(資本論入門12月号関連付属資料)
比例論 と 価値方程式への道のり
目 次
第1部 『資本論』に引用されたアリストテレスの比例論
第1章 アリストテレスによる価値関係論
第2章 アリストテレスの交易関係と均等化の概要 ― 『二コマコス倫理学』
第3章 『二コマコス倫理学』抄録 第5巻 5章
第2部 ユークリッド幾何学原論と『資本論』比例論の関連性について
『資本論』 第1章第1節とユークリッド幾何学原論について
第2部 ユークリッド幾何学原論と『資本論』比例論の関連性について
第1章 エウクレイデス 『原論』 解説
第2章 B.アルトマン著 『数学の創造者』-ユークリッド原論の数学-
第3章 エウクレイデス 『原論』 抄 録
第3部 ヘーゲル論理学の比例論について - 『大論理学』抄録-
第1部 『資本論』に引用されたアリストテレスの比例論
第1章 アリストテレスによる価値関係論
マルクスは、『資本論』(第1章第3節3等価形態)の中で、商品の貨幣形態についてアリストテレスの紹介
(『二コマコス倫理学』)を行っています。
「商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらかの任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに
発展した姿にすぎないことを、アリストテレス〔紀元前384年-322年〕は最初に明言している。
というのは彼はこう述べているからである。
「寝台5台=家1軒」ということは「寝台5台=貨幣一定額」ということと“少しも区別はない”と。
彼はさらにこういうことを看取している。この価値表現をひそませている価値関係は、それ自身として、家が寝台に質的に
等しいとおかれるということと、これらの感覚的にちがった物が、このような「本質の等一性」〔Wesensgleichheit〕なくしては、
通約しうる大いさとして相互に関係しえないであろうということを、条件にしているというのである。
彼はこう述べている、
“交換は等一性〔Gleichheit:相等性〕なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない”と。
しかし、彼はここで立ちどまって、価値形態を、それ以上分析することをやめている。
「 しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、
すなわち、質的に同一であるということとは「真実には不可能である」。
この等置は、物の真の性質に無関係なものでしかありえない、
したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。
アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、
すなわち、価値概念の欠如についてすら、述べているわけである。・・・・
アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、
等一関係〔Gleichheitsverhältnis:相当・同一関係〕を発見しているということに輝いている。」
第2章 アリストテレスの交易関係と均等化の概要 ― 『二コマコス倫理学』
1. 交易的な共同関係においては、・・比例に基づく応報的な「正」であって、・・両者の所産の間に比例に即しての均等が
与えられ、その上で取引の応報が行われること。だからして、両者の所産は均等化されることを必要とする。
2. 共同関係の生ずるのは、・・総じて異なったひとびとの間においてであって、均等なひとびとの間においてではない。
かえってこれらのひとびとは均等化されることを要するのである。交易さるべき事物がすべて何らかの仕方で比較可能的たる
ことを要する所以はそこにある。
3. 大工の靴工に対するごとくに、幾足かの靴が一軒の家屋に対していることを要する。でなければ交易も共同関係もありえない
であろう。このことはしかるに物品が何らかの仕方において均等なものでないならば不可能であろう。だからして、さきにいった
ごとく、あらゆるものが或る一つのものによって計量されることを要するのである。この一つのものとは、ほんとうは、
あらゆるものの場合を包むところの需要にほかならない。
4. あらゆるものに価格を付しておくことの必要なのは、すなわち、そうすれば交易は常に可能となるのであり、しかるに
交易あって共同関係はあるのである。かくして貨幣はいわば尺度として、すべてを通約的とすることによって均等化する。
事実、交易なくしては共同関係はないのであるが、交易は均等性なしには成立せず、均等性は通約性なしには存在しない。
このようなアリストテレスの分析方法が、古代ギリシャに伝わる「比例」方式を応用したものです。
