィルターによって、生存に有効なこれらのイメージを選り分け、こしとる神経回路は、ちょうどマウトナーニューロンの周りにできた回路のように、進化によって選択・淘汰され保存されました。さまざまの多種入力の各回路がそれぞれ選択・淘汰され、有用なものが増設され拡充されて脳が進化してきたと考えられます。魚類や両生類や爬虫類では、融通性のある大脳の新皮質はまだつくりだされていなかったので、マウトナーニューロンの例で考えたのとあまり違わないレベルの外界のイメージが、即自的な驚愕や逃避や攻撃や摂食や求愛などの回路と結合して運動系を制御する、そのような神経系の処理システムが長期にわたって存在したに過ぎなかったでしょう。ただ、哺乳類になると、大脳の新品質が大幅に増設され、外界のイメージの記憶が可能になってきました。

ハリネズミなどでは、長期の豊富な記憶などまったく論外であったでしょうが、始新世以来長い年月をかけて発達してきた哺乳類の大脳新皮質では、ニューロンの数的質的改善が進みました。外界の多種情報が一体となったイメージを受け取るフィルター回路や、それら情報が終結する場から適切な行動を出力できる回路を生得的に受け継いだ動物が進化してきたと考えられます。しかも、これらの動物では、生命に重要な外界のイメージ(これには多種感覚入力から行動出力までの一貫したパターンが含まれます)がこの生得的回路に到着処理され、有効に記憶されるようになったことは疑いありません。この全体が、その動物のもつ世界のイメージとなっているのです。
カモシカが岩場を飛ぶように走ることができるのは、彼らの脳の中にあらかじめ彼らのテリトリーのイメージが、運動出力のパターンやそれに伴う運動感覚のフィードバックまで含めて、重要な枠組みをおさえる形で完璧に入っているからです。彼らを追う肉食獣もまた狩場とその中での獲物の動きのイメージをもっていて、それを視覚や嗅覚や高速走行の運動感覚で制御しながら獲物を捕らえることができるわけです。

この、記憶による脳の中の「外部世界のイメージ」がある程度の永続性と独立性をもってくると、これはバーチャルなワールド・イメージとしての意味をもってきます。眼を閉じて静かに想起すると、直接の入力なしで、その世界が実感できるわけです。夢の中で見る世界もまたまさにこのようなものでありましょう。これは人間だけではない、と思われます。イヌも寝ている間に突然走るように四肢を動かしたり吠えたりします。直接確証をうることはできませんが愛犬家は皆、これをイヌが獲物を追い掛けている夢をみているのだ、と信じています。



  5. 霊長類の脳の機能的特徴

 霊長類は、樹上の生活から高度の視覚情報の処理能力と、目的の場所へ飛び移って手で枝を捕まえる運動能力を発達させました。当然、彼らの世界のイメージは眼で見た三次元空間が、手を伸ばすあるいは飛び移って摑む距離感覚で裏打ちされたものになりました。視覚の一次中枢は17野ですから、樹上生活の長かったサルでは、まずこの脳野が充実しました。
次に、
原始的霊長類から真猿類を経てヒトへ向かう進化が進行していく間に、視覚野のサブクローンの増設によって18野、19野さらには39野などの連合野が新設され、発展してきました。連合野とは多種入力が終結するところです
別々の仕方でさまざまにフィルターされ抽出された視覚情報も、複数個集まると多種入力の意味をもちます。たとえば、立体視や色をもった物体の形状や特性の分析、空間におけるそれらの動きや回転の認識、および、それらが何であってどういう意味をもつかの認識などです。

これらの多種入力を結集する回路は、外界に見えるものの内で特別の意味をもつ対象を抽出するニューロン網というのと同じです。そして、それらの入力パターンは処理され、記憶されます。ここで「経験」がつくられるわけです。視覚入力が連合野18野、19野、39野と階層を重ねていくごとに、より多くの(フィルターがかけられ意味づけされた)入力が総合され、より複雑な、あるいは、より詳細な条件で区別された特定の外界イメージの結集する場がつくりあげられていきます。それらの入力パターンも、記憶を残します。


