資本論入門11月号 (1) 11.20
第2部 ヘーゲル論理学「比例論」と資本論の価値方程式(1)
- 序論 -
目 次
1. 資本論ワールド編集委員会ご挨拶
2. (イ) A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
3. (ロ) 3 等価形態
4. 「ド・ブロスのフェティシズム」と『資本論』のフェティシズム
5. 『資本論』フェティシズムとキリスト教神学
6. 化身・受肉 Inkarnation
7. A 人々・ペルソナ
8. B 第2章交換過程の「ペルソナ・人格と人格化」
9. 第1部『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein・定有」について
資本論ワールド編集委員会からのご挨拶
冬の訪れが日増しに実感される今日この頃ですが、皆様、お元気でご活躍のことと存じます。
さて、「資本論入門」では、9月10月と2カ月休刊してまいりましたが、11月資本論入門とこの間の特別報告との関連についてご報告いたします。
9月新着情報では、
1. 「ド・ブロスとフェティシズム-『資本論』と宗教学」
2. 「『資本論』フェティシズムとキリスト教神学」
10月新着情報では
3. 比例関係と方程式論の歴史的過程 『資本論』価値方程式論構築の道のり
第1部古代ギリシャ「比例」の伝統 タレスからデカルトまで
4. 第1部 『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein・定有」について
-資本論のヘーゲル論理学入門 3
以上、4つを掲載してきました。
そして今月、3. 比例関係と方程式論の歴史的形成過程 第2部ヘーゲル論理学と『資本論』の価値方程式について、最終段階の編集作業に取りかかっています。今月の「比例論」では、1. と 2. そして 4. が有機的関連をもって、相互に補足しあう関係でもあります。
11月資本論入門の最大の課題は、「価値方程式Wertgleichung: x量商品A=y量商品B」の概念と用語の確定です。
「2月創刊号資本論翻訳問題」と「 資本論のヘーゲル哲学・価値方程式 」で取り上げてきましたが、「価値方程式」と翻訳しているのは、岩波版と河出版の2社のみで、他の5社『資本論』はすべて「価値等式」としています。
この翻訳問題は、単なる翻訳だけに関わる問題ではありません。『資本論』第1章全体、とくに「商品の物神的性格」に至る価値形態論全体の理解に関わっています。
11月号序論で、「論点先取り」して要点をご紹介いたしますと、焦点となる「Wertgleichung」について、「価値方程式か価値等式か」、解釈に関わる大変重要な文脈―『資本論』第1章第3節価値形態―があります。最初にこちらをご覧いただきたいと思います。
(イ) A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実(第2段落)
「亜麻布20エレ=上着1着 または=20着 または=x着 となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合Proportionにあるということは、つねに、亜麻布と上衣とが価値の大いさとしては、同一単位の表現であり、同一性質の物Dingeであるということを含んでいる。亜麻布=上衣ということは、方程式(他の訳書では、等式)の基礎である。」
① 「価値等式」と解釈する場合は、「亜麻布=上衣」は等式(等号=で結ばれている式)だから「等式の基礎」である、 と理解されているものと推察できます。
しかし、この場合、その前提となった最初の「一文」が忘れられています。
② 「亜麻布20エレ=上着1着 または=20着 または=x着 となるかどうか、すなわち、一定量の亜麻布が多くの上衣に値するか、 少ない上衣に値するかどうかということ、いずれにしても、このようないろいろの割合〔Proportion:比率、比〕にあるということ」です。
これは、次のように単純に書き直すと、すっきり誰の目にも明らかとなります。
(1)亜麻布20エレ=上衣1着
(2)亜麻布20エレ=20着
(3)亜麻布20エレ= x着
これらの式は、小中学校で習う「連立方程式」であることを示しています。そして「方程式」とは、「未知数を含む等式」ですから、(1)から(3)までの各式の連立から「未知数」の「解」を求める問題とみなすことです。そして「解」は、「亜麻布と上衣とが価値の大いさ〔(1)、(2)、(3)の価値方程式〕としては、同一単位Einheit」「同一性質の物Ding」である事、を示しているのです。
③ したがって、「亜麻布=上衣」ということは、単なる式・「等式」と理解することではなく 「未知数」問題として「解」を解く「問題」という具合に理解することが求められているのです。