アリストテレスの「比例」操作を実際に体験することで、
マルクスの「価値形態論」の発展した「貨幣表現」を実感することができます。
第3章 『二コマコス倫理学』抄録 第5巻 5章
1. 比例に即した均等的なものを配分する一部のひとびとにあっては、「応報をえている」ということが、そのまま、
「正」ということにほかならない、と考えられている。・・・・
交易的な共同関係においては、やはり このような「正」がその楔クサビとなっていることはあらそえない。
もちろんそれは、比例に基づく応報的な「正」であって、単なる均等性に則してのそれではないが― 。
2. 比例的な対応給付が行われるのは対角線的な組み合わせによる。
Aは大工、Bは靴工、Cは家屋、Dは靴。この場合、大工は靴工から靴工の所産を獲得し、
それに対する報償として自分は靴工に自分の所産を給付しなくてはならない。
それゆえ、まず両者の所産の間に比例に即しての均等が与えられ、その上で取引の応報が行われることによって、
いうところの事態は初めて実現されるであろう。もしそうでないならば、取引は均等的でなく、維持されもしない。
事実、一方の所産が相手方の所産以上のものであるような事例は充分ありうるのである。
だからして、両者の所産は均等化されることを必要とする。
(このことは他の諸技術の場合にあたっても同様である。けだし、能動の側が一定の量の一定の性質のことがらを
なせば、受動の側はそういう量のそういう性質のそれを受動する、ということがないならば、
技術は滅びるほかはないだろうからである。)<注43>
<注43>能動者つまり技術者はその対象(受動するもの)に自己のいわば労働時間(=量)と技術(=質)とをつぎ込む。
工作品はこれをそのまま体現して、ここにその価値たとえばC(いわゆる「自然価格」)を持つにいたる。技術が技術たる
意義はここにあり、また、たとえば家と靴の価値(CとD)のあいだに C=xD という等式の成立する所以もここに存する。
3. 詳言すれば、かような共同関係の生ずるのは二人の医師の間においてではなくして、医者と農夫との間においてであり、
総じて異なったひとびとの間においてであって、均等なひとびとの間においてではない。かえってこれらのひとびとは均等化
されることを要するのである。交易さるべき事物がすべて何らかの仕方で比較可能的たることを要する所以はそこにある。
こうした目的のために貨幣は発生したのであって、それは或る意味においての仲介者(メソン=中間者)となる。事実、貨幣は、
あらゆるものを、したがって過超や不足をも計量する。それは、だから、幾足の靴が一軒の家屋に、ないしは一定量の食品に
等しいかということを計量するのである。かくして、大工の靴工に対するごとくに、幾足かの靴が一軒の家屋に対していることを
要する。でなければ交易も共同関係もありえないであろう。このことはしかるに物品が何らかの仕方において均等なもので
ないならば不可能であろう。だからして、さきにいったごとく、あらゆるものが或る一つのものによって計量されることを
要するのである。この一つのものとは、ほんとうは、あらゆるものの場合を包むところの需要にほかならない。
けだし、もし必要がすこしも存在しないか、ないしは双方に同じような仕方においては存在しないならば、
交易は成立せず、ないしは現在のような仕方での交易は成立しえないであろう。
4. しかるに、申しあわせに基づいて、貨幣が需要をいわば代弁する位置に立っている。さればこそまたノミスマ(貨幣)という
呼称を それは有しているのである。それは本性的ではなくして人為的であり、すなわち、これを変更することや、これを役に
立たないものにすることはわれわれの自由なのだからである―。 かくして、農夫の靴工に対するごとくに、靴工の所産が
農夫の所産に対すべく均等化された場合、取引は応報的となるであろう。
もちろん彼らが交易を行ったあげくにこれを比例のかたちに導くのではいけないのであって、かえって、
双方が自己の所産を手放さないあいだにこれを比例のかたちに導くのでなくてはならない。
5. 以上のような仕方においてのみ、彼らは均等的であり共同関係的である。所要の均等性が彼らのあいだにおいて
成立することとなるのであるから―。 Aは農夫、Cは食糧、Bは靴工、Dは彼の均等化された所産。<注45>
もしかかる仕方における応報ということが行われなかったならば、彼らの共同関係はありえないであろう。・・・・
<注45> すなわち、A:B=C:xDの意味
貨幣は、たとえ、われわれがいまのところは何ものをも必要としなくとも、もし何ものかの必要が生じたときには
それが手にはいるという未来の交易のためのいわば保証として役立つ。
貨幣をもってゆけば所要のものを得られるはずだから―。
貨幣といえどももとより他のものと同じ傾向を避けえないものではある。すなわちそれは必ずしも常に等しい値を