  6. 概念の形成と概念間の操作

 そもそも、フィルターで抽出された後の入力情報というものは、外界の現象や事物と同じではありません。抽象化され意味づけされた外界の事物や現象の象徴にほかならないのです。連合野の発達したホモ・サピエンスの大脳では、抽象化されたシグナルの結集する連合野から、さらに高次の階層の連合野へ抽象化され、その場で結集される結果、事物から抽象化された概念が、別の概念と総合されたり、比較されたり、選別されたりします。つまり、脳の中で、概念の操作が可能になるわけです。これが思考です。脳のこの機能は、連合野が発達したホモ・サピエンスの特異な機能として出現しました。整合性を検定したり、等価性を考えたり、論理を分析したりすることが可能になりました。しかし、そのいずれの機能も、霊長類以来の樹上の空間における生活によって大きく影響されながら進化してきた脳の構造に由来したものと考えられます。たとえば、整合性というのは、視覚でとらえた空間内の事物の存在(とくに樹の枝)の位置や形、およびそれらの視覚判断から得られる摑まる対象としての強さ、しなり具合や滑らかさなどの性状と、摑まるという運動および運動覚のすべてに矛盾がないかの判断として、樹上生活をする私たちの祖先には、当初から、非常に重要なことであったと思われます。

この整合性がなければ、サルは常に木から落ち、淘汰される運命にさらされたはずです。整合性の完璧な多種入力を与える対象は「真」である、と判断してよいわけです。その判断のもとに行動を起しても裏切られることはないという(生存)価値を、その判断はもっていたのです。このような判断を一般化することは、ヒトの脳の構造の得意とするところです。

現在でも、学問的事実として記述される事象についてはそれが「真」であるかどうかは、その記述の整合性によって判断されています。なにか別の記述によって論駁可能なもの、あるいは別の入力ないし知識と矛盾するもの(つまり、裏切られる可能性のあるもの)は「真」ではないとされるのです。また、
等価性の判断なども、樹上生活者にとって、初めは具体的に枝までの距離や枝の長さや太さの等価性などの判断が主だったでしょうが、やがてもう一段階層の高いレベルの連合野の発達とともに、これから行おうとする行動を選択するにあたって、内容のまったく違う二つの行動のどちらを選ぶべきかの価値判断の等価性など、より概念的な操作に応用されたでしょう。
ここで、「
等価なものから、どちらを選ぶか」はまったく自由な選択です。このような状況の一般化における自由な選択が「自由意志」を形成してきました。
また、これらの一時概念が、もう一段高位のニューロン連合によって抽象をうけ、等価性そのもの、いっそう小さいという概念、いっそう大きいという概念、あるいは、もう一段抽象された「サイズそのもの」の概念などというような一般的な高次概念に到達することができるようになったと考えられます。

  7. 言語の獲得と主観の客観化

 ヒトの脳の特異な機能として、言語によるコミュニケーションが可能になった、ということを、先に述べました。言語は、状況を記述することができます。ある状況を他者に、客観的に伝えることができるわけです。この記述によって、自分自身の中だけに存在していた自己意識ないしは主観的な世界を、他者にわからせることができます。つまり、主観的世界を、完全ではないとしても、かなりの具体性をもって客観化できるわけです。
この重要性は、ジェスチャー遊びのように、身振り手振りで一まとまりの事実あるいは現象を、他者に伝えようとすると、どのくらい難しくかつ不正確になるか考えてみるとよくわかります。言語があれば、非常に繊細で正確な描写が可能になります。話す内容をまとめているあいだに、物事の客観的な理解がさらに進みます。