ちなみに、後段において、マルクスは以下の注意書きをしています。
「等価が価値方程式においてつねに一物、すなわち一使用価値の単に一定量の形態をもっているにすぎないというこの事実を、皮相に理解したことは、ベイリーをその先行者や後続者の多くとともに誤り導いて、価値表現においてただ量的な関係だけを見るようにしてしまった。一商品の等価形態は、むしろなんらの量的価値規定をも含んでいないのである。」
次に、「3 等価形態」において価値方程式の「機能」と「謎」と「等一性〔Gleichheit:相等性〕」の役割について解明されてゆきます。
そして肝心な事は、ここから「商品の物神的性格」の導入部分が開始されてゆくことです。
(ロ) 3 等価形態
(第1章第3節 価値形態または交換価値
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 3 等価形態 を全文掲出 しています)
① 「一物の属性は、他物にたいするその関係から発生するのではなくて、むしろこのような関係においてただ実証されるだけのものであるから、上衣もその等価形態を、すなわち、直接的な交換可能性というその属性を、同じように天然からもっているかのように、それはちょうど、重いとか温かいとかいう属性と同じもののように見える。
このことから“等価形態の謎 〔謎=未知数と理解する〕”が生まれるのであって・・・亜麻布20エレ=上衣1着というようなもっとも簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くように与えられていることを、想像してもみないのである。」(第8段落)
② 「アリストテレスは最初に明言している。しとね(寝台)5個=家1軒ということ、しとね5個=貨幣一定額ということと 「少しも区別はない」と。・・・「交換は等一性〔Gleichheit:相等性〕なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」と。
アリストテレスは、・・・価値概念の欠如についてすら、述べているわけである。等一なるものは何か?〔何が未知数か?〕 すなわち、しとねの価値表現において、家がしとねに対していいあらわしている共通の実体は何か? そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。」
③ 「価値表現の秘密〔謎〕、すなわち一切の労働が等しく、また等しいと置かれるということは、一切の労働が人間労働一般であるから、そしてまたそうであるかぎりにおいてのみ、言えることであって、だから、人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。・・アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において 等一関係〔Gleichheitsverhältnis:相等性関係〕を発見しているということに輝いている。
・・・ このように、価値方程式の未知数問題において、「謎解き」が展開されてゆきます。・・・
では次に、 ヘーゲル比例論と「価値方程式論」への道すじとなる「資本論入門9月、10月号」の有機的関連について報告します。
1. 「ド・ブロスのフェティシズム」と『資本論』のフェティシズム
(ド・ブロス著 『フェティッシュ諸神の崇拝』)
ド・ブロスの著作『フェティッシュ諸神の崇拝』に関連して、『資本論』で引用されている「フェティシズム・(商品の物神的性格)」では、従来の「物神性」の解釈とは角度を変えて、さらに発展した内容を報告しています。
これまで、『資本論』と関連した「フェティシズム(物神的性格)」解釈は、非常に狭く限定的でした。しかし、第1章第4節を全体的に探索すれば、商品生産という歴史的概念を人類史に当てはめて探求していることが理解されてゆきます。 まず、ド・ブロスが命名した「フェティシズム」本論に立ち返ってみましょう。
旧約聖書によれば、「神は言われた。“我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地をはうものすべてを支配させよう”
神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」
そして、中世キリスト教神学では、伝統的に「神の似姿である被造物としての人間は、理性的本性と知性を有して神の像として」作られています。
一方、「フェティシズム」についてブロスは、『フェティッシュ諸神の崇拝』の中で次のように述べています。
アフリカや世界各地の「原初の諸民族がもつ教義的信条の特質や彼らの慣習的儀礼の特異性を説明するには、・・・アフリカの黒人のあいだで存続している、「フェティッシュ」と称される物質的な地上の特定の対象へ崇拝を軸に行われているからである。そこで、この崇拝を私は「フェティシズム」と呼ぶことにする。それは本来の意味ではアフリカ黒人の信仰と特に関わりがあるのだが、動物ないしは神格化された無生物を崇拝対象としている、その他のどの民族について語る場合にも、同じようにこの表現を用いることをあらかじめお断わりしておく。