有しないのであるが、それでも他のものに比すればより多く持続する傾きを具えている。
6. あらゆるものに価格を付しておくことの必要なのはそのゆえんである。すなわち、
そうすれば交易は常に可能となるのであり、しかるに交易あって共同関係はあるのである。
かくして貨幣はいわば尺度として、すべてを通約的とすることによって均等化する。
事実、交易なくしては共同関係はないのであるが、交易は均等性なしには成立せず、均等性は通約性なしには存在しない。
もとより、かくも著しい差異のあるいろいろのものが通約的となるということは、ほんとうは不可能なのであるが、
需要ということへの関係から充分に可能となる。その際、すなわち、何らか単一なものの存在することを要するのであって、
このものは協定に基づく。ノミスマという名称のある所以である。このものがすなわちすべてを通約的たらしめる。
あらゆるものが貨幣によって計量されるのである。
Aは家屋、Bは10ムチ、Cは寝台。いま家が5ムチに値するならば、つまり5ムチと等しいならば、AはBの2分の1。
また、寝台すなわちCはBの10分の1。この場合、幾台の寝台が一軒の家屋に等しいかは明らかである。すなわち5台。
貨幣の存在以前においては交易はかくのごとく行われたものなることは明らかである。
事実、5台の寝台が一軒の家屋に替えられるということと、5台の寝台が一軒の家に値する
ということの間には全く差異がないのである。
7. 正義といえば、それは、正しいひとが自己の「選択」に即して正しきを行なうたちのひとだといわれる所以のものであり、
自分と他人との間に配分を行なうに際して、好ましきものはこれを自分には多く、隣人には少なく配分し、
有害なものはこれと逆の仕方で配するということがなく、比例に即した均等的なものを配分するし、
他人同士に対しても、これと同様の仕方で配分するたちのひとだといわれる所以のものを意味する。
以下省略・・・
第2部 ユークリッド幾何学原論と『資本論』比例論の関連性について
エウクレイデス 『原論』 (通称:ユークリッド幾何学原論)・・・世界の名著9 ギリシャの科学・・・
はじめに
1. 『資本論』第1章第1節とユークリッド幾何学原論について
これまで、『資本論』比例論とアリストテレスやヘーゲル論理学との関連について探索を行ってきましたが、
第2部では、ユークリッド幾何学との関連について紹介します。
『資本論』では、第3節価値形態(第1形態から第3形態までの価値方程式の発展)の前段階として、
第1節においてユークリッド幾何学の論理を採用して「比例論」の基礎概念を展開しています。
そして、第3節でヘーゲル論理学と価値方程式へと引き継がれてゆきます。
*この展開の叙述方法(弁証法的方法論)は、資本論入門12月号で解説します。
また、次の第3部ヘーゲル論理学の「比例論」で、比例内容について詳しく研究してゆきます。
2. エウクレイデス 『原論』 〔古代ギリシャ語:ストイケイア(複数形)Στοιχεία、英: Elements、独:Elemente〕
『資本論』第1章冒頭 「個々の商品はこの富の“成素形態”として現われる」の“成素形態”は、ドイツ語で、
「Elementarform」となっています。この「Elemente」が、ギリシャ語のストイケイアにあたります (→成素形態) 。
マルクスは、ユークリッド『原論』のストイケイアと同じラテン語名の「Elementa」を使用することで、伝統的な
古代ギリシャ科学言語を受け継いでいることを示しています。
一方で、ユークリッド幾何学の特徴は、図形としては、変化しないことを前提にしています。したがって、一度定義
すれば、動くことのない静的な世界です。これに対し、ヘーゲル論理学は、変化し運動する世界を対象にしています。
「Elementarform 」では、「form」がこの運動する役割りを担うことになります。「Form」の語源である「形づくる」という
動詞的概念(古代ギリシャ語の形相)を活用することにより、変化・運動する構成要素を形成しています。
3. まず、『資本論』の当該箇所(第1節第6、7、8段落)を参照しましょう。
① 「一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々と、簡単にいえば他の商品と、
きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。
しかしながら、x量靴墨、同じくy量絹、同じくz量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい
大いさの交換価値であるに相違ない。」
② 「さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄とをとろう。その交換関係がどうであれ、この関係はつねに一つの