チンパンジーにもアメスランなどの身振り言語やシンボルを描いたカードなどを使って、主観的な事象、たとえば「私はバナナを食べたい」などの欲求や「飼育係が隣の部屋にいる」などの記述的表現ができる実例が報告されています。しかし、彼らがもしインタビューを受けたとしても「日常、どんな待遇を受けていますか」とか「それに対して、どのようなご意見をお持ちですか」というような質問に対して、何らか意味のあるような記述的陳述を期待することはできません。

このような客観化行動において重要な、真の言語や外の世界のイメージの豊富さとその保持の永続性には、ホモ・サピエンスの大脳連合野の発達が必須のものであることがわかります。ホモ・サピエンスの脳で、それらは世界のバーチャル・イメージの段階まで高まってきました。また、このような内容をもった内的世界を言語的に陳述するためには言語中枢、とくに双方向性の
言語インタープリターであるヴェルニッケの中枢と、言語の運動性中枢であるブローカ中枢の発達が、決定的な重要性をもっています。チンパンジーが、人間の子どもとまったく同じように育てられても、一言の言葉も発することができないのは、口腔や声帯の構造が不完全なためではありません。ヒトであれば、声帯を失っても食道を振動させて見事に話をすることが可能ですし、九官鳥やオウムでは気管を使って人間の言葉を喋ります。彼らにおいては、終脳底部に、真似をして鳴声をつくりだすためのよく発達した中枢があることが知られています。しかしヴェルニッケ中枢のない彼らには、言語の意味はわかりません。また、自らの行動について新皮質に依存するところの大きい哺乳類では、エンコーダーであるブローカ中枢のない動物は話すことができないのです。


  8. 自己の認識

 言語機能は、必ずしも他人にコミュニケーションするだけに使用されるわけではありません。自分自身との対話という機能が、実は、非常に重要なのです。それによって、主体が客体になりえます。連合野の発達した一人のヒトの脳の中に外界のイメージがバーチャルにつくりだされ、その中に客体としての自分(もう一人の自分、アルテル・エゴ)が定位され、動き、主体としての自分(エゴ・プロプリウス)に向かって対話し、彼から見た自分自身(エゴ・プロプリウス)のことや「もう一人の自分」の意見を記述的に陳述することが可能になるわけです。「良心」があなたをみているのは、この状態です。

客体の自分(アルテル・エゴ)が、ある程度の独立性をもって、本来の自分(エゴ・プロプリウス)の存在を認識し、その状況を客観的に陳述するとき、主体である側の自己の存在の明確な認識が成立します。同時に、自己と他者の区別も明確に認識されます。自己の運動を支配している自分と、他動的にしか動けない他者との区別も明確になります。外部からの感覚は、他者へではなく、この自分に直結していることも明確に認識できます。そして、この自己認識には、これまでの経験によって記憶されてきた永続性のある(歴史のある)世界のイメージが分かち難く結びついています。これが、高度の明晰性を伴った「自己」であり、「私の心」という表現で私が指し示す明確な自己の認識の成立である、と考えられます。



 エピローグ ―― 脳と心の哲学

  この本のプロローグでは、まず、心とはなにかという問題をとりあげました。心の問題は霊魂や生命の本質に関する議論と不可分の難問で、古代から現在にいたるまで哲学の最大の関心事の一つでした。ですから、ここでは、科学的立場から の議論だけではなくて、哲学的生命観や霊魂観を再吟味してみる必要があるでしょう。それによって本書のような「ゲノムと 脳の進化」から心をみる立場と哲学的な議論との間で、この問題にどのように折り合いがつくのか、明らかになるはずです。