またその種の対象物を、いわゆる神というよりもむしろ神的な力を授けられた事物であり、そして魔除けであるとしている若干の民族にしばしば言及する場合も同様である。
なぜなら、こうした思考様式はどれをとっても実は同じ原因に属しており、またその原因は地上全体にくまなく流布している」 「人間精神は、段階をなして低次から高次へと上昇する。この精神は不完全なものから引き出された抽象観念によって完全なものの観念を形作るのだ。・・・・そうして人間精神は、そこから作り出した観念を更に高めて強化し、その観念を神に転化させるのである」。
こうして、ブロスは(そしてヒュームとともに)、宗教学の立場から中世キリスト教神学の「神の似姿である被造物としての人間は、理性的本性と知性を有した神の像」であるという伝統的人間観・人間性の概念を否定しました。アダムとイヴ以後の原初人類史における「創造神を認識できる知的な人間は当時〔原初、原始時代〕は、まず存在しなかった」との論点を提出し、その論拠に 「フェティシズム」がうち立てられたのです。
この論点に-「フェティッシュ」と称される地上の特定の対象への崇拝も含めて-注目して、マルクスは、「商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これをFetischismusk〔フェティシズム・物神礼拝、物神崇拝〕と名づける。」ことにしました。
このように、商品の物神的性格とその秘密と題された『資本論』第4節は、第1章の最後に置かれ、「商品論」の総括的概念規定の役割も担っていることが理解できます。従って結論的に報告しますと、マルクスが意図している「商品のフェティシズム」とは、ド・ブロス宗教論の「フェティシズム」と同義的に理解すべきものなのです。すなわち、ド・ブロスの中世キリスト教神学批判(原初から理性的本性と知性を有した「人間性論」への反論)に対して、マルクスの「商品フェティシズム」は、商品生産社会の歴史性とその歴史的制限・限界を画定するものと理解する必要があります。
2. 「『資本論』フェティシズムとキリスト教神学」では、
マルクスは、『資本論』のキーワードにキリスト教神学の「受肉」(化身)と「ペルソナ」(人々、人格など)を取り入れています。
一般的には、第4節で商品の物神的性格が議論されているかに思われていますが、この「物神的性格」は、第1節からすでに始まっている、と言えます。 この点に注目していませんと、以下の「受肉」と「ペルソナ(人格化された人物や事柄)」の議論が全く理解されないことになります。
そして、「商品価値」の議論の展開すなわち価値方程式に関する「議論の道すじ」をたどることができません。
(注)冒頭の有名なテーゼ 「資本主義的生産様式である社会の富は、「巨大な商品集積」として現われ、・・・」の、本文中「巨大な」のドイツ語 ungeheure (ungeheuer)は、「巨大な」の意味以外に次のような状況で使われる言葉です。
1. 恐ろしい、不気味な、身の毛のよだつような、ぞっとする、ものすごい
2. 途方もない、巨大な、驚くべき
さらに、名詞形としての「 Ungeheuer 」は、「怪物」となります。
また、形容詞形として、「 ungeheuerlich 」は、「怪物のような、奇怪な、巨大な」を表わしています。 (以上『大独和辞典』博友社より)
これらの用法から、第4節商品の物神的性格へ繋がってゆく、伏線と布石を示す言葉であることが読み取れます。
本日の序論として、「価値方程式」の議論の道すじの導入部分の役割を兼ねまして、補足説明を行っていきます。
最初に、受肉とペルソナの当該箇所(『資本論』)から探ってゆきましょう。
(なお、「受肉」については、稲垣良典著『「存在」と神学的キリスト論』 参照)
① 化身・受肉 Inkarnation:
「商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質をおしつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働(menschlichen
Arbeit)の眼に見える化身・受肉として、 一般的な社会的な蛹化としてのはたらきをなす。」
(第1章第3節C一般的価値形態1価値形態の変化した性格)
(イ) 一般的等価である亜麻布については、すでにA 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態の「3 等価形態」において分析が開始されています。
(ロ) その後に、亜麻布自身が「共通な価値態容」であり、「一切の人間労働」が「受肉」した形態となっています。