方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。
例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。この方程式は何を物語るか?二つのことなった物に、
すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということなのである。」
③ 「したがって、両つ(二つ)のものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、
前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、こうして、この第三のものに整約しうるものでなければならない。」
④ 「一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、
人はこれらを三角形に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現―その底辺と高さとの積の2分の1 ―
に整約される〔reduzieren:約分する〕。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。
それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。」
以上の①、②、③そして④は、「ユークリッド幾何学原論」の定義、公理、命題に相当し、比例概念を構成しています。
① 「雑多な割合で交換される。」、「相互に置き換えることのできる、あるいは相互に等しい大きさの交換価値」
→ 「ユークリッド原論5巻:定義1~8」参照
② 「例えば小麦と鉄とをとろう。この関係は一つの方程式に表わせる。」
「1クォーター小麦=aツェントネル鉄」「同一大いさのある共通なものがある。」
→ 「ユークリッド原論第5巻 定義1、2、3。命題9」参照
③ 「両つ(二つ)のものは一つの第三のものに等しい。両者のおのおのは、この第三のものに整約される。」
→ 「ユークリッド原論第1巻 公理1」参照
④ 「三角形はその底辺と高さとの積の2分の1に整約される。この共通なあるものの大小が示される。」
→ 「ユークリッド原論第6巻、10巻、11巻」参照
4. なお、イギリス古典経済学の完成者と言われるリカードの「投下労働量による価値規定」は、
ユークリッド幾何学の段階に留まり、ヘーゲルの「比例論と本質論」による価値概念の規定ができていません。
ここにイギリス古典経済学の限界があったものと推測されます。
マルクスは*『資本論』第1章(注32)に中で次のように指摘しています。
「古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが
達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の
代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして
取り扱われている。」
では、ユークリッド幾何学原論へご案内しましょう。
第2部 ユークリッド幾何学原論と『資本論』比例論の関連性について
目 次
1. 第1章「世界の名著9 エウクレイデス(ユークリッド)『原論』解説
2. 第2章 B.アルトマン著 『数学の創造者』-ユークリッド原論の数学- より
3. 第1節 <第14章ユークリッド第Ⅴ巻 比例論>
4. 第2節 <第V巻全般の注釈>
5. 第3節 <第17章 ユークリッド第VII巻 算術>
6. 第3章 世界の名著9 エウクレイデス 『原論』 抄録 (『ユークリッド幾何学原論』)
第1章 エウクレイデス『原論』 解説 ・・・・世界の名著9 ギリシャの科学より・・・
「エウクレイデス(英語名:ユークリッド)の『原論』〔古ギリシャ語:ストイケイア(複数形)Στοιχεία、
英: Elements、独:Elemente〕ほど多くの人びとに読まれた書物もめずらしい。〔西洋では教科書としても使用されていた〕
現代でも、私たちが中学・高校で学ぶ幾何は、彼の『原論』のそれとそうちがってはいない。
しかし、その作品が2300年近くも数学の教科書として親しまれてきながら、著者であるエウクレイデスその人については、
ほとんど何も知られてはいない。わずかに古代人の証言から、彼がプトレマイオス1世の治世に、すなわち前300年ころ、
おそらくアレクサンドリアにおいて活躍し、多くの数学的著作を残したということが推測されるのみである。
エウクレイデスの著作として伝えられるものには、ギリシャ語原典が現存するものとして、主著である『原論』13巻のほかに、