1. 霊魂の不滅性


 たぶん、人類が知性を獲得した太古の昔から、「死後の魂はどうなっているのか」とか、「もし魂が人の死とともに死滅するものであるなら、それはどのようにして生まれてくる人の中に新たに生じるのだろうか」というような漠然とした問は、繰り返し問題にされてきたに違いありません。ここから、「心とはなにか」とか「霊魂とはなにか」という哲学の最大のテーマが生じてきました。心に関する哲学についての、ヨーロッパにおける知的活動の始まりはクロトンの人ピタゴラス(紀元前530年ごろ)とされています。紀元三世紀の伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスの伝えるところによると、ピタゴラスは「霊魂は、あるときには、この生きものの中に、またあるときは、かの生きものの中につながれて輪廻の輪を巡るのだ」とはっきり言った最初の人だといわれています。霊魂不滅、輪廻転生というわけです。

この「霊魂不滅」の考えは、その後も、哲学や神学の中で連綿とした一つの大きな流れを形成し、それが今日でも多くの人びとによって信じられています。とくにキリスト教やイスラム教では、霊魂が天に昇り神の加護を受けていて、ある時になると死者の霊魂が一斉に肉体を取り戻して復活し神の審判をうけることが中心教義の一つとなっているのです。
この霊魂不滅の問題をピタゴラスはむしろ宗教的な意味で取り上げました。これに対して、哲学という合理的な理論によって分析しようとしたのはプラトンでした。彼はピタゴラスより100年ほど後の哲学者ですが、霊魂は肉体とはまったく別の神的なもので、人間が真・善・美を理解できるのは霊魂のこの神的な性質によるものだと考えました。彼は対話編「パイドン」の中で、ソクラテスが獄中で毒杯を仰いで死ぬ(紀元前339年)直前の何時間かの間、弟子ケベスやパイドンたちとソクラテスの間で交わされた対話という形で、この哲学的議論を取りあげています。主題は、人間の心というものと生命と死と死後の霊魂についてでした。

すでに、このころからギリシアの人々の一般的な思想は、ソクラテスに向かってケベスが言うように 「霊魂についてのことは、皆ずいぶん疑問に思っています。それは肉体から分離するやいなや、もはやどこにも存在しないようになり、人が死んだその日に破壊消滅するに違いないとか、息や霧のように散らばって虚無の中に飛び散るんじゃないか、と思っているんです。」 という状態にありました。だから、「もしも、あなた〔ソクラテス〕がおっしゃるように、霊魂がまとまったままで、現世の穢れから分離して存在し続けるのだったら、大きな希望がありえますね。しかし、人間が死んでも霊魂は死なないとか、その上、力や知能も持ち続けると結論するのには充分な議論とたくさんの証明がいりますよ(パイドン70)とケベスは反問します。

これに対して、ソクラテスはいくつかの論拠をあげて答えますが、その中でも説得力のある根拠は次のような主張です。つまり、人のもつ諸概念には生まれつき備わっている知識(生得的なエピステーメー)がその根底にあり、それがなければ重要なことは何も認識判断できないはず、という認識論的分析が成立するということです。これは、後にカントが彼の『純粋理性批判』の中心的課題としてとりあげた先験的な判断規範という考えと本質的には同じものです。対話編「パイドン」で、例として示されるのは「等しい」という判断力ですが「このような判断は生得的である、そうでないとすると、等しいものを見ても等しいという判断は下せないじゃないか」というわけです。同じようなテーマが、対話編「メノン」では、なにも知らない子供に幾何学的図形の等価性の共通認識から出発して、難しい幾何学的問題をなんなく理解させるという例で、数頁を割いて、もっと詳細に説明されていますから、これはソクラテスのお好みの話題といえるでしょう。

「その他のさまざまの認識、例えば、一層大とか一層小とか、美とか、善とか、正しいこと、などの認識においても、生得的判断力あるいは生得的知識が前提になっている。だから人間の心は前世において、これらを学習する機会があったに違いない」というのが、ここでのソクラテスの霊魂不滅論の根拠になっているのです。霊魂が永続し輪廻しなければ、このような生前の学習は不可能だとソクラテスは考えます。そして、その総括としてプラトンはソクラテスの口から「霊魂はすべて不死である」と結論させています。古代の知識人たちの多くは、
霊魂が生命の原理であると考え、霊魂の本質は永続性をもつある種の実体であると考えました。