(ハ) 「受肉」した亜麻布にひそんでいる労働は、私的労働ではあるが直接に社会的な形態における労働です。
これにより、亜麻布は社会的な蛹化〔昆虫の幼虫が変態して、サナギになること。すなわち新たな成体機能の働きに向けての進展過程〕のはたらきとして -すなわち他の私的労働を媒介する社会性機能として - 他の商品と直接交換可能の生産物となります。
② A: 人々・ペルソナ (人Person : 複数形 Personen、ラテン語:人格、人物 persona): (2016.11.24人格に追加)
「生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働(Privatarbeiten)は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。
すなわち、彼らの労働自身における人々(Personen:ペルソナ:人格=普遍性(社会的総労働)の担い手、役柄)の直接に社会的な関係としてではなく、むしろ人々(Personen:ペルソナ:人格=普遍性(社会的総労働)の担い手、役柄)の 物的な諸関係(sachliche Verhaltnisse)として、 また物(Sashen)の社会的な諸関係(gesellschaftliche Verhaltnisse)として現れる。(第1章第4節6段落)
(イ) 交換のための労働生産物が、交換を通じて社会的総労働の構成分子として-有用性が確保され、実証される。
(ロ) 個々に独立した私的労働は、労働生産物の交換が成立することによって、社会的に有意義であることが実証されることになる。したがって、労働生産物の交換関係を通してはじめて社会的に人間関係-生産関係が成立する。
(ハ) 人間関係がこうした社会的条件のもとに成立する場合、生物種としての自然人と区別して、「社会性の存在」を備えた 「役柄を担う存在」としてペルソナ・人格=ある普遍性(社会的総労働)の担い手、役柄)が成立する。
(ニ) この場合の「人格」とは、日本語として「人間の人としての主体や人柄など」としての解釈されるのではなく、外来語である「Person:ペルソナ」の翻訳語としてである。このペルソナの概念が、次の第2章で明確化されてゆくことになる。
(ホ) 「人格」の説明個所:「人格=ある普遍性(・・・・)の担い手、役柄」のうち、 「普遍性」とは、ヘーゲル『小論理学』第3部概念論163、164節を参照してください。詳細は新着情報12号掲出予定。
なお、「人格」は、163節補遺1 参照のこと
「キリスト教は絶対的自由の宗教であり、キリスト教徒のみが人間そのものの無限性と普遍性とを認めている。 奴隷に欠けているものは、その人格の承認であるが、人格は普遍性である。奴隷の主人は奴隷を人格とはみないで、自己をもたぬ物とみる。そして奴隷は自己を自我とみず、主人がかれの自我である。」
(また、ペルソナの概念の変遷については 『資本論』フェティシズムとキリスト教神学の「ペルソナ概念の歴史的形成」を参照してください)
③ B: 第2章交換過程の「ペルソナ・人格と人格化」
『資本論』第2章交換過程の第1段落において、経済関係における「人格と人格化」の概念が規定されます。
「商品の物神的性格」は、経済関係として社会的な関係を形成している過程として叙述されます。
第2章交換過程
「商品は、自分自身で市場に行くことができず、また自分自身で交換されることもできない。したがって、われわれはその番人を、 すなわち、 商品所有者をさがさなければならない。商品は物 Dingeであって、したがって人間 Menschenにたいして無抵抗である。 ・・・これらの物を商品として相互に関係せしめるために、商品の番人は、お互いに人〔ペルソナPersonen:商品関係を担う役柄・人格=ある普遍性(商品関係)の担い手、役柄〕として相対しなければならない。・・・この関係に経済的関係が反映されている。この法関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。
人々〔ペルソナPersonen:人格=ある普遍性(商品関係)の担い手、役柄〕は、ここではただ相互に商品の代表者 Repräsentanten von Ware として、したがってまた商品所有者として存在している。
叙述の進行とともに、われわれは、一般に、人々〔ペルソナPersonen:商品関係を担う役柄〕の経済的仮装〔ökonomischen Charaktermasken:経済的な役柄の仮面)〕は 経済的諸関係の人格化〔Personifikationen〕 にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているということをみるだろう。」
(イ) 日経BP社の『資本論』などでは「人々」の代わりに直接的に「人格」と翻訳している。参考までに、日経BPの当該箇所を紹介します。