『デドメナ』(雑題集)『光学』『反射光学』『音楽原論』『天文現象論』があり、まったく失われてしまったもの若干がある。
原論(ストイケイア)とは、もともとアルファベットの字母を意味することがである。すべての言葉が字母からなるように、
すべての幾何学の命題は若干の基本的命題をもとにしている。これらの基本的命題を扱ったものが『原論』なのである。
『原論』の内容は平面幾何学、比例論、数論、無理量論、立体幾何学に分かれるが、もちろんそのすべてが
エウクレイデスによってつくられたわけではない。たとえば、比例論おけるエウドクソス、無理量論におけるテアイテトス、
数論におけるピタゴラス派のように、それぞれの分野における多くの先人たちの業績がある。それらの積み重ねの上にたって、
それらを総合し体系化したのがエウクレイデスであった。この意味で、彼は新しい理論の編集者であったともいわれる。
しかし、『原論』の内容をなす理論の多くが先人のつくりだしたものであっても、それらを集大成し、厳密な論証にまで
高めたエウクレイデスの独創性は、それによっていささかも失われはしない。」
第2章 B.アルトマン著 『数学の創造者』-ユークリッド原論の数学- より
第1節<第14章ユークリッド第Ⅴ巻 比例論>
■14.1 数学以外での比例
ピタゴラスの主要な発見の一つに音楽と弦の長さの比との関係がある。
たとえば最も単純な比2:1は1オクターブに対応する。これに関して多くの文献がある。
建築と美術を概観してこれを補充することにする。
幾何学の用語には、正確な設計が必要とされる建築業界からきたと思われるものがある。
紀元前540年頃コリントのアポロ神殿が建造された。それは、縦:横=横:高さの明確な比をもっている寺院で、
知られているうちの最古のものである。紀元前456年に完成したオリンピアのゼウス神殿は、屋根の上にあるタイルの
幅2フィート〔30.48cm〕から始まって柱の間隔16フィート〔487.68cm〕にいたるまで、1:2の比で構成されている。
少したって447年~432年に建築家イクテノスとカリクラテスがアテナイにパルテノン神殿を建てた。すべての建物が
最小の平方数の比9:4で構成されている。ここにも 「縦:横=横:高さ」 「81:36=36:16」の比が見られる。
ほとんど同じ頃、古代アテナイで最も有名な彫刻家ポリクレトスはフィディアスと共に人間の体格についての論文『カノン』を
書いたが、残念ながら残っていない。しかし、ここにも数学以外における比例の重要性が見られる。プラトンが『ソフィスト』の中で
このことに触れている。“これの完璧な例が三方向すべてに原型の比を適用した複製の作成に存在する。・・・”
比例がありふれたものであったことは、哲学者ゼノン(紀元前460年ころ、アキレスと亀で知られている方)の文章から
もうかがえる。これはやや極端な比について語っている部分である。
1ブッシュの粟と一粒の粟との間に比はないのか? 1ブッシェルの粟を落としたときと一粒の粟を
落としたとき、一粒の一万分の一のときさえも、同じ比で音がするだろう。(ゼノン)
アリストテレスは比を重くみている。彼は『ニコマコス論理学』の中で正義を比そのもので定義している。
税金の配分と社会正義に対する彼の意見は現代のものと大いに異なる。正義とは“公共の財産から金銭を配分するのに、
(国家の歳入に)貢献した度合いに比例してそれぞれに渡す”ことである。
(税金を納めない者は国家から金銭を得るべきではない。『二コマコス倫理学』)
同時にアリストテレスはより技巧的な手法である比の交換法則(後述)や合成についても述べている。美術や哲学の
中よりも多くギリシア数学の中に比例が充満している。比例の一般理論を統括する性質がエラトステネス(紀元前250年頃~
200年頃)によって表された。彼の言によると、それは“数理科学を統括する接着剤”である。ガリレオとンニュートンの時代に
いたるまで、比例の巧妙な使用が数学の主要な道具であった。彼らはそれを名人技のように使用した。
第2節 <14.2 第V巻全般の注釈>
第V巻には際立った節はない。全体を通して一つの主題、一般的な量についての比例の理論を扱っている。
ある注釈者が第V巻の定理はエウドクソスに由来していると言っているが、定義もそう考えてよいだろう。
第V巻は、特にベッカー、ベックマン、ミューラーによって、非常に詳しく研究されている。彼らほど器用でないので全体を
概観するにとどめる。最初に三つの点に注目する。
(a) 第V巻はユークリッドの他の巻と比べてずいぶん抽象的である。命題はさまざまな量、線分、面、立体、それに時間や
角までに適用される。プラトンの哲学に関連して、高水準の抽象化によってプラトンのイデア(または形相)に接近すると