この考えは現在でも決して死に絶えたとはいえません。現代でも、少なからざる人たちは、霊魂が肉体を離れても、ある程度の独立性を保ち続けることができると信じています。


2. 生きものの存在についての哲学者の見解

 哲学者は、生命の存在の起源を、実証的に追及する代わりに、手元にある思弁的手段に訴え「かくも見事に合目的性をもって生きている組織体」をつくりあげるためには、きわめて強力な知性がはたらいている必要があると考えてきました。まさに、ここに、古代(プラトン哲学)から現在にいたる哲学的思考の内で最も広くかつ深く信じられてきた一つのドグマが成立する根拠があります。それは、「生きものがもっているような、かくも精緻な合目的構造をつくりあげるためには、まず、①目的を理解した上で、②それを実現しようとする意図をもち、③目的達成のための手順を理解し、④それを踏まえて、目的達成の機構を、物質を加工しながら手順よく組み立てていく、という驚異的な能力の存在(主体)がなければならない」という推論です。これは擬人的な仮定を当然のものとして含んでいます。山田実は、『生命のメタフィジックス』という最近の著書の中で、このような生命哲学の体系を正統派哲学の伝統の上に論じています。このドグマの行き着くところは、全知全能の一者つまり神です。


「知能」とは「既知の経験と事実を出発点として、これまで存在していなかった新しい環境条件への適応を合理的につくりだす能力のことである」という、哲学辞典による定義に従うと、この驚異的な能力とは自然界に存在する高度の「知能(インテリジェンス)」を意味していると考えなければならないことになります。生物と無生物の区別が、今日ほど意識されていなかった古代においては、高度な知能をもつものは当然、霊魂をもつ生きものであると考えるのが自然でしたから、この自然界の知能は宇宙(マクロコスモス)の英知のもつ機能であるという直感が成立したのです。この主体となるものこそ、
世界霊というわけです。

そして、この世界霊の一部分が生きものに共有(哲学では分有とよばれる)されることによって霊魂が与えられ、生きているという状態が実現するという生命の生気論(アニミズム)が成立しました。プラトンは、そのような英知を備えた神をデミウルゴス(製作者)と、擬人的に名づけました。ただ、アリストテレスはプラトンの最高の弟子でしたが世界を擬人化するのを避け、抽象的に捉えてヌース(英知)とよぶにとどめました。

紀元前四世紀のこの二人の哲学者の思想を基にして、約600年後、プロティノスは(紀元三世紀)「宇宙のすべてを理解している最高至善の英知」の存在を考え、それを「ト・ヘン(一者)」とし、そこから物質の世界へ英知の光がさすことによって、ちょうど暗黒の中に太陽の光がさすことによって物の形が見えるように、無生物にも霊魂が与えられ、世界を理解することができるようになる、という神学的哲学の体系をつくりだしたのです。これが新プラトン主義の思想です。最高至善の英知はこの「分有」のプロセスによって、生きているものの特性である合目的性を生きものに与えるというドグマです。

この「一者」は真・善・美を内在しており、かつ、人間の心も、その「一者」に由来するという起源からして、本質的に真・善・美をめざすようになっている、と彼は考えます。その合目的性が、真・善・美を目指すのは自然であり、そこから外れているものを目指しているなら、それは生きものに与えられた霊魂が充分に宇宙的英知の一部を共有できないという過ちを冒しているからである、というわけです。それは人間にとって罪であるということになります。この思想はとくに人間の霊魂(心)の本質を理解するのに、ヨーロッパ文化の中で、古代・中世・現代を通じて大きな力を発揮してきました。ここから中世以来のヨーロッパの科学や道徳学や美学が出発しているのです。したがって、生きものが生存する限り、とくに英知を授けられた人間というものが存在する限り、真・善・美を目的とし、それらを実現するための合目的性をもっているのは当然だ、と考えられました。これが、神学的目的論の思想です。