ただし、「人格」の内容や概念説明については不明のままで、かえって理解しづらくなっています。
『資本論』日経BP社 中山元訳:
② A(商品のフェティッシュな性格P.124)
「だから生産者たちには、自分たちの私的な労働の社会的な関係は、あるがままのものとして現われる。すなわち、労働する人格が直接的に他の労働する人格と作りだす社会的な関係として現われるのではなく、人格の物的な関係として、また物と物の社会的な関係として現われるのである。」
③ B(第2章交換過程P.158)
「この法的な関係または意志の関係の内容は、経済的な関係そのものによって与えられる。ここでは人格はたがいに商品の代理人として、すなわち商品の所持者として存在しているだけである。考察が進むにつれて、人格のこうした経済的な性格という仮面は、経済的な関係が人格化されたものにすぎず、人格はこうした経済的な関係の担い手として、たがいに向き合っているにすぎないことが明らかになるだろう。」
3. 10月新着情報の第1部『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein・定有」について
11月の新着情報は、
比例関係と方程式論の歴史的過程・『資本論』価値方程式論構築の道のりとして、第1部に続いて、第2部ヘーゲル論理学「比例論」と資本論の価値方程式について探求することです。ヘーゲル比例論は、商品価値の量的規定の概念を確立するための前提条件となっていますので、『資本論』と並行して読み合わせが必要となります。
『資本論』の冒頭第5段落
「交換価値は、まず第一に量的な関係〔quantitative Verhältnis:ヘーゲル論理学では量的比例という〕として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率〔Proportion:比、割合〕として、・・・現われる。」
この文脈は、ヘーゲル論理学では、「交換価値は、まず第一に量的比例として、すなわち、ある種の使用価値が他の種の使用価値と交換される比(比率)として、・・・現われる。」と解釈されるのです。
「量的な関係」とは、「比例関係」であるとはっきり認識してゆくことから、交換価値や価値関係の分析が始まるのです。出発地点が明確に確認されてこそ、初めて安全な登山が始まるというものです。
次に、『経済学批判』(10月新着情報)の本文冒頭について。
「市民(ブルジョワ)社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在elementarisches Dasein であることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値という二重の観点で現われる。」
これに対して、『資本論』の第1章冒頭は、以下の通りです。
「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の 成素形態Elementarform として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。」
二つの文章の違いは、成素的「存在Dasein」と成素「形態form」で現われています。
10月新着情報では、『経済学批判』の「Dasein」は、向坂訳に見られるように文脈の推移につれて、
「定有Dasein:規定された有、定まった形をもった有」から、「商品の固有性であった使用価値(質)が、交換価値としても存在しなければならない」属性を背負うことになるのです。
「商品の使用価値自身が、量的存在である交換価値(等価性)として、“存在の仕方Dasein(向坂訳による)”を変化させて二重化することで解決しなければなりません。こうして、一般的等価形態への発展の必然性が論理的に要請されてゆきます。
この「Dasein」から量的関係(量的比例)への移行の弁証法をヘーゲル論理学が提供しているのです。そして、『資本論』第3節で、「価値形態 Wertform または交換価値〔量的な交換関係〕」として、「form」の「活動」が要請されることになります。
11月新着情報の最大の課題の一つが、この「Dasein存在・定有」(『経済学批判』)から「form形態・形式」(『資本論』)への移行を果たすことでもあります。従って、「価値形態論」では、ヘーゲル論理学の理解が不可欠となります。
以上、私たちは9月、10月新着情報の「課題」の連続性について報告を行ってきました。
いよいよ、本番11月新着情報に登場を願うことになります。
恒例に従いまして、メンバーは事務局とレポーター、そして資本論ワールド探検隊の皆さんにお願いしてゆきます。
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