言えるだろう。プラトンは次のように言っている。(ファイドロス)
第一は、ばらばらのことがらをひとまとめにして見ることで単一の形(イデア)をもたらすことである。その目的は何々と
定義すること、それによって解説の題目として選ばれるものなら何でも平明にすることである。
第V巻の先頭にある定義はまさにプラトンが要求していることである。それらはばらばらのことがらを一つの概念にまとめる。
(b) 第V巻はそれ以前の巻と独立している。一つの論文かあるいはエウドクソス学派によって書かれた何かの“原論”の
入門編だったのかもしれない。ユークリッドの『原論』に登場すると新しい門、とりわけ第VI巻の相似幾何学に至る門を開いた。
(c) この一般的で抽象的な理論はギリシア数学で最初に比例を扱ったものではありえない。レオンとヒポクラテスが
自分たちの“原論”に比と比例に関する主要定理を載せている。これらのユークリッド以前の理論における
定義と証明について歴史学者によるいろいろな考察がなされているが、確かなことはわかっていない。
第V巻についての議論にはまったく異なる二つの点がある。一つは“同じ比をもつ”ことの定義の抽象性と巧妙さに
ついてである。もう一つは易しい方で、第V巻で抽象的に述べられているいろいろな命題の直感的な意味を現代の読者に
理解しやすくすることである。
第3節 <第17章 ユークリッド第VII巻 算術>
■17.1 歴史的背景
古代の三大作家の筆頭であるアイスキュロスは『縛られたプロメテウス』の中で、プロメテウスが人類に火の使い方
ばかりではなくその他の諸々の価値あることがらを教えたと書いてある。特に、プロメテウスが“そして数もまた、
科学の重要なものであるが、私が創作したのだ。”と言っている。紀元前465年頃に書かれたこの文が、
古代ギリシア人が算術に対して高い敬意をもっていたことの証拠となっている。
しかし、文化的達成の起源について補足する記述がある。アイスキュロスはギリシアの思想の神話的側面を表現しているが、
数年後(紀元前440年頃)に著したヘロドトスは歴史書のもっと実用的な、あるいは啓蒙的と言ってもいい書き方をしている。
エウデモスは、ギリシア人はエジプト人から幾何学を、フェニキア人から交易を通して算術を学んだと書いている。
ヘロドトスはこの幾何についての話をエウデモスより150年ほど前に書いている。ヘロドトスは算術に関してもう少し伝えている。
ギリシア人とエジプト人が計算板、すなわちアバクスの上で小石を使って計算したと述べている。このことは、
算術の研究を行うためにピタゴラス学派が始めた小石を使った習慣と非常によく一致する。別の話題の中で、ヘロドトスは
ひとりの70歳の老人が合計でおよそ25,200日生きてきた(そして1日たりとも他の日々と同じではなかった)ことを計算している。
実用面の問題に戻ると、通貨の交換比率がギリシア経済にとって重要な役割を果たしたに違いない。
貨幣は紀元前600年頃に使われ始めて徐々にギリシアの都市国家の間に広まった。銀貨の重さの基準が都市国家によって
異なったため、異なる通貨の交換のための体制が商人の間に必要になった。
この一種の銀行業務を示唆するくだりが『新約聖書』の『マタイ伝』21:12にある。“そしてイエスは神殿の中に入り、
そこで売買されていたすべてのものを放り投げ、通貨交換用の机と鳩を売っていた人々の椅子をひっくり返した。
”聖日には世界中から人々がエルサレムに集まった。ギリシア大祭の時にデルポイやオリンピアなどで同様の商取引が
行われ両替商が存在していたことは想像に難くない。
交換率(rate)は実は率(ratio)ではなくて比(proportion)である。
このことを現代の通貨のアメリカドル(US$)、スイスフラン(SF)、ドイツマルク(DM)の為替相場で見てみよう。
新聞に次のように出ている。
DM : US$ = 173 :100
US$ : SF = 100 : 145
これからギリシアの比の簡約法則を使って容易に次式を得る。
DM : SF = 173 : 145
紀元前580年~480年にはエギナの貨幣がエーゲ海沿岸での(US$のように)主導通貨であり、上のような換金が容易に
想像される。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の中に似た例があって、そこでは異なる産物の相対的価値を貨幣を
使って測っている。ユークリッドの算術が商業からどの程度の恩恵を得ていたかはわからない。
しかし幾何学と大きな関係をもっていることがいくつもの面から見てとれる。ユークリッドの算術についての記述は、
『原論』の幾何の部分と同じように、それ自身のための数学である。
ユークリッドの本にピタゴラス学派の小石を用いた計算の名残がごくわずか見られる。