   3. 世界霊と宇宙創造の目的論への批判

 宇宙の知性が、キリスト教の神に替わるときの暗黙の大前提は、宇宙の擬人化でした。世界が一つの生きものであり、最高最善の知性をもっているというこの思想は、ヘレニズムの波にのってプロティノスやプロクロスの新プラトン主義に体系化され、アラビアの哲学者たちの手を経てトマス・アキナスなどのヨーロッパ神学者に伝わり、後世に大きな影響を与えました。この人たちの手で、この思想がほとんどそっくり中世キリスト教神学に取り入れられたからです。そこでは「ト・ヘン」が「デウス(神)」に替わるだけでよかったのです。
 ヨーロッパの思想体系の中で、この宇宙の英知(神)と、それに基づく目的論的世界観は、絶対原理といえるほどの中心的役割を果たしてきました。啓蒙思想に導かれて近代科学が勃興し、最も激しく衝突したのも、中世以来のこの世界観でした。多くの優れた科学者が、このために火あぶりにさえされたのです。宇宙の霊魂と人の心を神学的に体系化する「目的論」に対し、欧米の科学者が過敏症ともみえる拒否反応を示すのは、この背景に基づく歴史的必然であると考えられます。
ただ、古典的キリスト教的世界観の洗礼を受けていない私たちにとって、この反応はいささか過剰であるように思えます。しかし、欧米の学者にとってこの伝統的世界観の克服がそれほど容易なものでないという事実は私たちもよく理解しておく必要があります。


  4. 霊魂不滅論と生得的知識の起源

 本章のはじめに述べたように、ソクラテスは、さまざまの重要な判断の根拠が、生まれながら人間に備わっているもの(生得的)であり、前世での学習なしには、こんなことは不可能だから霊魂は永続し輪廻するものである、という霊魂不滅説を唱えました。これはプラトンの説そのものでもあったわけです。
アリストテレスは、もうすこし実証主義的な精神の持ち主でしたから、この点で彼の態度を明確にしませんでした。
しかし、彼も『分析論後書』の冒頭に、生得説に基づくような、基本的見解を次のように述べているのをみると、この「判断基準の生得説」を支持しているのは明らかですし、霊魂不滅説をも信じていたのは確かであったように思われます。
 「およそ、思考のはたらきによって、何事につけ教えたり学んだりすることはすべてあらかじめ〔各人のうちに〕存在する直感的認識(グノーシス)から生じるのである。このことは、そのすべての例を通覧してみれば明瞭である。

〔例えば数学や幾何学や天文学などの〕数学的諸科学はこの仕方で達成されるのであり、その他の学問技術もまた同じである。また〔弁証家たちの〕論法(ロゴイ)も演繹によるにせよ帰納によるにせよ同様である。というのは、いずれの論法もあらかじめ知られているものを用いて教示するのであって、一方のもの〔演繹〕はあらかじめ相手がその前提を承知しているものとしており、他方〔帰納〕は個々の物事がすでに前もって明らかであるという理由でもって全体的なものを証示するからである」。無垢の白板(タブラ・ラサ)にゼロから知識が書き込まれるのではないという主張です。

 分子生物学者のジャック・モノーは、その遺著『偶然と必然』の中で、脳の学習機能について、それが先天的に定められた脳の構造に依存することを、行動学者ローレンツの文章を引用しながら、次のように述べています。この意見も、あらかじめ存在する脳の形式(フォルムないしプログラム)が、認識には必須であるというものでした。
「経験によって習得された要素が行動の中にみられる場合にも、それはあるプログラムに即して学習されたのであり、このプログラムは先天的すなわち遺伝的に決定されたものである。プログラムの構造が学習ということを呼び起しそれを導くのである。そこで、この学習ということも、
種の遺伝的遺産として前もってつくられた「形(フォルム)」の中に書き込まれているのである」と。ここでモノーは、分子生物学者としての立場からも、ローレンツの考えを全面的に支持しているのです。
両者の意見は、あらかじめ存在する脳の形式(フォルム)が必須であるという点では完全に一致しています

  5. 脳がつくりだす認識と自己意識

 認識というものは、感覚だけで生じるものではありません。カントは「認識や経験というものは、あらかじめ(先天的に)ヒトの中に存在する形式(フォルム)によって可能となるもので、経験はそれに材料を提供するものだ」という意味のことを強調しました。つまり、ただ外界からの情報が特定のニューロン機能のパターンとして脳の中に浮かび上がるだけでは、単にある形が見えたり、音が聞こえたり、皮膚にある種の感覚が生じたという即物的な情報が脳の中へ伝えられただけです。
もちろん、このような外界の情報が間違いなく脳の内部へ伝えられるためには、その個体(動物でもヒトでも)が生まれるときにすでにつくりつけられた脳と抹消神経の特定の構造と機能が必要なことは間違いありません。これは進化の過程で、その個体の祖先が獲得した遺伝子情報に書き込まれているという点で生得的なものですが、生きものが合目的に行動することを説明するためには、これだけでは充分とはいえません。

このような単純な情報が、特定のフィルター回路を通って、生存価値という見地から希求・嫌悪の重みづけをされ、ヒトのあらかじめもっているいくつかの脳内のイメージと(これは外的世界とその中の自分というイメージや知識という悟性的なものである場合や、また複雑な感情である可能性もありますし、また探知の原因となった意図とそれに基づいて行動を起すための衝動という実践的なものも含まれます)瞬間的に結びついて初めて、認識という明瞭な体験を形成すると考えられます。これらに必要な構造(フォルム)も、進化の結果、生得的に脳につくりつけられているのです。
個体が、これらの情報によって制御される行動衝動に基づいて、主体的に動こうとする内部感覚が、じつは自己意識(つまり自分の心)の本体であると考えられます。この内部感覚の主体は、内在するこの衝動によって、自分が他者の存在とはまったく別のものであることを明らかに感じるのです。この、主体が自発的に行動を起そうと常に身構えている、というのが自己意識の本体を読み解くのに、欠かすことのできない最も重要なキーワードであることを強調しておきたいと思います。
認識が明瞭に自己意識に昇るのはこの段階です。この中心になる自発的な行動衝動は、生命が脳をつくりしてきた最初から、生きものの根本的原理として存在し続けたものなのです。

さらに、感覚や行動にパターンが重要なように、認識における観念の連合も脳の中のニューロンの結合の構造
(回路つまりフォルム)に全面的に依存しているのは明らかです。というのは、それぞれの観念や心像を内蔵しているもろもろのニューロン群がちょうどそのとき外来の感覚情報を集中的にうけて興奮しているニューロンと直接間接的にあらかじめつながっていなければ、その時点で連合して興奮しうるはずがないからです。このような合目的回路が、どのようにして私の中に存在するのか、と訊ねられたら、これまでの各章に述べてきたように、進化による選択と淘汰の結果であると答えることになるでしょう。私にいたる38億年の進化の歴史の間に、このような基本的に重要な合目的回路を獲得しなかった仲間はすべて遺伝子を残すことができずに滅んでしまったに違いないのです。
生得的な脳の機能はその個体が生まれる前の世代までの進化の総決算として、現在、存在しています。それは、遺伝子によって、自発的な自己複製機能を獲得した生きものが、遺伝のゆらぎを武器として選択と淘汰の大海に突入した結果、とくにその生きものの環境に適応した、目的をもった脳としてつくりだしてきたものです。その成果は、脳の能力として、個体発生を通じて個々人の中に、個体発生のたびごとに、繰り返し繰り返し、つくりだされてきます。そして、感覚の与える材料が、このニューロン回路の中に取り込まれたとき、シナプスの伝達特性の、多少とも永続性のある変化として脳に記憶され、経験という心的イメージを豊かにしていくのです。