この話題についてはイアンブリコスとディオファントスの節で再び論じることにする。第VII、VIII、IX巻は『原論』の中で
自己完結的な部分と見るのが妥当である。この部分で扱っている主題は基礎(比例、最大公約数)、等比数列、
数の幾何(平面数、立体数、平方数、立方数)、そして最後に奇数と偶数の基本理論である。」
第3章 エウクレイデス 『原論』 抄 録 (『ユークリッド幾何学原論』) 世界の名著 9
*なお、本訳(世界の名著9)は、『ユークリッド原論』(共立出版社刊)からの抜粋です。
目 次
第1巻 三角形、平行線、平行四辺形、正方形
第2巻 面積の変形
第3巻 円
第4巻 円の内接、外接
第5巻 比例論
第6巻 比例論の幾何学への応用
第7巻 数論
第8巻 数論
第9巻 数論
第10巻 無理量論
第11巻 線と面、面と面、立体角、平行六面体、立方体、角柱
第12巻 円の面積、角錐、角柱、円錐、円柱、球の体積
第13巻線分の分割、正多角形の辺、5つの正多面体
第1巻
定 義
1 点とは、部分をもたないものである。
2 線とは、幅のない長さである。
3 線の端は点である。
4 直線とは、その上にある点について、一律に横たわる線である。
5 面とは、長さと幅のみをもつものである。
6 面の端は線である。
7 平面とは、その上にある直線について、一様に横たわる面である。
以下、8~23省略
公準(要請) 省略
公理(共通概念)
1 同じものに等しいものはまた互いに等しい。
2 また、等しいものから等しいものが加えられれば全体は等しい。
3 また、等しいものから等しいものが引かれれば残りは等しい。
[4 また、不等なものに等しいものが加えられれば全体は不等である。
5 また、同じものの2倍は互いに等しい。
6 また、同じものの半分は互いに等しい。]
7 また、互いに重なり合うものは互いに等しい。
8 また、全体は部分より大きい。
[9 また、2直線は面積を囲まない。]
命題1~47 省略
第5巻
定 義
1 小さい量は、大きい量を割り切るときに、大きい量の約量である。
2 そして、大きい量は、小さい量によって割り切られるときに、小さい量の倍量である。
3 比とは、同種の二つの量のあいだの大きさに関するある種の関係である。
4 何倍かされて互いに他より大きくなり得る二量は、相互に比をもつといわれる。
5 第一の量と第三の量の同数倍が第二の量と第四の量の同数倍にたいして、何倍されようと、
同じ順序にとられたとき、それぞれともに大きいか、ともに等しいか、またはともに小さいとき、
第一の量は第二の量に対して、第三の量が第四の量に対すると同じ比をもつといわれる。
6 同じ比をもつ二量は比例するといわれるとせよ。
7 同数倍された量のうち、第一の量の倍量が第二の量の倍量とり大きいが、第三の量の倍量が第四の量の倍量より
大きくないとき、第一の量は第二の量に対して、第三の量が第四の量に対するより大きい比をもつといわれる。
8 比例はすくなくとも三つの項をもつ。
以下9~18省略
命題1~6省略
命題 7 二つの等しい量は同一の量に対し、また同一の量は二つの等しい量に対し、同じ比をもつ。
A、Bを等しい二量とし、Cを別の任意の量とせよ。A、Bの双方はCに対し、CはA、Bの双方に対し、同じ比をもつと主張する。
(証明を省略)
命題 9 同一の量に対して同じ比をもつ量は、互いに等しい。
そして、同一の量がそれらに対して同じ比をもつ量は、互いに等しい。
命題10~25省略
第6巻
定 義
1 相似な直線図形とは、角がそれぞれ等しく、かつ等しい角をはさむ辺が比例するものである。
[2 二つの図形の双方に前項と後項の比があるとき、二つの図形は逆比例する。]
3 線分は、不等な部分に分けられ、全体が大きい部分に対するように、
大きい部分が小さい部分に対するとき、外中比にわけられたといわれる。
4 すべての図形において、高さとは、頂点から底辺に引かれた垂線である。
[5 比の大きさが掛け合わされてある比をつくるとき、この比は比から合成されるといわれる。]
以下省略
第7巻
定 義
1 単位とは、存在するもののおのおのがそれによって一と呼ばれるものである。
2 数とは、単位からなる多である。
3 小さい数が大きい数を割り切るとき、小さい数は大きい数の約数である。
以下省略
第8巻
命題 1 もし順次に比例する任意個の数があり、それらの外項が互いに素であるならば、
これらの数はそれらと同じ比をもつ数のうち最小である。
以下省略
第10巻
定義 1 同じ尺度によって割り切られる量は通約できる量といわれ、
いかなる共通な尺度をももち得ない量は通約できない量といわれる。
命題 11 もし四量が比例し、第一が第二と通約できるならば、第三も第四と通約できるであろう。
そして、もし第一が第二と通約できないならば、第三も第四も通約できないであろう。
以下省略
以上