霊魂の不滅性という名のもとに捉えられてきた各世代の脳の機能の連続性は、ゲノムの連続性によって保証された永続性であり、この複雑な脳の機能は、ヒトを含むそれぞれの脊椎動物が、自らを主体として、自発的に生きようとしている意志に奉仕して、この千変万化の外界の現象を探知し、次の状況を推察し、有効な行動を選択し、実行する、という目的に応えて現在まで途切れることなく生命を支えてきたのです。


  6. 脳は自発的にデータを集め世界を予測するようにできている

 人間や動物の心をつくりだしている生得的な脳の構造と機能が、この現実世界の現在の状況を自発的に探索し、そのデータから次の時点の状況を、大まかにではあれ、かなり高い確率で正しく予測できるようになっているのは、そうでなくては(その予測の的中確率が低ければ)、その生きものが生存してくることができなかったという進化の選択というふるいに由来しています。この「予測」という表現は、絶えず自発的に行動しようとしている知能的な生きものにとっては、「仮説」というほうが正しいかも知れません。この世界の動きに対する予測ないしは仮説なしでは、安心して有効な行動の選択を行うことができないのです。これは、複雑さの程度や自己意識とどの程度結びついているかなどの相違を度外視すれば、魚が音や影から敵の来る方向を察知して敵の攻撃を予測し、反対側に逃げるという行動も、ヒトが科学的仮説をたてて次の実験を行うのも本質的には変わりません。仮説をたてることで、この世界の中での自らの行動を制御する最も有効な選択を、迷わずしかも有効に、行うことが可能になるわけです。

もし、切迫した行動の必要性を前にして、適切な予測や仮説をもつことができないとすれば、行動の選択を行いえず、不安が高まり、フラストレーションが起ります。そして、非合目的ないしは出鱈目な行動を起すようなことになるわけです。その結果は、その個体が死に直面する可能性が高まるでしょう。世界の次の状態に関する予測や世界そのものの有り方に関する仮説は、ポジティブな生存価値をもつのです。

  7. 哲学と宗教を生んだ脳の機能

 
動物でも人間でも、心が常に探索を行って自分を取り巻く世界の状況を探知したいという欲望をもっているのは、このような理由によるのです。アリストテレスが、『形而上学』の冒頭に、「人は生まれながらにして知ることを欲する」といっているのは、人間のこのような探求心のあり方を示しているものですが、これはネコだってイヌだって同じです。新しい状況に対しては探索行動を開始し納得がいくまで落ち着かない様子を示します。なんらかの探索行動はアメーバやゾウリムシのような単細胞動物にも明瞭に見られますから、考え様によっては、進化の初めから獲得された、生きものに最も基本的な行動の一つといってもよいでしょう。
人間の場合、これはもっと徹底したものになりえます。新しいコンピュータやゲーム機をいじくりまわすとか、ガイドブックで旅行先の探索をするとかいう現実的な探知行動だけではなく、アリストテレスのいうような哲学的思索を巡らし、独自の世界観をもつように努力をする、などの高等な行動も含まれます。脳とはなにか、心とはなにか、がわからなければ不安になるわけです。ここから哲学が生まれます。

 このような合理的な探索でも割り切ることのできない、論理を超越した問題、例えば「私はなぜこの私であって
あなたではないのか」とか「自分や肉親の死や死後の世界はどうなるのか」など考えると、自分を納得させてくれる仮説として超越的世界観が必要になります。この点では、科学や哲学は、それが合理主義の枠の中にあるかぎり無力です。このようにして、宗教が一つの世界像のドグマとしてつくりだされ、超越的な世界の仮説を求める私たちを底知れぬ未来の不安とフラストレーションから解放するのに役立つわけです。

・・・以上で、終わり・・・